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【毎日8:10更新/9章:クライマックス開幕!】きみが死なない、その朝まで  作者: 夜行(やこう)
第八章

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8-3『自愛』

「まずは道具の名前を覚えるところだ。これは俺が若いころに使っていた手控えだ。古い情報には注釈をいれておいた。まぁまずはとっつきやすい場所から覚えていけばいい。ノクスとアルバの為になるところからな」


棚の前に立って、瓶を一つずつ取り出す背中のなんと頼もしい事か。ルカは白紙の雑記帳に、満面の笑みでフッセルルの言葉をすべて書き取った。薬草の名前、症状の見方、包帯の正しい結び方、正しい消毒の仕方、悪い消毒の仕方。知識として断片的に持っていたものが、順番を持って繋がっていく感覚があった。

水を吸い上げる花のように、ルカは色々なことを覚えていった。字を教えてくれた母、生き残る方法を教えてくれた酒場の師匠、そしてフッセルルと武官長はルカの新たな師となった。


「勘は悪くない」とフッセルルが言った。

開きすぎて紙の端がくたびれた雑記帳を見て、「こんな事まで書くな」と笑われる。


覚え帳が積み重なる頃、アルバが柔らかい笑みを浮かべて「お姉ちゃん」と言った。焦点が合っている。目が、自分を見ている。ルカはその場に釘付けになった。

無音がルカの上に天蓋のように掛かる。だが、その一枚の純白もまた柔らかな笑い声に開かれた。頬に赤い照りを放って、アルバがもう一度「お姉ちゃん」と呼ぶ。ルカは慌てて駆け寄ろうとしたが、脛を打ってしまい、腰を折り曲げて床に倒れ込んだ。


「お姉ちゃん!」


痛みが募る場所に二人の手が重なる。

顔をあげると、崩れた家屋の中に居た。隙間から差しこむ日を浴びてアルバの髪が光沢を見せている。煮込み料理を作るノクスの目は、羊歯(しだ)の葉と同じ深い緑だ。三人分の器が置かれた石卓にはいくつかの窪み、椅子にしているのも平たい石で、壁は蔦と一緒になって黄緑になっている。誰かが住んでそして捨て去ったあとの気配は、石という石に染みついていた。母と暮らしていた邸の記憶はあやふやで、思い出されるものに感情も呼び起こされないが、三人で過ごした四年余りはいまだありありと色鮮やかだ。


アルバを抱きしめ、そしてノクスも腕の中におさめると、彼は照れくさそうに顔を背けた。よく顔を見せてと背中を擦ると、羊歯(しだ)の葉と同じ深緑があった。心を射るような虹彩に、晴れやかな光が上下していた。



-



昼過ぎ、診療所三階にある執務室で書き物に没頭していたフッセルルは、ルカの来訪があっても顔を上げなかった。

この頃になるとルカは仕事をあらかた覚え、窓ではなく扉から出入りするようになっていた。いまだに人間に対するあからさまな拒絶を受け、まとう治癒師の衣を嫌悪し、引き裂かれる事件なども起こった。存在自体に影を曳かれることは覚悟の上で、ルカは犯人を見つけると、「どうすればよいですか」とわざわざ本人のところに言いに行った。


青白い顔で帰ることもあれば、衣の下に打撲痕を作って帰ることもあった。腹を庇っているとか、擦り傷を隠しているといった話はノクスやアルバがこっそり伝えてきた。

まだ幼い二人にも、角の生えた種族のことや、個室の外へ出ればどれだけ危険かを教え込んだ。必要な事とはいえ、無垢な存在の中に毒を放り込むような作業は不快感があった。差別が生み出される場所、その根底にあるもの。魔族と人間とは。言葉にすると思考が整理されて、いかにうまく多くの事を忘れていたのか突きつけられる。


「先生、これを預かってもらえますか」

「好きに置いとけ」


生返事で答えた。ルカの声は穏やかで、やさしい信頼が感じられた。まだ敵は多い、だが自分は見方だと認識されている。傷が癒えて患者ではなくなった今、フッセルルにとってルカは極めて勤勉な弟子だった。


「用事か?」

「これから出掛けます。補佐官との面談と、そのあとは食事。終わったら一度戻りますが、鉄騎隊の狩りに参加します」

「陛下との会食か? もうそんなに日が経ったのか」フッセルルは尖筆の尻で耳の裏を掻きながら言った。「最近忙しすぎだ、ちゃんと休んでんのか」


それは先生の方ですよ、と、ルカは目を細めた。そこにはこゆるぎもしない慈愛が息づいていた。

くすくすと笑われ、何だか気恥ずかしくなったフッセルルは顔をあげる機会を失した。書き物に区切りがつくとようやく白湯でも入れようと席を立った。ルカが退室してからは時間が経っており、凝り固まった体をほぐしながら、年相応の苦しい声をあげる。そういえば、アルバには蛙の鳴き声に聴こえると言われたことがある。


首を大きく回していると、棚の横に見慣れないものが置いてあった。主張の強い長物は視界の端にあっても見逃すことはできない。

それは布に包まれた十字の棒だった。帯で締められている布に指を差しこみ、めくりあげる。予想はついていたが、本当にそうであるかはこの目で確かめたかった。


「まったく、お前の主人はどうなってんだ?」


勇者だけが持つことを許された剣は、置物のように沈黙している。角灯の灯を反射して煌めく細かな意匠と、はめ込まれた宝玉に自分の呆れ顔が映っていた。


フッセルルは空の杯を持ったまま、その場にへたり込んだ。額に手を当てて、顎に手を当てて、結局決まりが悪く、溜息と共に頬杖をつく。剣だけが、涼しい顔をしていた。



-



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