第二十四話 敗荷(三)
ケイさんが気遣わしげに私の首を撫でる。
「どうやって確かめればいいか、見当もつかない。でもきみは――そうなんだな」
ため息が落ちてくる。
「詩織、さっきの花を白梅の前で出したことはあるか」
「ええ、一度だけ。あの、――台風の日に」
私たちの間に沈黙が下りた。あの台風の日。お久さんを失った朝。
「小梅の前で、ということになるとあの一度きりなのですが――」
コミュニケーション端末である憑依体の目の前であったが、あのときは白梅荘の敷地外、しかもトラブルの最中だ。白梅があれをどう認識しているのか、白梅が認識したのかどうかさえ分からない。肉の花を開かない状態であれば何度か敷地内で探索子を使っている。嵐太郎にも同じ能力があるように、当主の一族によくある精神干渉が発現しているだけと思われているような気がする。
「白梅は気づいていないと思うんですが、楽観視し過ぎでしょうか」
「分からない」
「ダイブを習得したときのように何度も練習しなければなりませんから、いずれにせよ部屋の中で行うほうが安全だと思うんです」
「確かにこうしていつ誰に見られるか分からないところで意識をつなげるというのも無防備だ」
今のところ精神干渉力のあるハイブリッドコードキャリアは私と嵐太郎だけだが、はっきりと顕現しないだけで異能を持つ人がいないとも限らない。予備知識なしに背面に半分透けた触手をどっさり背負っている女を往来で見かけたら腰を抜かすに違いない。
そういう偶然だけではない。川向こうの盟主がどう動くか分からない。今まではとにかく小梅を渡さない、そのことが最も重要だったが、それに加えてこれからは私がハイブリッドチャイルドであるかもしれないという情報も慎重に伏せておかなければならない。
切れ端のような雲が一片浮く高く澄んだ空。ついこの間まで厳しい残暑が続いていたのが嘘のようにさわやかな秋晴れだ。夏に美しく大きい花を咲かせていた蓮はころころとした丸い種をびっしりとはちすに実らせ、大きな葉は萎れところどころ破れている。花の季節を終えた蓮池の小島には私たち二人しかいない。敗荷を震わせる風がやわらかく渡る。朽ちた植物がどろりと堆積する沼のようなため池の水面が秋の空を映す。
夏の花が咲いていたときとずいぶん違っている。花が落ち、葉が破れ、朽ちて凄まじくものさびしい眺めだ。でもこの景色もまた趣深い。
あの大きく美しい花が咲いたさまを見たから思う。
芽が出て、つぼみがふくらみ花開き、種をなし葉を落として冬こもる。一年の周期で環状に繰り返されるいとなみ。私たちに知恵者の遺伝子が組みこまれるずっと昔から同じ色の、同じ形の花を咲かせる蓮。
――本当にそうかしら?
――何もかも一人で決めてかからないで、ちゃんと周りを見て、考えて。
――そして圭一とよく話して。
戸惑い、傷つき、道を踏み外し、いずれ滅ぶ定めを負っていても私たちもまた生き物なのだと気づかせてくれた人のゴージャスな微笑みを思い出す。
「その……私たちの今後について、なんですが」
「不安か?」
そりゃ、まあ。
ケイさん側の、盛り上がっちゃうと獣化しちゃう問題はクリアになったけれど、出産はおろか妊娠すら危ぶまれるくらい生命力いっぱいいっぱいに異能をマッピングされている私のほうはどうしようもないわけで。
「問題ない」
「でも――やっぱりケイさんは普通の結婚生活を送れるパートナーを見つけたほうがいいと思うんです。結婚して子どもを産んで育てて。――私はできない。私にはできない。生まれてくる子どもがハイブリッドコードキャリアかもしれなくてしかも育てられないなんて――」
「詩織」
目を逸らそうとしたけれど、頬を大きな手に包まれた。
「子どもを産みたい、そうなのか」
「――それは」
「本当はそう思っている。そういっているように聞こえる」
普通に結婚して、子どもを産んで育てる。そんなこと、望んでいいと思えない。でも、ほんとは。
十数年後には「クソババー」「木の股から生まれてきたとでも?」だのなんだの、「こんなもん食えるか」「誰がメシマズだって?」だのなんだの、ギスギスしたやり取りをするんだとしてもそれでも、すべてがほしい。初めて出会う、生まれる日のこと。初めての離乳食。初めて立ったその日。初めて触れる海。雪。風。喜びも苦しみもすべてがほしい。たとえ生まれてくる子どもがハイブリッドコードキャリアだとしても。あるいはその子から生まれる孫がハイブリッドコードキャリアになるとしても。
異能を身の内にいくつも抱えて生命力を余計に食っているのでなければ、そうしたい。妊娠と出産で残りの命を燃やすのでなければそうしたい。生きて命をつなぎたい。
「――私、生きたい。せっかくあなたと出会えたから、もっと長く一緒にいたい。こんなこといってはいけないかもしれないけれど――できれば子どもも育てたい」
頬にあてられた大きな手に自分の手を重ね、視線を合わせる。大きい人が親指で私の頬や唇を撫でる。
「そうしよう。きみがそうしたいなら」
「でも」
大きい人の指が私の唇に触れる。
「きみはどこか自分の命を軽く扱っているところがあって、その投げやりなところがとても気がかりだった。きみも、俺も、もうひとりじゃない。つながっている。義務を果たすことだけが人生じゃない」
ケイさんが微笑む。浅黒い肌に彫りの深い顔立ち。柔和な光を宿す目に私の顔が映る。
「もっと長く一緒にいたい、そういってくれて嬉しいよ。詩織――俺の女王」
唇と唇が触れる。ただそれだけの口づけがうれしい。ただ、ちょっと気になることが。
「その――『女王』って何ですか?」
「ん?」
「周平さんも――」
ケイさんの口がへの字になった。
「あいつもきみのことを自分の女王だといったのか」
「いいえ、『ネズミの女王なんだな、アンタは』っていってました」
すごく気になるんですけど。ネズミの女王っていったい何なんだ。某キャラクター遊園地で踊る着ぐるみたちに君臨するボンテージ装束の女性が再び脳裏をよぎったがきっとまったく関係ないしそんなものはまず間違いなく存在しない。
ケイさんは大きな掌で口のあたりを覆い、つい、と目を背けた。顔が赤い。そしてもごもごと何かいい淀んでいる。
「女王」とやらは羞恥ワードか何かなのかね。そのわりにはきみたち、シリアスな場面でたびたび「女王」発言しているように思えるのだが気のせいかね。そんなに赤面されると困るんですけど。さっきのいつ人に見られるか分からないチューより羞恥なんですかね。
視線を追いかけて見上げると、やっとケイさんが目を合わせてくれた。
「もしかして訊いちゃいけないことなんでしょうか」
「そんなことはない。その、あの、俺たちの、『島』の習慣でその」
しどろもどろになっていたケイさんがかたちを改めた。
「詩織、俺の女王になってくれ」
何て答えればいいんですかね。
今まで数回いわれてきたんだが、私が「女王」ってのは既定路線っぽいと思うんだよね。「女王」が何なのか分からないままそうなっちゃってるような気がするんだよね。なのに今更「なってください」ときたもんだ。これはあれか。少年少女の「おつきあいしてください」「いいよ」みたいなノリ……のわけはないな。違うんだろうな。
「いいですよ」
わけが分からないがここは曖昧にしてはいけないシーンであると見た。そしてそれで正解だったらしい。ぎゅうぎゅうと抱きつぶされた。
――ちょちょちょちょっと、息が、息ができませんんん!
いいたくてもいえないのでケイさんの腕をばっしばし叩いて「参った」のタップアウトした。ようやっと私が危機に瀕していることに気づいたらしくケイさんが腕を緩めてくれた。身体がみしみしいってたんでけっこう危なかった気がする。




