第七話 精霊馬(七)
引き留めもしなかったくせにこうして大きい人のことでじくじくと思い悩んでいたからだろうか。大して量を過ごしたわけでないのに私は酔いつぶれた。そのまま縁側でぐうぐうと寝入ってしまい、普段と違う夢を見た。
――から、からん。
顔に影がさした気がして目を開けるとそこに大きな大きな山嵐がいた。弧を描き後ろへ向かって伸びる半白の長い鬣。黒い獣毛に覆われた顔、身体。背中から腰にかけてびっしりと生えた美しい針毛。巨大な山嵐は私の顔のすぐそばに咥えた花の束をぽとり、と落とした。青紫の花びら。桔梗だ。山嵐に手を伸ばすとふんふん、と顔を寄せてにおいをかぐ。ケイさんが完全に獣化するとこんな姿になるのかもしれない。恋しい人がその姿を見せてくれないからこうして夢に見るのだろう。怖いかどうか、私にはやはり分からなかった。
目の前の山嵐に恋人にするのと同じように
「会いたかった」
と語りかける。夢だから甘えたい放題だ。首もとの、白い三日月状の毛の帯を指で梳くとびくり、と身体を竦ませ山嵐がおずおずと顔を寄せてきた。鬣が顔にかかる。
鬣で視界が塞がる前、すぐ近くに見えたその獣の目は小さくつぶらで黒々と潤んでいた。その左目の上に傷がある。
「……お願い、怪我、しないで」
涙で視界がぼやける。大きな山嵐がからからと針毛を鳴らし私に覆いかぶさる。黒い獣毛に包まれた。頬ずりする。内側の毛はふわふわふかふかしてやわらかい。あたたかい。
こうしてみて初めて気づいた。ケイさんが去っておよそ半月、真夏なのに私はずっと凍えていた。微かに麝香のにおいがするあたたかな獣に身体を寄せる夢を見て、私はひさしぶりにぐっすりと眠った。
* * *
大して量を過ごしたわけでもなし、あたりまえなのだが二日酔いにならずに目覚めた。
「痛てて……」
しかし離れの濡れ縁、板の間に大の字になってひっくり返っていたので首や背中、腰がばきばきに固まっている。大きい人がいない今、女にしては図体のでかい私が酔いつぶれてしまうと誰も動かせない。よってこうして夏掛け一枚で放置されている。嵐太郎は「僕、非力なんでね、あてにしないで」なんだそうだ。長身のくせにご先祖様ったら役に立たない。よっこらしょ、と痛みをこらえて起き上がると頭からぽとり、と何かが落ちた。青紫の明るい色をした花、桔梗だ。
――まさか。
あたたかな獣の麝香の香りが鼻先によみがえり、軒先を振り返る。
「おやーたしゃま、おはよう?」
小梅が手に数本の桔梗を握っていた。
「小梅、おはよう」
沓脱石から縁側へよじのぼりとことこと近寄ってきた小梅が床に落ちた桔梗の花を拾い、私に手渡した。
「きれーね?」
「ほんと、きれいですね。桔梗を摘んでくれたのですか」
「あっち」
小梅が裏口の方向を指さす。みちるさんの青い庭など桔梗は今時分、白梅荘のあちこちで咲いている。小梅は寝坊した私に焦れてひとりで花を摘んでいたのかもしれない。
「お花をありがとう、小梅」
そういって頭を撫でると頬を赤らめ微笑む。そして首を横にふるふると振ってはにかんだ。
「萎れてしまう前に摘んでくれたお花を飾りましょう」
手をつなぎ、梅の木の前に精霊馬とともに供えた花を換えに向かった。風が動きはじめ、朝凪が終わる。鮮やかな青空に積雲が映える。今日も暑くなりそうだ。
* * *
早々とドナドナされて行った真知子さんが
「今日は午後から理沙がまいりますの。わたくしも合わせて戻りますわ」
といっていた。小梅は、姉のように慕っている理沙嬢の訪問が待ちきれないようで
「小梅の作ったお馬さんとモーモーさん、見てもらうです」
と精霊馬のポーズチェックに余念がない。そうやっていじるので爪楊枝がどんどん抜けていく。ほんの少しではあるが多足要素が薄らぎつつある。ヤスデライクな見た目に変わりはないのだが。
「理沙嬢が子どもの頃に着ていた洋服や小物などを持ってきてくれるそうです」
「おお、それはよい。理沙ちゃんは小さい頃、かわいい服を着ておった。楽しみじゃのう」
「あい!」
昼過ぎ、理沙嬢が母親と弟を伴ってやってきた。母親と弟はすぐに帰るという。
「ゆっくりしていただくわけにもいきませんか――お盆ですものね」
「そうなんです。実は普段から主人が母の部下として働いていて私も実家にべったりという印象が強いようで。義理の両親が少し――」
多々良が浜トップセレブ家庭にも嫁姑問題があるんだなあ。息苦しい思いをしに向かう目の前の小さく美しい人と苦笑いする。
「じゃあ理沙嬢をお借りしては――」
「それはその、いいんです。むしろこちらにお邪魔させてもらったほうが私としては安心というか。義母が今でも理沙を叱るものですから……その、乙女のことで」
日本人離れした美形でザビエルヘアのちっちゃいおっさんである勢田氏は、白梅荘当主の傍系にあたるそうだ。それでいろいろ知っていたわけね。母親からすると傍系であっても白梅荘を継ぐのは本来自分の息子であってしかるべきだという思いもあるのだという。姓こそ変わっていないが、実質婿に入ったも同然でしかも孫娘は当主どころか乙女として召し上げられて不満だったところにその契約ですら解除。何もかもうまくいかないように見えてしまっているのか、理沙嬢にことさら辛く当たるのだそうだ。
「それは……」
「白梅様、私どもはちゃんと納得していますのよ」
今はそういう言葉も出るくらい落ち着いたが、母親の佐和夫人にかかる圧迫たるや凄まじいものがあったに違いない。
「白梅様の前でこんなことをいうのは何ですけれど、主人は白梅荘の当主になるよりずっとやりがいのある仕事ができていると思いますの」
義母は嫌がりますけれど、と微笑む美しい人の目には余裕が見られる。事態を受け容れてしまえばこの人は母として妻として長年家庭の太陽であり続ける女性なのだ。その落ち着きに真知子さんと似通うものが見える。
「さっき運ばせましたけれど、服は母の手製が多いもので丈が合うかどうか分かりませんの」
「ありがたいです。サイズの合わないものは洗ってお返しします」
「それと、小梅ちゃんに浴衣をこしらえましたの」
「まあ! ありがとうございます」
梅の木の下で小梅が理沙嬢と弟くんに精霊馬を見せている。小梅自慢の多足タイプの精霊馬は少しつついただけでひっくり返ってしまう。びっしり生えた足を上にした姿を見て幼子二人がげたげたと笑う。
「子どもはようございますわね」
「ほんとに」
佐和夫人は愛しげに子どもらを見つめる。ほんとうにそうだ。子どもはいい。
理沙嬢の母と弟くんが去ったのと入れ違いで真知子さんが帰ってきた。娘手製の浴衣を広げて微笑む。
「金ととさんですのね。久々に縫ったにしてはよくできていること」
浴衣は白地に水草と金魚が配された注染。素朴な柄がたいそう愛らしい。紅い兵児帯と小さな下駄もある。
「今日は盆踊りがありますのよ。河川敷で燈籠流しも見られますし、みんなでお出かけするのはいかが?」
「お出かけ?」
金魚柄の浴衣に目を輝かせていた小梅が首をかしげる。実は小梅は白梅荘の外に出たことがない。再生後一ヶ月経った現在まで様子を見ていたのもあるが、どんなペースで成長するのか、いつ白梅が現れるのか、分からないことだらけだったのだ。外出など二の次三の次、と優先順位がかなり低く、そもそも考えたことがなかった。
「よいのう。そうしようか」
「ああ、楽しそうだね」
お久さんと嵐太郎も同意する。
「やった! 屋台もあるよ!」
理沙嬢がぐっと拳を握りしめる。
「やたい?」
「焼きそば食べて、わたあめ食べて――それでねそれでね」
「むはー! 食べたことないでしゅ、わたあめってなにでしゅか」
「空を見て!」
理沙嬢が天を指さす。
「青い空にもくもくと盛り上がるあれ――」
「雲でしゅか」
「あれがわたあめだよ!」
「な、なんでしゅと……!」
小梅が興奮でわなわなしている。今更「いや違うし」などと口を挟めない。
「お、おやーたしゃま、小梅、わたあめ食べたい……」
もうね、駄目だとはいいませんよ。いえません。雲の飴を食べることを想像し、ほっぺを真っ赤にして目を輝かせる幼児に勝てる気がしない。




