8-5『自愛』
補佐官は紙片を摘まみ上げた。
「この術式は流れが断絶しています。行使された後ということです」
「既に私達が影響を受けていると? あの女の剣も調べたのでしょう?」
「えぇ」
「なら、術式は効果を発揮する前に消えた、この可能性もありますね」
「……」
「あの剣には神秘が備わっている。指で触れる限りの物を救い、穢れなき素質を他者に与える。魔族は、ずっとあの光に脅かされてきた。でもあの女を思い出してください。やる気だけはありますが、どうしたらいいのかはさっぱりわかっていませんよ」
――思い切りが良すぎることにも、とにかくうんざりしますが、と吐かれた独り言からは、養女の件で腕を自傷した事を指しているのだと窺えた。
それでも補佐官は人間に善性があるとは到底思えなかった。
「あの女がこの城へ至った時、それは内側から宿主を食い破る破滅の種であったのかも知れません。しかし芽吹かず、計画は潰えた。私は次の種を警戒しなくてはならないのです」
「次ね……」
時計屋は手駒を摘まみ上げ、元の位置に戻せずに長考した。駒を持ち上げたまま止まることは規則上許されてはいないが、時計屋が別の事に気を取られていることは明らかだった。
そのまま駒を持つ手で紙片を器用に摘まみ上げた時計屋は、顔に近づけて、もう一度目を凝らした。
「この術式では名も辿れませんね……」
次に鼻を鳴らして、すぐに顔色を変えた。
「……血に、何か混じっています」
「何です」
補佐官は紙片を奪い返し、眼前に近づけた。だが、錆びた鉄の匂いが鼻を突くばかりで、それ以上の知覚は得られない。
時計屋は自慢げに己の鼻を指差した。「貴方と一緒にしないでください」と言ってから顎を向ける。
「甘い香りが混じっています。花粉か、あるいは香料でしょう。働きすぎて鈍っていらっしゃるのでは?」
「鈍る…? お前の存在が精神的負荷の原因であることは確かだが……私の鼻は正常だ。匂いはお前から、…」
している、と言いかけて言葉を飲む。
補佐官は時計屋の寝間着を凝視した。何事にもこだわりを持つ男らしい特注の仕立てだが、その裏地までを検分したわけではない。
刹那の逡巡。補佐官は時計屋の襟首を掴み、その頭を強引に前へと押しやった。衣服の裏、肌に触れる箇所を確かめる。
だが、紙片はなかった。乱暴な対応に怒った時計屋が、押さえつける腕をはじき返した。
「ちょっと!……もう、ご心配に与かり、痛み入りますよ」
その皮肉を無視し、補佐官はなおも寝間着の端を睨み据えた。
「詰みだ」
その一言に、補佐官と時計屋は息を呑んだ。
盤面には最後の一手が打たれた。「しまった」と呻いた時計屋は、霧散した集中力を取り戻そうとするが、魔王は立ち上がった。
補佐官は無言で扉へと向かい、主の退室を待つ。
「また来る」
「はぁ……お早いお帰りを。次の夜も、静寂を用意しておきます」
廊下へ出た瞬間、暴風の咆哮はおさまって、窓には雨雫が滴るだけだった。
先を行く魔王の後ろに付き従い、執務室までの道を戻る。「図々しいやつ」と小さく悪態をついた補佐官の声に、魔王は歩幅をわずかに緩めた。補佐官が顔を上げると、魔王はかすかに首を回して横顔を見せていた。
「最後に寝台で眠ったのは、いつだ」
不意の問いに、補佐官は言葉を失った。口をはくりと開き、ゆっくりと記憶を辿る。
「先週、あるいは……それ以前かもしれません。貴方が負傷して戻られて以来、想定外の事柄が次々と押し寄せてきますので……」
「お前は俺よりも実質的な管轄権を持っている。魔族領の禍福を誰よりも熟知しているだろう。だが、それが過ぎれば、自分自身が疎かになる」
長身の背中には、冷たい月の破片を紡いだような銀の奔流がある。この黒衣に流れる銀色を、幾度眺めただろう。幼少の頃、お前が仕えるお方だと父親に連れられて謁見の間で頭を下げたことを、ぼんやりと思い出す。
「……近頃、頻繁に面会されていますね。あの者の予後が芳しくないのは、王国軍に起因するとお考えなのでしょう?」
「断定はできないが、おそらくそうだろう」
「……どうなさいました?」
補佐官は異変を察知した。
魔王は窓のそばで足を止め、ただ縁取られた夜の額縁を見つめていた。その背中も、声色も、表面上は変わらない。だが、何かが決定的に違っていた。
「断定はできない。そうだ。できない。ああ、そうだとも。あのヴァルターが養女にしようと言い出すなど、誰が予想できただろう」
補佐官は前に出て、正面から魔王の顔を覗き込んだ。魔王は両目をきつく閉じ、その肩を震わせていた。口元には歪な笑みが浮かんでいる。だが、それは歓喜とは程遠い、嗚咽を堪えるかのような、苦しげな表情だった。
補佐官は反射的に魔王の上衣を掴み、俯く頭を自分の方へと引き寄せた。
角の先端が触れ、硬質な表層が、ざりと鳴る。
ゆっくりと目を開けた魔王は、「子供のようなことを」と言った。表情が少しやわらいでいた。だが目尻の皺はまだ消えていない。
補佐官は角を押しつけた。
「……すぐによくなります」
魔王はゆっくりと顔を挙げた。角が離れていった。
「頼みがある」
「はい」
「俺が死んだら、あの三人を守れ」
補佐官は上衣からそっと手を離した。
「理由を」
「俺が死んでもお前は俺に仕えるだろう。だが、俺もまた奉仕者である宿命からは逃れられない」
「貴方が……?」
魔王は僅かな沈黙ののち、言った。
「何かを腹に入れ、湯を浴びろ。それから寝台で眠れ。執務はもういい……お前には休息が必要だ」
「そんなものいりません」
魔王はふっと、短く笑った。また歩き出したので、補佐官は掴みかかりそうになる気持ちを抱えたままあとを追いかけた。
「何を抱えていらっしゃるのです。私に教えてください」
「いいや。お前の心配事を増やすだけだ」
「もう、遅いのです……」
補佐官は懇願するように言った。
「もうやめてください……」
ときに魔王は友人らしく、傷ついた顔を見せることがある。今の彼がそうだ。だが、最初から主従として出逢ってしまったのだ。疲弊した顔に無表情を張り付けたあと、かつての友は口を閉ざした。
「すまない、イリアス」——最後にそれだけ言って立ち去った。
窓はもう鳴っていない。城を揺らすような暴風もない。だが補佐官は震えていた。
イリアス、——その名で呼ばれたのがいつ以来であったか、もう思い出せなかった。
彼は廊下の真ん中で、長い間、石像のように動かなかった。
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