8-2『自愛』
ルカは膝の上で手を重ねたまま、じっと黙っていた。
「ルカ、顔を上げろ。お前には不快な比喩かも知れんが、聞け。奪い合うようにお前をいたぶった者たちは、お前をのぞきこんでいながら、その中に黒い影を見ていた。気づくと、女が横たわり、殴りつけた最初の意味などとうに忘れ去っていたと、そう陳述した。人間が悪く、自分たちには一切の非がないと。怒るな、罪を許せと言っている訳ではない」
鈍音が響く。フッセルルが拳を自分の太腿に叩きつけていた。体を前に倒し、長椅子から崩れ落ちそうになる。心配して膝を浮かせたルカだが、勢いつけて顔をあげたフッセルルは激情を胸中におさめようと結んだ口をしきりに動かした。ノクスとアルバの前では決して見せない激情は、ルカでさえ初めて見るものだった。
「……どうして、そんなにしてくれるのですか」
戸惑いとも涙声ともつかぬ声で、ルカは自分の胸の中に溢れている思いを口にする。どうして、どうして―――答えのない問いが胸の中で膨らんでいた。この人たちは見返りもなく、こんなにも優しくしてくれるのだろう。
それが余りに頼りない声だったので、男二人は片や渋い顔をし、片や慌てて手巾を差し出した。
「てめぇ、泣かすんじゃねえ!」
「それよりもだ。どうして気遣ったことになる……腕を落とそうとした事といい、お主なかなかに…………」
と、話がルカに移ると、フッセルルもまた「そうだ、二度とするな。二度とだぞ」と訴えた。低音で覆われた声には有無を言わさない迫力があり、ルカは子供のように身を竦めた。
「とはいえ、泣かしたのはわしではない、お前だフッセ。ついでに吐いておけ。養女にする手続きを踏もうとしていたことも、どうせ職を辞することも考えていたんだろう」
「だッ」
フッセルルははじかれたように武官長を見た。言いやがった、という顔だった。口を歪めていたが、ルカがまだ問いかける視線を送っていることに気づき、フッセルルは眉間を手で押さえ、そのまま本音を隠すように目元を覆った。だが、覆われていない場所は真っ赤で、言語を絶した装いの底に、ルカへの献身が露になっていた。
「や、やめろ……もう」と顔全体を手のひらでぐしゃぐしゃと拭う。話を転じようという思惑を感じて、椅子に背を預けていた武官長はわざと身を乗り出した。何かとんでもない事を言う気配を察知し、ばっと背筋を伸ばしたフッセルルをみて、してやったりと肩を揺らした。
「ふはっ、やめろ、やめろ。男ならば余計なことは口にせん方がいい。後始末に困るだけだ」
「お前が言うッ、チッ……くそが」
身を斜めにしたフッセルルを横目に、武官長は男同士の会話を切り上げた。物事を大まかに統括するべく一転して感情を退かせる。
「今後の話をする。働くのはあとにして、まずは充分に休め。焔咳病の治療は、医官長であるフッセルルが引き続き責任をもってあたる。また、グリュックスゾーン家の役宅にお前たち兄弟の部屋を与える。三人とも養子となり、実子と同じ権利と義務が発生するが、特に制約を設けるつもりもない。自由に過ごせ」
「……そうはいきません。貴方が作ってくださった時機を失ってはならないように思います」
「ならば何とする」と武官長は驚きもせず切り返した。
「フッセルル先生のお仕事を覚え、先生のご負担を減らしたいです。狩りにも同行します。他にやれと言うなら、すべて引き受けます」
「言葉はいずれ自分へ還る。本心でも決して大口を叩くな。教訓にしろ」
「はい」
「乗馬の経験はあるのか?」
「子供の頃に一度だけ」
子供、と口元が形作られる。武官長は顎髭を触り、何事か思案する間を開けた。
「……王国では、乗馬を嗜むのは騎士だけだ。子供に騎乗を許したとあれば、それなりの家の出なのではないか? 名はなんという」
「何もわかりません。母が病死したあとに家を追い出されて、それからは三人で廃屋を転々としていました」
二人の男の顔が一層険しくなったが、ルカは記憶の中ですでに白く朧気になった邸の事を、あの場で過ごしていたひとときを回想していた。
「追い出されたのはいくつの時だ」
「四年前、十四の時です」
「……父親はどうした」
「一度顔をみたことはあります」
「……………」
窓の向こうは、淡い薄明かりに沈みつつあった。押し黙った二人の顔に濃い影が乗る。ひどく重い嘆息のあとで立ち上がったフッセルルが窓を閉ざした。
長椅子の背に深く身を預けた武官長はフッセルルの姿を目で追ったが、声を掛けるには何か今一つ思考が固まらず、音を成すことができないようだった。
窓掛けが引かれる擦過音は、髪の毛が顔にかかる程度のものだった。だが、武官長は苛立ち、舌先で歯をなぞっては喉に唸り声を通した。
それから、ルカは自身の言葉通りに治癒師としての職務に携わり、夜間には武官長に付き従って狩りに同行するようになった。鉄騎隊の隊員たちは、抗議こそなかったものの心は固く閉ざされてルカは景色の一部とみなされた。
だが武官長が黙っているはずもなく、隊員に対しルカと共に行動するように命じた。狩りは基本的に班単位で編成され、互いの命を預けあっている。週ごとにルカが加わる班を変え、実力を知り、連携を取れるように、苦行を全体に課した。
同時にフッセルルによる指導も始まった。




