第二十話 良宵(四)
表情の曇りを払うように片眉を上げると
「昔の話よ」
ゴージャスさんは笑った。
「――そんなわけで圭一はふられちゃったんだけど、凶暴化したときになんとかしてくれるのは美奈子だけだと思いこんじゃったわけ」
「その思いこみをどうにか――」
「どうにかするって、どうしようもないわよ、こちとら死人だから」
ああ、そうだった。
「同じ女としてね、より条件のいい男を掴みたいという気持ちは分からないでもないわ。でもひっかきまわす前にリサーチくらいしっかりしとけよといいたいわね。ほんっと迷惑。だからね、この女嫌いなのよ」
ゴージャスでマッチョなんだけど、その前に母親なんだなあ。そういう立場の表明をためらわない潔さが現世のしがらみから解放されたことから来るのか、優先度合いの洗練された整理術から来るのか、分からない。そういう話も聞いてみたいと思っていたのだが、ゴージャスさんの言葉に疑問がぶっ飛んだ。
「人数は少ないんだけど、慰撫適性がない女性もいるのよね」
それが私なんだろうか。
「あなたの場合、違うと思う。うちの息子、圭一のこと好きなんでしょ?」
「ええ」
「山嵐のつんつくくんはどう?」
――つんつくくん。
幼いころの愛称なんだろうか。かわいらしい。
「ええ、好きです」
「それだけはっきり答えられるんだから、慰撫適性ゼロってのはないわ。慰撫適性ゼロって要するに動物嫌いのこと」
「――え? それだけ?」
「それだけ」
ちょっと待て。あんなに悩んだのに無駄だったってか。
「そういうこと」
「ひ、ひどい」
「――だからさあ」
ごごごごご。
遠くで砂煙が立っている。明かりの乏しい深海底に目が慣れてぼんやりとだが遠くも見えるようになってきた。音を立てるつむじ風のような水の流れはこちらに向かってやってくる。
「少し離れようか」
「ええ」
連れだってズリ山から離れる。その前に慌ててふたつの記憶結晶を掴んだ。ゴージャスさんはものいいたげだったが、好きにさせてくれた。
のったりと重い水をかくようにしてズリ山から離れると、つむじ風のような渦が遠くから近づいてくるのが見えた。高速ベルトコンベアと同じルートを疾走し、
ずうううううん。
ズリ山に激しくぶつかり、四散する。ズリ山のてっぺんから記憶結晶がばらばらと崩れ落ちるのが見えた。地面に叩きつけられて崩れるものもある。形をとどめられなくなる記憶結晶はその崩壊の瞬間、最後の炎を燃やすようにぼおっと輝く。そこかしこで光がともり、消えた。最後の光、燃え上がる炎は忘却に対するはかない抵抗にも見える。美しいけれど、さびしい光景だ。
「荒れてるわねえ」
ゴージャスさんが苦笑する。
「歩こうか」
重く、熱い水がゆっくりとだが、流れを作っている。今まで動きがなかったのに。
「ここ、何だと思う?」
ケイさんの心の中の深部。風穴、セノーテの奥にあるここは深海底に似ている。
「そうね。ここは欲望の生まれるところよ」
風穴は心の表層に現れるはっきりとした感情と同質のもので、その感情を表に出すか出さないかは心の主が決めるらしい。セノーテは感情と関わる記憶結晶の現れる場所なんだそうだ。そしてここ深海底は感情になる前の欲望の生まれる場所だという。心が揺り動かされると、反応して水が強く流れる。その強い流れが感情に分化する前の欲望を呼び起こし、記憶結晶の崩壊と循環を促す。
「あまりこの流れに乗らないほうがいいわ」
ゴージャスさんが遠くを指さす。重い水がゴージャスさんの黒髪をふわりふわりとなびかせる。
「まだ距離はあるけれど、あっちは海溝よ。崖になっていて、急激に深くなっていくの。たぶん、足を滑らせたら帰ってこれない」
帰る。どこに?
上に顔を向ける。落下地点では見えた、きらきら輝く鉱石の埋まった天井も、ここは深すぎて見えない。この水の流れが収まったらあの記憶結晶のズリ山に戻るのだろうか。ケイさんにとって忘れたいものが集まった記憶の墓場に。
「もうしばらくするともっと荒れそうね。嵐が来るわ」
少し前を歩くゴージャスさんを追って歩く。ヒールの高い靴を履いているわりに危なげなくさくさく歩く。私は裸足だ。
あれ? いつの間に裸足に? お久さんの元家族と面会したときにはかかとの低いパンプスを履いて、パンツスーツを着ていたはずなのに、いつの間にか寝巻に着替えている。ポケットに入れておいたはずの二つの記憶結晶は寝巻の袂に入っている。今まで気づかずに歩いていたというのに、いったん気になると止まらない。あまり余裕のない袂でがっちがっちぶつかっている記憶結晶を取りだした。壊れていない。大丈夫だ。両手それぞれにひとつずつ握って歩く。
「なんで寝巻に着替えちゃってるんでしょう」
「そりゃあなた、現実世界で今着ているものが反映されているんでしょうよ」
あ。あー……。真知子さんや、まして小梅が着替えさせてくれるわけもなし、意識すべてこちらに持ってきてしまっているので、女にしては身長の高い私の世話をしてくれるのは当然ケイさんということになる。嵐太郎は論外だ。
「それなりに時間が経っているということでもあるわね」
ごごごごご。
遠くでいくつか砂煙が立っている。嵐が来る。
「悲しんでいるのね」
ここはケイさんの心の深部だ。悲しみと化す前の激しい感情をもてあましているということだろうか。
「あなたをここに閉じこめて、自分ひとりだけのものにしたというのに満足できないのね」
ゴージャスさんのゆるくウェーブのかかった髪が水の流れに煽られて舞い上がる。その髪とドレスの裾を押さえてゴージャスさんはいった。
「圭一はあなたの心を探しているわ。でも、自分の心の中に連れこんだはずなのにどこにいるのか、あの子は分からなくなってる。この深海底から先はそういう場所なの。ほんとうはあなたのような精神干渉レベルの高い人でなければすぐに意識が崩壊しているはずなのよ」
少し疲れた。ケイさんに「休め」といわれたからここに来たのに疲れが取れない。満足行くまで眠っていないような気がする。
「これ以上眠っては駄目。あなたはもう三回眠ってしまった。眠っている間に意識の崩壊が進行してしまうから、もう駄目。がんばって歩いて」
ゴージャスさんが振り返った。
「がんばるのよ。もうすぐ門の下に辿り着くわ。とにかく帰りたいと強く望むこと。望まなければ道は開かない」
帰る。ケイさんの、乙女たちのもとへ。
「そうよ、その調子」
「あの……!」
「何? 休憩している暇はないわよ」
「いえ、『人の話をちゃんと聞け』って――」
「ああ、あれね」
ゴージャスさんは振り返った。にいっと笑う。立ち止まり、私の手の中の記憶結晶を取り上げると袂に放りこんだ。そして急ぐわよ、と私の手をとった。再び歩きはじめる。
「圭一とあなたって、並んで前を向いちゃっててお互いの姿がちゃんと見えてないんだと思う」
そうなんだろうか。やはり白梅荘の当主であることを優先してしまうのではケイさんの心に寄り添うことはできないんだろうか。頭上、高いところにちらちらと星のように光が瞬いているのが見えてきた。天井だ。
「いくら人間より寿命が長いからといって、無限に時間が残されているわけじゃない。あなたたちハイブリッドコードキャリアも限られた時間の中で命を燃やす生き物であることに違いはないのよ」
「ええ、私の残り時間は短い、そう聞いています」
「それであればなおさら、後悔のないようにして。あなたはどうしたい?」
ゴージャスさんは立ち止った。
私はどうしたいんだろう。祖父に託された義務を果たし、当主の務めを全うする。おば様の遺言にしたがい乙女たちを見送る。お久さんの最期を思い出し、胸が痛んだ。
ゴージャスさんが私の左胸にそっと掌をあてた。ごつい見た目と違い、掌はあたたかくやわらかい。彼女の手に、自分の手を重ねた。
「命を燃やすのよ」
「でも――私は、私はおぞましい」
異能をいくつも抱え、ともに暮らす家族同然の乙女や嵐太郎、ケイさんすら差し置いて義務を
――実験記録装置白梅を破壊せよ。
果たすことを優先する。
――詩織は「鵺」ではない。先祖がえりだ。
――お前は我々が百世代かけてずっと待ち望んでいた子どもだ。
――唯ひとりの実験成功例、ハイブリッドチャイルドだ。
記憶の封印が次々に解ける。身体に負荷がかかっているのを微かに感じる。ここはセノーテの真下。雲が晴れ月が姿を見せるように天井に丸い光が現れた。門が開いている。
「ああ、時間がないわ。――いいえ、違うの。差し迫っているのはあなたのほうじゃない。私は指輪に宿るものであるのと同時に、圭一の心の深海底、記憶結晶のズリ山に残った母親の記憶でもある。今、あそこで吹き荒れる嵐がズリ山の記憶結晶を破壊しているわ」
ゴージャスさんは私の身体に指輪が接していて、ズリ山に母親の記憶が残っているとここ深海底で私に姿を見せることができるのだという。
「確かにハイブリッドコードキャリアは減っている。新しく生まれることもないかもしれない。まず間違いなく今後、播種計画拠点を維持する人数を確保することはできないわ。ハイブリッドコードは薄まって異能者は減り、忌まわしい存在として人々の記憶から追われ、忘れ去られる」
そう、その通りだ。私が義務を果たそうか果たすまいか、結果にかかわらずいずれハイブリッドコードキャリアは滅びる。
「だから、最後の一人となる子どもを産みたくないのです」
おぞましいものとして異能を隠し、理解されることもなく一人で生きる。きっとさびしい人生になるから。
「そうかしら?」
ゴージャスさんの唇が弧を描く。
「本当にそうかしら? 何もかも一人で決めてかからないで。ちゃんと周りを見て、考えて。そして」
私の頬にあたたかい掌が触れた。
「圭一とよく話して。お互いに、ちゃんと話して」
ゴージャスさんはぐいっと片眉を上げた。
「話をちゃんと聞かないのって、あなたのよくない癖よ?」
片眉をぐいっと上げる独特の笑みを見せ、ゴージャスさんは上を向いた。私も一緒に天井を見上げる。
「ああ、いい夜ね。門の向こうの光がまるで月のようだわ」
視線を元に戻したとき、ゴージャスさんは消えていた。あたたかい感触が頬に残されている。
私はもう一度天井を見上げた。大きく門が開いている。眩しい光がそこから漏れている。遠くで微かに点滅する、アンカーの光が見えた。
――帰りたい。
――乙女たちの、家族のもとに、ケイさんのもとに帰りたい。
――帰りたい!
――アンカー、私をお前のところまで連れて行って!
呼びかけに応えたアンカーがひときわ強く輝いた。光が力強く私を貫く。門を通り抜け、アンカーの傍ら、泉と風穴の境界まで一気に浮上した。




