第十九話 良宵(三)
眠っていたようだ。
いいにおいがする。あたたかくてやわらかくて気持ちいい。なじみ深いそれとは少し違うんだけれど、大好きな日向のにおいと似ていてうれしくなった。そのにおいに惹かれるように頬ずりする。気持ちいい。ものすごくやわらかくて弾力があってばいんばいんの……。
「あ」
黒くてすべすべのやわらかな布、すなわちゴージャスなドレスに包まれたばいんばいんなサムシングに私は頬ずりしていたらしい。
世の殿方が女子の胸部がいかにゴージャスかについてみょうちきりんに熱心だったりするのがなぜなのか、今までの私はよく分かっていなかった。それどころかそのような巨乳礼賛派が多数を占める現状を大いに憂えていた。
今までの私の認識は誤っていた。
すばらしいね、このばいんばいんのサムシング。そりゃ周平がケイさんに「抱き心地のいい」むちむちさんをリコメンドするわけだわ。
「まあねえ、でもあの子の好みはちょっと変わってるからねえ」
少し低めのよく響く声。
しまった。いくら魅力的でゴージャスなサムシングだからってシュウトメにセクハラしてしまった。あたふたと起き上がり、体育座りする。
「……失礼いたしました。おかえりなさい」
「なんだかさっきより心の距離が開いた感じがするわね?」
ややや、美人で巨乳だし親切だし、いい人みたいだなと思っているけど、やはりシュウトメだというだけで自ずと壁ができると思うんだよね。
「壁、ねえ。ま、いわせてもらえれば、あなたまだヨメじゃないけどね」
ばりばり嫁意識してんじゃねえか。
「まあまあ、実際にはわたし、あの子の母親そのものってわけじゃないのよ」
今ひとつよく分からない。
「幽霊ですか?」
「違う。大して違わないけど違う。あの子の母親の記憶よ。そしてあなたの谷間レスで貧相な胸もとを誰よりも知るモノよ」
アレか。アグレッシブでデコラティブな下着に擬態したサムシングか。
「やだこの子、めんどくさい。わざとボケてるのね? そんなお洗濯の度に擦り減るやわなもんじゃないわ」
分かってる。肌身離さず身につけている婚約指輪。常駐するロケーションがロケーションだけに私のゴージャス感の極度に不足する胸もとについてよくご存じだというわけだ。屈辱的だ。
「不思議なことにうちの息子、貧相なのがタイプなのよね。変わってるわ」
「すみませんね。そのあたりゴージャスでなくて」
「やだ、あなたにはゴージャスなところなんて、ひとつもないじゃない?」
はい、すみません、ありません。胸だけじゃありません。どこもかしこもゴージャスじゃないですすみません。
気を取り直し、眠る前に見ていた古い記憶結晶を差し出す。
「あら、懐かしいわねえ! そうそう、あの子ったらなかなか獣化をコントロールできなくてねえ。これ、よそゆきに針毛で穴開けちゃったところよ」
かわいいわあ、とゴージャスさんが相好を崩す。同感だ。すごくかわいい。しかし、だよ。それで背後から母親に爆笑されていると。そうしてこの記憶は黒歴史となってこの記憶結晶墓場にやってきた、と。膝を抱えて座る足下にこの幼児ケイさん結晶と元婚約者結晶とをならべる。このふたつ、黒歴史なのかなあ。そして私もこうして記憶の墓場送りというわけだ。はああ。
「うーむ、何度見ても貧相な女」
「す、すみません」
「あなたじゃないわよ。いや、あなたも貧相だけどさ、こっちのバカ女」
バ……何かがあったんですね。嫁姑戦争的な何かが。ゴージャスさんは美奈子さんの結晶をずば、と指さした。
「墓場送りにするような過去でないという点はわたしも賛成。だけどさ、なんで今の女であるあなたがそんな大事に持ってるの?」
「ケイさんの大切な人なので」
「うーん、何か違う。何が違うんだろう。変わってる子だからじゃない、何か違う」
さかんに首をひねるゴージャスさんに根掘り葉掘り訊かれた。私のゴージャス感に欠ける胸もとを根城にしているわけだし、なんでもご存じだと思ったのだがそうでもないらしい。
「こういうのはね、話して初めて事実になったりするもんよ」
とわけの分からないことをいわれた。隣に座るゴージャスさんは押しが強いわりに聞き上手だ。ガールズトークの態で要するに息子の話を聞きたいのかなと思い、訊かれるまま応えているうちに話がこの夏のことになった。
「――慰撫適性、ねえ」
ゴージャスさんは抱えた膝に顎を載せ、うーん、と唸った。
「あなた、慰撫適性がないっていわれたの? うちの息子から?」
「はっきりといわれたわけじゃないんですが、そうとしか思えないというか何というか。たぶん、気を遣ってくださってるんですよね。私、乙女の主でもありますし」
うーん。ゴージャスさんは眉間に思いっきり皺をよせて考えこんだ。そしてまた根掘り葉掘り質問タイムを再開した。
「あなたのとこの嵐太郎だっけ? あのへらへらしたあの医者はどう? 『慰撫適性がない』っていってた?」
白梅に異能を引き出されて以降、やたら細部まできっちり記憶できるようになっちゃってるので思い出してみる。
――完全に獣化してしまうと、ある程度発散して消耗するか、あるいは適性のある人物に慰撫してもらわないと人型に戻れない。
――『島』が獣化異能者に用意する婿入り先というのは、慰撫適性のある娘がいる家だ。
――つまり五木くんの元婚約者には慰撫適性があったというわけ。
――それで――
あれ? 途中から話、聞いてないっぽい。
「あーらら。でもへらへら医者の話だけで判断したんじゃないんでしょ?」
「もちろんです。――そのあの、周平さんが――」
そういえば。この人は周平のせいで命を落としたんではなかったか。血のつながりはなくとももう一人の息子としてかわいがった周平のせいで。
口をつぐんだ私に片眉をぐいっと上げる独特の苦笑を見せ、ゴージャスさんはいった。
「まあ、それはそれ。今は慰撫適性について話して」
ゴージャスさんはふむふむ、とうなずきながら私から話を引き出す。
「もうひとりのうちの子も慰撫適性に関してははっきりと言及してないわね」
「そう、なんですか?」
「元婚約者の話が出た途端に圭一がふらふら引き寄せられた。へらへら医者が慰撫適性の話を持ち出した。周平が『お前は役に立たないから待っていろ』といった。それらを総合してあなた自身に慰撫適性がないと判断した、そういうことかしら?」
「――そうです」
なんだか、自分の判断に自信がなくなってきた。ゴージャスさんはふふ、と表情を緩めた。大きくふっくらした唇が弧を描く。
「あのね、慰撫適性ってそんな珍しいもんじゃないのよ」
「へ?」
「なんか珍しい感じにしてあるだけ」
要するに凶暴化したときに「伏せ!」とか「お座り!」ができるかどうか、みたいなことらしい。めっちゃ難しいんじゃないの、それ? 少なくとも私はできる気がしない。
「そんなことない、ない。獣化異能は男性体にのみ発現するのは知っているわね? あれね、どうしてもいろんなところに播種したくなる性質もセットになってんの」
生まれながらの浮気者だと。
「まあ、そういうことだわね。凶暴化と過剰な播種本能がねえ、どーしても除けなかったらしいのよね。凶暴化すると先住種族、すなわち人間社会に適合できないし、播種行為は過剰になると生命力を削っちゃうのよね」
つまり、イタせばイタすほど寿命を削る、と?
「そそ。そういうこと。普通の回数ならなんてことないんだけど。わたしの夫なんていろんなところで種播くからすぐ死んじゃったわ。そう、圭一と周平の父親よ。でもあの手の行為って凶暴化を抑えるのよね。だからとても穏やかな人だったわ」
えーっと、えーっと。なんていえばいいんだろう。ゴージャスさんが懐かしそうに微笑んでいるので水を差せない。しばらくそうして浮気者の夫との思い出にひたっていたらしいゴージャスさんが口を開いた。
「まあ、あの人は特殊なケースよ。過剰な播種本能は寿命を削るだけじゃなくて人間社会から疎外される要因にもなり得るから、できるだけ抑えるように教育するわけ。そこで慰撫適性なのよ」
要するに放っておくとあっちこっちで凶暴化してイタしまくって管理しきれないから教育と称して刷りこんでしまえ、ということなんだそうだ。
「島」の獣化異能者は、特定パートナーのいうことに従うようがっちり教育された上で婿に出される。ケイさんは祭りの当番といっていたが、事前にお見合いがあってお互いに「いいかも」となる組み合わせがチョイスされていたそうだ。なんだ、恋愛結婚みたいなもんじゃないか。
「島」の獣化異能者は「この娘、いいかも」とぽわんとなっちゃう、その相手が慰撫適性を持つ唯一のパートナーである、と教えこまれる。
「複数の女性と関係持つと、『あれ、教えられてたのと違う』ってすぐ気づくものなんですって。でも、それを他の獣化異能者に教えないのが掟なの。特定パートナーからの特定キーワードによる慰撫や制止に絶対服従ってのは教育というより洗脳のようなものだから、『教えられてたのと違うよ』程度じゃそれを知らない者は解くことができないのよ」
身近な獣化異能者がケイさんだけなので今ひとつイメージがわかない。
「圭一の場合わりと頑なに信じちゃってたから、自分が凶暴化したときに慰撫できるのはあの美奈子っていう女だけだと思いこんでたわけ」
「違うんですか」
「違うわよ。教育の成果を逆手にとられたようなもんね。あの女はね、他の娘を押しのけて猛烈アピールしてきたの。どうも圭一の嫁になれば『島』の管理者になれると親兄弟どころか一族総出で勘違いしてたらしいのよね」
「違うんですか」
「違うわよ。管理者の慰撫適性ってのは特殊なのよ。特定パートナーだけでなく『島』所属の獣化異能者すべてを慰撫できるのが長である管理者なの」
「島」、すなわち実験記録装置・朽ち縄の管理者は女性で、朽ち縄と契約した獣化異能者すべてを慰撫する能力のある者に限られるんだそうな。確かにそれは特殊能力だわ。獣化した凶暴な男相手に「伏せ!」を決められる女性はそういないと思う。あ、目の前のゴージャスさんはできそうだ。荒くれ者たちを「伏せ!」で従えるくらい軽々とやってのけるさまが容易に想像できる。
「いっぺんに何人も凶暴化することもあるからね。そうでなくてもパートナーを失った獣化異能者が凶暴化したときに出張慰撫するのも管理者の大事なお仕事ってわけ」
「なるほど」
「で、圭一が駄目なら周平ってなっちゃったのよね、あの女は。もともと周平みたいな線の細いタイプが好みらしくてね」
人の好みはいろいろだ。ケイさんのほうがかわいいのに。変態うなじフェチだけど。
ゴージャスさんの表情が翳った。
「ひとつひとつは大したトラブルじゃないのに、いっぺんにタイミングが合うことってあるのよね。あのときがまさにそうだった。周平の我慢が限界を超えたのと、美奈子という女が『王化異能者の妻になれば管理者でなくても重要ポストに就ける』と思いこんだのと、よそから攻撃されたのと」
昏い目をしたまま、ゴージャスさんはうつむいた。
「圭一が『島』にいなかったのがせめてもの救いだわ。亡くなったみんなには悪いけど」
目の前の記憶結晶墓場のズリ山が少し、崩れた。




