第十二話 野分(三)
「申し訳ありません! すみません! ごめんなさい!」
「ね? おやーたしゃま、ね? はげあたま、ね?」
「やめ……やめなさい、小梅。人を指さしちゃ駄目なのです」
「おやおや、どこの爆弾娘かと思えば」
夏の日差しをてらてらと反射する角ばった坊主頭。朗々と響く声。厳めしい顔つきの仁王様でなく近所の寺の住職、石部老人だ。理沙嬢に思いを寄せる男前長身小学生の祖父でもある。小学生にして百七十センチ軽く超え常々大人に間違われる長身の孫に子どもらしく過ごしてほしいと心砕く優しいおじいちゃんなんであるが、理沙嬢が孫の純情をかっさらって早々と大人へステップアップさせつつあると知ったら、うーん、怒るよねえ。そんな孫ラブおじいちゃん(厳格タイプ)を指さすだけでなく、あまつさえその身体特定個所に関する光量に言及するとは――暴挙だよ暴挙。
「小梅でしゅ!」
「そうか、小梅ちゃんというのか。はげあたまが珍しいかな」
「あい、はじめてみました。ぴかぴかでしゅ」
「ここここ、小梅、やめ、やめなさい。失礼してしまってすみません。ほんとにすみません」
「白梅様、よいよい、気になさるな」
この上なく無礼な行為で釣りの邪魔をしたというのに、顔見知りだからというそれだけで見学をさせてもらえることになった。小梅は大喜びである。籠の中からマットを取り出して浜に敷いていると、小梅が石部老人の釣り道具、えさ箱を覗きこんでいる。
「にょっ、にょろにょろがからまってましゅ」
「おお、イソメじゃな、小梅ちゃんはイソメが怖くないのかな」
「あしがたくさんあって、かっこいいでしゅ」
「ほう、かっこいいとな」
ああ、そうだった。小梅のトレンドは足がたくさん生えている動物だった。石部老人にびっしり爪楊枝の刺さった精霊馬の話をした。
かかかか。
以前と変わらない、聞く者の心を浮き立たせる朗々とした声で老人が笑う。そこへ、ざくざくと砂を踏んで大きい人がやってきた。
「おはようございます」
「おはようございます。五木さん、でしたな」
「はい」
老人と挨拶を交わしたケイさんから水筒を渡された。
「用意しているだろうと思ったけれど、念のため」
「助かります」
「あ、小梅ちゃん――」
ケイさんは波打ち際へ駆けていく小梅を追いかけた。きゃきゃーっ、と小梅がはしゃぐ。追いかけっこのつもりらしい。釣りの邪魔になっては、と声をかけようとすると、老人がそれを制した。
「このくらいで邪魔になったりしませぬよ」
「そうだとよいのですが」
「ご夫君――五木さんは少し、雰囲気が変わりましたな」
ちくり、と胸が痛む。
「おや、望ましくない変化でござったか」
「――いいえ、そんな。身内の欲目もありましょうが、良い方向へ変わったと喜んでおります」
「さようか――。以前申し上げたこと、まだ宿題でございますな」
「――ええ」
「一足飛びに進まぬ、それも無理からぬことでしょうがな。見極めるつもりで外から眺めているだけでは分からぬこともあろうて」
「まあ、まるで公案のようです」
「うちは禅宗ではありませんがな」
老人に茶を注いだカップを手渡していると、小梅とケイさんが戻ってきた。一服した老人が立ちあがり小梅を手招きした。小梅がうんうんとうなずきながら、老人に遊んでいいところと悪いところを手で示して教えてもらっている。
「しょうちしましゅた!」
としゃっちょこばって敬礼の真似をし、ぱたぱたとこちらへ戻ってきた。
「どうしました」
「おじーしゃんが、あぶないからさがってみていなしゃい、とおっしゃいまちた」
膝の上に登ってきた小梅にケイさんが「しーっ」と静かにするよう仕草で制する。
「じっとして見ていましょうね」
「あい」
唇に人差指をあて小梅が老人の姿を目で追う。右のこめかみをそよりと風がなぶる。ほんの少し、風が強くなった。
仕掛けの準備を終え、老人が竿を軽く構える。目の前の広々としてゆるゆるとうねる海を前に、しばし静止する。坊主頭をてらてらと日光にさらす老人は細い目を眇めるでもなくごく平らかな表情で海を見詰めている。やがて傍で見ている者には分からないところで条件が整い、時が満ちた。ゆっくりと静かに黒い竿が地面と水平に滑る。仕掛けとおもりがすすす、とそれに連れて流れるように動き始めた。すると老人はぐるりと回転し、高い位置で竿を止めた。おもりと仕掛けが宙を飛んでいく。
一色二色三色……七色か、八色か。着水地点が見えない。
色分けされた釣り糸の、一色あたり二十五メートルと聞いた。その糸が八色分出たということは、およそ二百メートル彼方へおもりを飛ばしたことになる。
「見事なものだ」
ケイさんがつぶやく。小梅が「んん」と唇に人差指をあて膝の上で振り返り、ケイさんを睨んだ。愛らしい抗議にケイさんは苦笑しながら麦わら帽をかぶった小梅の頭を撫でた。
老人が無造作に竿をさびく。やがて上がってきた仕掛けには五匹の白鱚がついていた。老人のそばに駆け寄り、クーラーボックスに放りこまれる白鱚を覗きこんだ小梅がまたぱたぱたと戻ってきた。マットの上で正座し、唇に人差指をあてて私とケイさんに注意を促すと、じいっと老人を見つめる。
回転――投擲。
砲丸投げと動作は同じのようで、雰囲気がずいぶん異なる。竿に伝わる釣り人の動きが先端の仕掛けに届くまで時間がかかるからか初めはゆっくりと回る、その静かな滑り出しがまるで舞のようだ。そして急激に加速、力がこもり、仕掛けとおもりが投擲される。はじまりの静けさから一転、ダイナミックに動きが変化して最後は力強い。
老人が回転投法で遠くまで仕掛けを投げる様子がおもしろかったらしく、小梅は籠から手拭いを出し、振り回して真似をしている。釣り糸の調子を整えた竿を立て掛け、老人が戻ってきた。どす、とケイさんの隣に座る。ケイさんが差し出した茶をぐいっと飲み干すと私に向かい、
「――新しい乙女ですかな?」
といった。
何といえばいいんだろう。この人にはなんとなく、嘘をつけない。色ボケ旧家御曹司との愛憎劇設定やもろもろ用意しておいた舌先三寸文言がとっさに出てこない。
「いいえ――その」
「俺たちの、娘のようなものです」
ケイさんが割って入った。
「さようか。いや、何が何でも詳しく知りたい、そういうわけではないんだが、いいたかったのはあれじゃ、噂になっておるぞ、と」
やっぱりそうか。ケイさんと顔を見合わせる。
「マルカワのご令嬢にも興味本位で詰め寄るのがおるでな」
「えっ、理沙嬢にも――え?」
盆踊りの夜、理沙嬢も一緒にいたので、情報を得ようとする者がいてもおかしくない。しかしそれをなぜ石部老人が知っているのだろう。
「釣友に女子高生がいましてな、孫と仲が良いのでござる」
危うく「ぶっ」と茶を噴くところだった。女子高生の釣友って理沙嬢――だよね。「孫と仲が良い」ってもう仁王様ライクな厳格じいさんにバレバレだったのか。
「マルカワのご令嬢は訊かれてもきょとんとした様子でな、『知らない』『親戚なんじゃないかな』を繰り返してなあ、賢い子じゃな」
「――それは……理沙嬢に悪いことをしました」
「今のところは大丈夫じゃろうて」
波打ち際まで走っては戻る、を繰り返す小梅を見て老人は、細い目をますます細め、口をへの字にひん曲げる独特の笑みを浮かべた。
「小さな子どもがいると世間との接点が増えるものじゃ。たいていはさして問題ないんじゃがな、この多々良が浜にもいろんなのがおりますからの、含んでおいたがよろしいかと」
「痛み入ります」
老人と別れて白梅荘へ戻る途中、港や街道ですれ違う人々と挨拶を交わす。小梅の愛らしい仕草や無邪気な様子に目を細め、ふだんより二言、三言会話が増えたりもした。中にはそうやって話し別れた後に
「あんな小さな子にねえ」
「ねえ。『おやかたさま』って呼ばせてるらしいじゃない」
などと聞こえてくることもあった。
小梅が不安げに私を見上げる。
「よいのですよ。気にすることはありません」
頭を撫でてやっても表情が晴れない。「親子ごっこ」を途中で忘れてしまったことを気にしているようだ。さっきの人々は、盆踊り会場で私に呼び掛ける小梅の様子を見たか、人づてに聞いたかしたのだろう。付け焼き刃で親子ごっこなどをしても間に合わなかったのだ。どちらにしろ。済んだことだ。だから小梅が気にする必要はない。ケイさんがひょい、と小梅を抱き上げた。
「さあ、帰って朝ご飯食べような」
「あい! ウィンナーをむかでしゃんにしてくだしゃい」
「無理じゃないかなあ。足の数が多過ぎるよ。蟹が限界だ、小梅ちゃん」
「……やだこのひと、ぶきよう」
「なんだとう?」
がっしりとした腕の中に閉じこめられこちょこちょとくすぐられて小梅がきゃきゃーっ、と仰け反る。徐々に高くなる太陽に照らされるふたりの笑顔がまぶしい。




