第十三話 野分(四)
九月に入ったというのに暑い日が続く。
喉が渇いて目が覚めた。隣で小梅がばんざいみたいに両手を挙げて眠っている。タオルケットをかけ直し、ベッドから出た。
多少大人しくなったと思いたいが、私は子どものころから寝相がよくない、らしい。というのも、自覚がないからよく分からないんである。元カレの話によると私の寝相はなかなかに凶悪なんだそうだ。不思議なことに小梅は平気らしい。毎晩すやすやと眠っている。白梅荘にきて凶悪な寝相が治り大人しくなったと思いたい。思いたいんだがきっと寝穢いんだろうな。起きると必ず寝巻の襟や裾がぐっちゃぐちゃになっている。今もそうだ。
「なんちゅうかっこうだ……」
深夜三時半、誰にも見られていないのをいいことにばっさばさ寝乱れた格好のまま厨房へ行った。暗くても何がどこにあるのか分かっている。コップをとりだし、水を汲んでぐいっと干した。
「あづううう」
寝汗で肌がねっとりして気持ち悪い。シャワーを浴びたいがしばらくするとまた散歩の時間だ。厨房の隅にある洗面ボウルの横のラックから手拭いを出し、水にくぐらせる。絞って汗を拭った。
「ふいいい。ちょっとはさっぱりするかも」
じゃばじゃばと水洗いして絞り、ぐりぐり肌を拭う。背中も届く範囲で、と左手で絞った手拭いを掴み首の後ろから背中へと滑らせようとしたところで突然腕に痛みが走った。
「う……」
「――詩織?」
べたり、と床に手拭いが落ちるのと同時だったか。厨房の入口に立つケイさんから声をかけられた。慌てて寝巻の前を深く合わせようとしたのだが、左腕が痺れて動かない。どうしたんだろう。焦る。床に落ちた手拭いを拾い上げ、洗面台でじゃばじゃばと洗い絞った手拭いを手にしたケイさんが
「俺が拭こう――」
と振り返り、片腕をだらりと垂らした私を見て首をかしげた。
「詩織、どうした」
「腕が――動きません」
手拭いを作業台の上に置き、ケイさんはスツールを並べた。促されて向かい合って座る。
「――痛っ」
鋭い感覚ではないのだが、まだ左腕が鈍く痛む。
「詩織、腕を見せて」
あたたかな大きな掌に手首を包まれる。ケイさんは手の甲、掌、腕、肘、肩と上下に左腕を何度か返しながら眺めた。
「少し触るぞ」
とケイさんが太い指で軽く圧迫しながら腕を肘に向けて滑らせたとき、掌から肘にかけて疼痛が走った。
「――っ」
反射的に手を引っこめてしまった。するり、と逃げた手を支える形そのままの手つきでケイさんがフリーズしている。
「ケイさん、あの、すみません」
「――ああ、うん、もう一回触っていい?」
やだ。痛いし。
何といって断ろうかと慌てていてふと目を上げると、厨房の入口に呆れ顔の嵐太郎が立っていた。
「きみたち、ここは共有スペースだよ。なにやってんの」
ああああ、これはなんか誤解がありそうな。
ケイさんの広い背中であらかた隠れているんだろうけど、慌てて右手で乱れた寝巻の前を合わせたりしたのがいけなかったか。なんだかものすごく嫌だけど、嵐太郎の視界に桃色フィルタかかっちゃってるような気がする。誤解を解かねば。
「実は、左腕が痛むんです」
そういうと、嵐太郎の呆れ顔が一転、真剣になった。つかつかと側へやってきて跪いた嵐太郎がケイさんに代わって私の左手をそっと握る。嵐太郎の細くかさかさと乾いた指が私の肘を圧す。
「――っ!」
また疼痛が腕に走った。嵐太郎の指が手首に戻り、肘までつつつ、と何かをたどる。そして指がその何かを圧迫するとずきり、と腕の中の何かが疼く。
「五木くん、見た? ここだね」
「はい。師匠」
「代わってもらえる?」
「はい」
ケイさんが再び私の腕をとり指で先ほどの疼く場所を圧す。
「すまない。痛いか」
ちょっと言葉にできないくらい痛いよ! 疼くっていったってだから痛みが弱いわけじゃないもの。
「詩織ちゃん、変わってるね。こんなところに契約錠があるなんて」
え? 契約錠ってあの透明なでっかい魚の骨みたいなあれが腕の中に?
「師匠、これは契約錠の脱臼で間違いありません」
「珍しいね」
「整復――してもいいかな?」
ケイさんが私を見ていった。
「せいふく?」
「この契約錠を元の位置に戻すことだ」
「触っただけであんなに痛いのに?」
そう尋ねると、ケイさんは困った顔をした。
「自然には治らないぞ。整復しないと駄目だ」
「……」
「詩織ちゃん、大したことないない。うちのでっかい弟子がね、かちっと嵌めちゃうから。この肘のところを力任せにぐいっと圧すのと同時に手首のところをぐぐーっとやればかちっと入っちゃうから」
すっげえ痛そうなんだけど。
「うん、痛そうだよね! でも僕がやるより五木くんのほうがずっと上手だよ、きっと」
「嵐太郎さん、その『きっと』って何ですか。気になる」
「僕は筋肉や関節の構造とか手技の知識はあるけど、実践したことないの」
「へ?」
「ああ、大丈夫。力持ちってだけじゃなくって五木くんは経験者だから。ぐいっぐぐーっ、かちっとやってもらっちゃおう。ね?」
あんた、他人事だと思って……! 嵐太郎にぎゃんぎゃん噛みつこうとしたそのとき、ケイさんが私の左腕を掴み、ぎゅぎゅぎゅーっと何かした。
「うわ、痛たたたた……た?」
激しい痛みが腕に走ったと思ったらかちり、と中で何か嵌ったような感触があった。
「詩織、すまない。でも無事に嵌ったようだ」
「さすが僕の弟子。初めて見たけど見事なもんだね」
さあさあ、診察の続きはお部屋でね、と嵐太郎に厨房から追い出された。腫れなどが残っていれば患部の固定が必要らしい。誘われて久々にケイさんの部屋に入った。
「すまなかった。痛かったろう」
「いえ。助かりました。腕の感覚が戻ってきています」
当たり前のようにベッドに腰かけてたりして、そのことに気づくとなんだか気まずい。ケイさんは椅子を持ってきて私の正面に向かい合って座り、左腕を掴んだ。太くあたたかな指が腕の筋を圧す。
「まだ痛むか」
「いいえ。もう大丈夫です」
念のため軽く固定しておくことになった。ケイさんが鮮やかな手つきで包帯を巻いてくれる。目の前で切れ長の目を伏せる大きい人の白髪交じりの髪に手を伸ばした。触れるとごわごわとして硬い。夢の中で撫でた大山嵐の鬣のようだ。髪を撫でながら、ケイさんに尋ねた。
「契約錠って脱臼するんですね」
包帯を巻き終わり、私の左腕を撫でていたケイさんが目を伏せたまま答えた。
「普通はしない」
ケイさんは
「乙女契約を結ぶと、契約の種を植える。白梅の乙女の場合はここだ」
頭を下げ、私の手をその場所に導いた。つむじと額の間。突起がある。理沙嬢の契約錠と同じだ。あの抜き針の儀を思い出し、身体が震えた。ケイさんは椅子から立ち上がると私の隣に腰かけた。震える私の身体をきつく抱きしめる。
「すまない。思い出させた」
「いいんです」
ケイさんは私の手をとり、胸に導いた。みぞおちの少し上。
「朽ち縄の契約の種はここに植えられる」
胸骨とは異なる突起がある。これが朽ち縄の被験者の契約錠。やはりこの人の二重契約は今も生きている。私はその突起をそっと撫でた。
――あのとき掴んだ固有振動数で破壊すれば……
駄目だ。できない。異能。獣化。不老。播種計画実験記録装置と契約錠がどうそれらに関わっているのか、取り除いて大丈夫なのかがはっきりしない限り闇雲に契約からの解放だけを推し進めるわけにいかない。大きい人にとって私が人生における通過点の一つに過ぎないとしても、この人は私にとってかけがえのない唯一だから。
――絶対に失敗できない。
ケイさんに強くしがみつく。大きい人もそれに応えてぎゅうっときつく抱きしめてくれた。私の頭に頬ずりし、ため息をついて、少し腕の拘束を緩める。
「こことか」
私の首の後ろ、ネックポイントを指で押さえる。
「あるいはここ」
背骨を下へ辿り、骨盤との境目あたりを押さえた。
「白梅と朽ち縄以外で師匠が見たことのある契約錠突起はこの二ヶ所だそうだ。実験記録装置によって異なるけれど、好みの場所があるらしい。契約錠の位置によって出身拠点が分かるとかつてはいわれていた」
違和感がある。なんだろう。
「脳、脊椎。契約の種は身体の中心、体幹に沿った部位に植えられる。がっちりと体組織に守られて脱臼などしない。そういう位置に植えられるんだ」
何かがおかしい。身体がわななく。
――だいじょうぶ、だいじょうぶ。
ケイさんの大きな手が宥めるように背中をゆっくりと撫でる。
「俺は体幹でない場所に埋まっている契約錠の脱臼を整復したことがある。今回だけじゃない。昔、何度も。『島』で」
身体の震えが止まらない。なぜだろう。
「周平の腕や足を何度も整復した」
頭の奥で何かがゆっくりと起き上がる。この不愉快な感覚は記憶の封印が解ける兆しだ。記憶の錠前がかたかたと震え軋む、まだ始まりの微かなその違和感を身体が、心が拒んでいる。
「詩織、周平の身体にいくつも刺さっていた契約錠とその脱臼、このことがきみにとって何を意味するのか、俺には分からない」
「あ、……いや、いや」
ケイさんは辛そうな顔をした。
「何もかも思い出せばいいというものでもないんだろうが――。きみが子どもの頃に何かあったんだろう。周平が直接関わっているかどうかは分からないけれど」
ぎゅうっと、強く抱きしめられた。
「忘れないでくれ。どんなにきみが自分自身をおぞましいと考えようと、俺はそう思わない。仮に世界中の誰もがきみのことをおぞましいといおうと、俺はそう思わない」
大きい人の気持ちには曇りがない。私がどんなにすがるまいと、遠ざけようと決意しても、軽々と隔てを乗り越えてしまう。
「詩織、すまない。きみがどんなに俺を遠ざけようとしても、俺はもう――」
「――嫌いにならないって知ってるくせに」
ケイさんの表情は嬉しそうなのに、どこか苦しそうにも見える。大きい人から見て私もそう見えるんだろうか。
廊下や階下から皆が起き出した気配がする。カーテンの隙間から漏れる光が曇天のせいか鈍い。ケイさんが私の頬を撫で、ため息をついた。
「詩織、今夜時間をくれ。聞いてほしい話がある」
「分かりました」
何の話か分からないけれど。
ぽつぽつと雨が降り始めた。台風が来たその日、結局私はケイさんから話を聞くことができなかった。




