6-5『犠牲』
部屋の中は暗闇だった。壁を埋める木板の真ん中に寝台が並び、それがかえって廃墟の中に二人を置いていったことを突きつけられて、ルカはたまらず床を蹴った。
「ノクス…………アルバ………」
後悔を脱ぎ捨て、母のように、父のように、愛をその声に詰め込む。
二人の瞼は閉ざされたまま反応がない。首まで掛けられた布を剥ぐと、肌は真っ赤に腫れあがっていた。思わず頬に手を押し当てたルカは二人を往復する間に、そばにあった水差しを倒した。上部の平たい蓋が首を折り、真っ暗な筒の中をみせる。あるはずの水は一滴もこぼれることはなかった。水など入っていない。いつから?
ルカは急いで腰帯から水袋を外すと、布に少量の水を含ませてからひび割れた唇に押し当てた。少しずつ握る力を込めて、手巾の輪郭から水をにじませる。ルカは青ざめながら弟と妹の介抱を続けた。二人の体温が維持されているということは、生きようとしているということだ。
「少し離れます。下に行って経過記録書を持ってきます」
と、時計屋はルカの方を見ずに少し声を抑えて言った。弟妹の症状から薬効不足を察した時計屋は、投薬の状況を確認する必要があると思った。
時計屋が退室すると、ノクスの目が薄く開いた。白目が赤く染まり、表面の透明な膜の中にさえ沸騰した熱がとどまっている。ルカは頭上に顔をだして、頭を、頬を、唇を撫でて、鼻先を合わせた。呼気に弟の名をいくつ含ませても、濁った目と視線が合うことはなかった。
「ノクス……私よ、おねえちゃん…………ここにいるからね」
隣の寝台でアルバが咳きこむ。唾液に濡れて変色した衣服の下で小さな胸が激しく上下する。悲しみとは無縁の幼い顔に新しい涙がつたっていた。ルカは二人に身を寄せ、声をかけ続けた。
時計屋が戻ってくるまでにそう時間はかからなかった。彼は勢いよく扉を開けると、張り詰めた面持ちで言った。「気づかれています」
「跳ね橋が動いています。既に対岸には王国軍の歩兵らが詰め寄せ、治癒師や薬師たちは何事か始まるのかと縮み上がっています。どうやら予期された巡回ではないようです。塔の周囲を赤い組紐を巻いた大鷲が飛んでおりました」
「三官に嗅ぎつかれているようだな」
話を聞いていたルカは音が出ることも構わず、一面を覆う木板を引きはがして窓の下を覗き込んだ。
跳ね橋の両端を吊り上げている鎖が動き、力強く下へ下へと降りていく。本来城塞側にある跳ね橋が、堀を挟んで向かい合う塔門から掛かっている。城塞ごと隔離するために手間をかけて造りなおしたのだとしたら、王国に狂気を感じざるを得ない。
やがてルカの目は、対岸の門を埋め尽くす銀色の塊にたどりつく。銀の鎧に身を包んだ兵士たちが興奮を示して対岸の塔を見上げる。正門の奥、烏毛の馬が大きな瞳の黒さをみせた。目が合っているとルカは訳もなく直感した。馬がいななく。前脚を空高く蹴り上げた瞬間、それが合図となった。すなわち、王国軍の一群がひとすじの矢となって雪崩れ込んできたのだ。
ノクスとアルバを抱えようと振り返ったルカは時計屋の顔色がさらに悪化し、固く結ばれた唇を嚙みしめる姿をみた。彼らの頭部には角があり、自分やノクスとアルバにはない。
今にして明らかなことは、魔王と時計屋の二人が人間の王が統治する国の中枢にいるということだった。ルカが弟妹を救いたいと思うのとは別に、二人は命がけで同行してくれているのだ。
時計屋は魔王の前に立った。それはちょうどルカと魔王の間に割って入るような構図となった。
「蹴散らそうなどと考えないでください」
「……その体では転移できまい。力が何かに啄まれているのだろう。この地にはいろいろな悪鳥がいる」
「……貴方の為なら死も厭いません」
やりとりを背にルカは荷の中から布をとり出してノクスの体に回した。まずは弟を背負い、どう動いても別れることがないように布の端を腹の前でかたく結びつける。同じようにアルバの体も包んで、抱きかかえてから帯をまわして三人の体を縛った。容易にほどけない結び方はかつて師に教わったもので、二人を抱く方法は死の森で助けた男の姿を真似ていた。
二人分の体重がかかる。寝台から離れる瞬間だけ下腹と足に均等に力をかけて、慎重に腰をあげた。重いが、この重みは命の重みなのだと思えばどうということはない。
「出られます」
ほとんど同時に足元から突き上げるような衝撃があった。空気が震え、城塞塔は紙細工のように揺さぶられる。弟妹を抱えたルカは時計屋を支えるために飛び出した。よろめいた時計屋の腕を掴むと彼は咄嗟に拒もうとしたが、反対側では魔王が肘を掴んでいた。三人はしばし一塊となって振動に耐えた。
ルカは自分の肩に魔王の手があてがわれていることに気づいた。目深の頭巾に隠された顔はごろごろと曇った空のようであったが、少なくとも彼がまったく心に乱れや迷いがないことを表していた。




