第二十三話 敗荷(二)
神社の境内から池を眺めた。
夏、青々と茂っていた蓮の大きな葉が色褪せ萎れ、ところどころ破れて垂れ下がっている。破れ乾いた葉が僅かな風に揺れ、音を立てる。
「花は咲いていませんね」
「さすがにもう十月だからな」
隣に立つ大きい人のゆったりとした低い声が降ってくる。目を合わせると、大きい人は私の手を取った。
「話があるんだろう?」
ケイさんは穏やかに微笑んだまま私の手を軽く握り、掌に指を滑らせた。そのあたたかな感触に心が騒ぐ。
「ええ。話したいことが、たくさん」
白梅荘の中では住人や白梅の耳目を気にしなければならず、こうして外に出ればどこで誰に聞かれるか分からない。ここも夏に川向こうの盟主と遭遇した場所だ。せっかく外に出たけれど、話題に困ってしまう。
「残念です。一緒に蓮の花を見られなくて」
「そうだな」
握られていた手をいったん離し掌を合わせる。ケイさんの胸に頬をあて、目を閉じた。私の意識がアンカーと接続するなじみのある感覚が立ち上がる。
烈しく厳しい日差し。蝉の声。夏の温気に満ちた空間を、涼風がわたる。目の前の敗荷が夏のみずみずしい、記憶の中の姿に塗り替わっていく。
「ほんとうにきれいだったんです」
大きなしずくのようなかたちのふっくりとした蕾。水の中からすっくと立ちあがった茎の上に咲く大輪の美しい花。中央の黄色いはちすを放射状に囲むぽってりと厚い花びらにあざやかな赤紫のすじが細やかに走る。
「――すごい」
うっすらと、涼やかで甘い気配がする。香りなのか音なのか、何か分からない快い気配は、とらえようと探すうちに空に立ちのぼり、消えた。
「詩織、今の――」
しまった。必要もないのに探索子を出してしまった。後頭部から背中にかけて夥しい数の探索子が触手のように生えのたうつ。精神干渉力のないケイさんには見られずに済んだけれど、化け物じみて――いや、違う。自分が化け物そのものだという事実を目の前にするのは気持ちのいいものではない。
「すみません」
探索子を引っこめ、身体を離そうとすると、太く長い腕に閉じこめられた。
「詩織、もう一回」
「え?」
「さっきのをもう一回」
「……」
「あれはきみが見た蓮の花、なのか。音楽のような、香りのような何かが立ちのぼる記憶の中の蓮も美しかったが」
ケイさんはため息をついた。
「ああ、なぜ隠してしまうんだ。いや違うか、きみがアンカーと呼ぶあの、目覚まし時計のようなものとリンクが切れてしまったから見えなくなったのか」
大きくあたたかい掌が背中から後頭部を撫でる。
「まさか……見えたんですか」
「ああ、見えた。きみの首の後ろに花が咲いた」
「花?」
「後ろだから自分では見えないのか? 花に見えた。朱く透きとおって光っていて、長いおしべのようなものがたくさん宙に浮いて揺らめいて」
ケイさんが私の首の後ろを撫でながら微笑んだ。花。長いおしべ。あの触手のような探索子のことだろうか。そんな綺麗なものではないと思うが。
もう一度アンカーに意識を接続する。ケイさんの心のセノーテが喜びの光にあふれているのを感じる。
「がっかりされると思いますよ。花にたとえるような美しいものではありませんから」
首をかしげるケイさんの手を後頭部から外す。
「触手のようなものなんです。物理攻撃も可能ですから手をあてていると危ないです」
「今は出してないの?」
「アンカーと私の意識がつながっているけれど、何も見えないでしょう? あんなもの、ぶらぶら出しっぱなしにしません。――ああ、もう。首に手を近づけちゃ駄目。ほんとに危ないんですから」
さっきどうしたんだっけ。そうだった――。手と手を合わせる。ケイさんの胸に頬をあて目を閉じ、探索子をゆっくりと展開した。
「すごい……。すごくきれいだ」
頭上にため息が降ってくる。腰にあてられていた手が離れた。
「さわってもいい?」
「先が尖っていますから怪我をしないよう気をつけて」
ケイさんの指が探索子のケーブルの部分にそっと触れる。お互いの身体がびくり、と震えた。
「痛い? ――いや、痛いのとは違うんだな。でも乱暴にしないよう気をつけるよ」
「お願いします」
探索子のひとつを恐る恐る伸ばしてケイさんの顔に近づけてみた。大きい人がその探索子をそっと指でつまむ。そのまま引き寄せ、口づけた。熱い息と心もとないくらいやわらかい唇。感触があまりに鮮やかで目が眩む。
「――困ります」
「すまない。困る、確かに、そうみたいだな」
「もう、しまってもいいですか」
「もう少しだけ――いや、やめておこう。すまない。困らせてしまうな」
名残惜しそうに触手を撫でるケイさんの感覚も、優しく撫でられて震える私の感覚もアンカーを通じて共有している。探索子をしまい、ため息をつく。共有していた感覚が閉じた。
恥ずかしい。とても恥ずかしい。でも。
私の首の後ろから生える夥しい数の触手、ペンシルロケットとケーブルのようなそれは幽霊のように透けているのに確固としてそこにある。ゆらゆらと宙を漂うそれらはおぞましい。ケイさんの感覚を通じて見てもそれらの姿は変わらない。それなのに
――きれいだ。
ケイさんがそう感じているのが分かる。嬉しい。夢のようだ。同じものが同じように見えているのにこんなに感覚が違うなんて。不思議だ。
「すまない。泣かせるつもりはなかった。ごめん、つい夢中になって。また困らせてしまったか」
「違うんです。違うの。――恥ずかしい。でも嬉しくて」
「とてもきれいだった」
「あんなおぞましい姿なのに――」
「違う。おぞましくなどない。きみは美しい」
つながった感覚を思い出し、赤面してしまう。
「私たち、感覚を共有したんですね」
「そうみたいだ。――きみはその、もしかして――」
「ええ。あなたの心にダイブしている間、また記憶の封印が解けて分かったことがあるんです。私――」
「待って。ちょっと待って。詩織、またアンカーと接続してくれ」
「――えっと、またあれも出さなきゃ駄目、ですか?」
「できれば」
再び感覚をつなげた。ケイさんの心の深海底にいたときに封印の解けた、ハイブリッドチャイルドに関する記憶を共有する。
ハイブリッドチャイルド。知恵者にない環境耐性を持ち、長命で、穏やかで知性が高いとされる知恵者と交配可能な個体。播種計画の最終目標。百代かかってやっと生まれたただ一人の成功例、私はハイブリッドチャイルドだ。
「そうだったのか」
「――すみません」
「知らなかったんだから仕方ないだろう。――それから余計なことを考えるな。俺がきみを手放したりしないのは分かっているだろう」
――他に誰もいないからあるじとして認めてやったというのに、これだから野良は。
おそらく白梅はこのことを知らない。祖父がなぜハイブリッドチャイルドである私の存在を隠したのか、分からない。しかし祖父がこのことを私自身からも隠していた以上、白梅に知られないようにしたほうがよいのだろう。
「しばらくはこのままで。様子を見よう」
「そうですね」
ケイさんは探索子に触れようとして、手を止めた。探索子やケーブルの表面に痣のような曇りが出ている。左腕の内部で契約錠がぎしぎしと軋む。
「詩織、すまなかった。この花をしまってくれ」
つながっていた感覚が閉じた。
「痛くないか」
「平気です。それよりも――こういうふうに使えるとは考えもしませんでした」
「確かに。今のは試しだったからほんの少しだけれど、おそらくその気になれば相当のスピードで多くの情報のやり取りができそうだ。でもきみに負荷がかかり過ぎる。俺が――同じじゃないから」
「そこは気にしないでください。今まで攻撃にしか使っていなかったんですから。こうしてあなたとつながれると知って私、嬉しいです」
ケイさんが気遣わしげに私の首を撫でた。




