8-6『自愛』
壁一面に薬瓶が並ぶ調剤室。表の受付台には薬を求める住民が数人ほど立ち寄り、薬師たちが一人ひとりに言葉を添えて応じているのが、かすかな音となって届いていた。その奥にある備品棚の前で、二人の治癒師が肩を並べていた。
「無駄口を叩くな」
ルカの他愛ない語りかけは、男が放った冷淡な響きによって断ち切られた。
男はこの診療所における先達であり、フッセルルの一番弟子だ。治癒師見習いのルカにとっては同僚であり兄弟子にあたるが、彼がそれを認めたことはない。
ルカは視線を合わさず、彼の言葉尻に含まれた苛立ちには気付かないふりを通した。過剰な反応は彼の怒りを煽るだけだ。そうなれば彼は拒絶に震え、尖筆を投げ出すだろう。ルカはただ微笑を浮かべたまま、隣で淡々と職務をこなした。
同じ現場に立つようになってひと月が経つが、彼を始め治癒師や薬師との関係は依然として、冷たく濃い霧の中に停滞している。雑談もよく断ち切られたが、不快感はなかった。彼は精神の平穏を保つためにルカを避けることもできるはずだが、あえて最も苦痛な道を選び、接点を持ってくる。それは一種の、制御不能な誠実さのように見えた。
「叫び薬が九、気付け薬が十五、若返りの妙薬が三」
「次は眠り風の薬を、お願い――」
「百十七」
「――します。はい」
机に並べられた瓶を数え、棚に戻す。その単純な反復を、男は黙々と遂行した。ルカが記録し、男が整理する。
ルカは慣れた手つきで記帳を続けながら、ふと顔を上げた。
「この薬の原料は、この花ですよね」
首を傾けると、男はルカの耳に差された一輪の花にようやく気づき、顎を引いた。
「妹からもらいました。食べられるか先生に聞いたら、観賞用だと言われてしまったそうです」
「…………手を動かせ」
「このように花弁に厚みがあるものは、湯通しすると美味しいんです。しゃきしゃきした食感で。夜目の薬を」
「九」
「ネリテの花だと思うのですが、こちらでも同じ名前ですか?」
「赤面薬、二十五」
「二十五……すべて帳簿の記録の通りに揃っていますね」
ルカの表情には隙のない微笑が張り付いていたが、男の方は終始、苦いものを噛み潰したような顔を崩さなかった。
以前、ルカの衣服を切り刻んだこの男は、その理由を問いに現れたルカに対して「お前など踏み潰した蟻以下の存在だ」と吐き捨てた。ルカの心は波立たなかった。魔族の多くが、かつて人間から苛烈な扱いを受けた記憶を抱えている。あのフッセルルでさえ、ここに来てようやく、妹を亡くしたという事実を打ち明けてくれた。大切にしていた世界が、理不尽な暴力によって崩壊したのだ。それは比喩ではなく、現実だった。
だが、その事情を知ったところで、彼らの真の傷口に触れられるわけではない。彼がぶつけてきたのは、言葉にならない叫びだった。その矛先が白衣に向かったとしても、ルカにはその心情が十分に理解できた。
「首輪に名前を彫ってもらって、さぞ命拾いした気分だろうな」
とようやく男は言葉を絞り出した。日付と担当者の名前を書いて、雑記帳を閉じる。彼の表情に、一瞬だけ優越感がよぎった。だが、それが遠回しに武官長の名を侮辱したことになると気づいた途端、己の舌を呪うような顔に変貌した。ずっとその言葉を咀嚼していたのかと思うと、ルカの頬には自然と柔らかな曲線が宿った。ノクスとアルバのようだ、と口にすれば彼は激昂するだろう。ルカはその思考を胸の奥に沈めた。
「はい、とても大切なものを頂きました」
男は返す言葉を探すように口を開いたが、何も出てこなかった。
そこへ、隣室から顔を出した薬師が、二人を苦々しく睨み据えた。
「……取り込み中ですか? 勤務中だと思ってましたが」
その眼差しには明らかな非難の色があり、私語を交わす二人を等しく不快に感じているようだった。薬師は無言で棚から薬瓶を抜き取ると、足早に受付台へ戻っていった。
治癒師の男は、その不躾な視線を浴びると、硬い舌打ちを残して部屋を後にした。ルカもまた、その場を辞そうと歩き出した。だが、受付台の傍らに見知った姿を認め、足を止めた。杖を突き、片足を包帯で固定したシェリングだ。
深刻な面持ちで床を見つめていた彼の手には処方された薬があり、ルカの靴先が視界に入ると顔を上げた。表情がほぐれて、その唇にいつもの温和な笑みが浮かんだ。だが喜びの裏に隠しきれない焦りが感じられた。
「何があったんですか」
ルカの問いに対し、シェリングは一拍置いてから答えた。




