第二十二話 蓮見(四)
「特別な手段を使わずとも、誰でも少し観察すれば分かることだが」
川向こうの盟主と呼ばれるその男の面上に、頑是ない子どもにいい聞かせる辛抱強さを思わせる表情が浮かぶ。
「ここ数十年、白梅荘の財務状況は悪化の一途をたどっているようですな」
別に財務状況が悪いわけではないんだけれど、男のいいたいことは分からないでもない。基準をどこにおくか、それでウチ、すなわち白梅荘の財務状況の印象は変わる。この人はきっと祖父の評判を念頭に置いているのだろう。
――悪化ね。
祖父の代で事業をたたみ、先代であるおば様が一部の不動産を除きすべて清算したのだから、「悪化」も何も私は白梅荘を相続した当主である、ただそれだけなのだ。利益も生産性も何もない。維持するためだけに相続したのだから当然だ。ケイさんの巨体越しにちらりと目だけ覗かせる私を見て、川向こうの盟主は眉を下げ困ったような顔になった。口調に苦笑が交じる。
「悪化しているとはいえさすがに旧家、まだまだ優れた資金的体力をお持ちだ。しかも白梅と乙女――すばらしい。条件さえ満たせば財務状況などすぐに回復、いや、ご当主のおじい様の代を凌ぐ財を築ける」
話しながら興奮してきたのか、頬が紅潮し熱に浮かされたような笑みが片頬に張りついた。
男が何をいいたいのか、見えてきた。金に関して野心的であるのがあたりまえなんだな、この人からすれば。
「かつて神と呼ばれた知恵者たちの血を、能力を濃く受け継ぐあなたがた――白梅の乙女とその主であるあなたがたがその気になれば、この息の詰まるような苦しい経済状況をひっくり返すことができる」
太陽がだんだんと高くのぼっていく、それと無関係のじりじりと焦げるような、何かに急かされるような浮ついた熱気が男の目に宿る。
男の心の表層も同様に浮ついている。プラグの浮き沈みはより激しくリズミカルになり、ゆるみから漏れる蒸気はさらに増えている。
「この苦しい時代だからこそ、あなたがた乙女がハイブリッドコードキャリアを殖やさなければならない……!」
目の前で壁となり私を守ろうとする大きい人のシャツをぎゅ、と強く握る。そろそろなじみになってきたあの感覚が私を襲う。記憶の封印がまた、解けた。
* * *
黒光りする太い梁。庇が大きく張り出し広い庭に向かって開いた客間。濡れ縁の先には明るく眩しい夏の光に照らされた庭が見える。潮の香りが漂う。
庭で青々と葉を茂らせる梅の老木を眺め扇子を使っていた男が畳の際ににじり寄り、室内を振り返った。
「おやおや、新しい白梅様はずいぶんいとけない」
明るく光あふれる庭と対照的に、庇に日光を遮られひんやりと闇に沈む客間の奥、掛け軸と生け花の飾られた床の手前、半白の尼削ぎ頭を俯かせる老女の背中に隠れるようにしていた幼児がびくり、と体を震わせた。それを視界の隅で確かめ、ふふ、と笑うと幼児など存在しないかのように男は老女に語りかけた。
「それでご老女、次の乙女なんだが」
「……」
「先方は明子殿をいたく気に入られて、なあ」
うつむいていた老女がはっとしたように顔を上げる。
「明子はまだ……」
「ああ、ご老女、そうだなあ。確かにまだ明子殿は幼い。でももうここのつ、十歳になられたか。先方は教育熱心でもあるし、田舎のここより東京で学校に通ったほうが本人も楽しかろうて」
「しかし……!」
幼児が握りしめる毛羽だった小袖の向こうで、老女の骨の浮いた体が小刻みに震える。その震えは怒りから来るのか、悲しみからか、恐れからか。
「このままでは新しく乙女を迎え入れることもできまい。ご老女、そうであろう? 先方は明子殿を迎えるにあたりそれはそれはたいそうなおたからを用意されて、ねえ」
――確かに美しく賢いんだろうが子どもじゃあね、わしはぐっとこないがね。
――あちらさんは幼いほうがいいときたもんだ。
扇子の影で男はぶつくさとこぼす。
「まあそんなわけで一日千秋の思いで待っておいでなんでね。明子殿を白梅様の嫁女に、とこちらの神様から気の早い託宣があったというのは聞いているけれど、ねえ」
はたはたと忙しなく扇子で胸もとに風を送りこみ、男は庭へ視線を向けた。
「恨むならば道楽で身を持ち崩した先代のご当主を恨むがよいよ」
がたがたと身を震わせる幼児の涙をたたえ潤んだ目に、いわくいい難い色合いの炎が宿った。
――こんなの、おかしい。
――絶対に、赦さない。
* * *
これは祖父の幼いころの記憶だ。
いつからなのだろう。
嵐太郎の前の代で既に乙女を嫁に出すにあたり金銭の授受が習慣化される兆しがあった。祖父の大吾の前の代になるとそれが当たり前になった。乙女の生家に支払うインセンティブより大幅に高額な金品を対価にすれば十分に事業として成り立つ。そう考えた輩がいたらしい。
――人身売買じゃないか。
ただでさえ不妊率の高い女性体キャリアをそのように商品として濫費してしまったことは、単に交配実験の成否だけでなく、多々良が浜における白梅荘の神性を失墜させることにもなった。乙女は神の末裔からただびとへ、白梅荘の内から外からむしられるように神性を剥奪されてしまった。
祖父は一代数十年かけて、白梅荘に力を取り戻した。
豪腕と評された祖父の事業の手法は、この幼いころの体験に端を発したのかもしれない。しかし次々に事業を成功に導いた祖父の力を以てしても白梅荘の信頼の回復に長いときを要し、ついに神性は戻らなかった。
「ぜひ、ぜひに、乙女のリクルートを再開していただきたい」
不愉快な苦いにおいと熱に浮かされたようなのぼせた声が私を物思いから現実に引き戻す。
「我々のファンドの傘下には遺伝子工学の専門家もいる。彼らの助言を求めて、優れたハイブリッドコードキャリアを生み出すための縁組を優先してもいい。いや、そうすべきだ。我々のファンドが資金を提供し、専門家に研究を委託、そして白梅のご当主には古来のノウハウを活用して乙女を用意していただく」
私はケイさんの背中にすがった。苦いにおいや、のぼせたような声が遮断できないのならばせめて姿だけでも視界から追い出してしまいたい。
「リクルートする女性は――そう、先日辞めさせたとかいうあのマルカワのご令嬢、ああいう少女がやはり乙女にふさわしい。若く、美しい。――ああ、もったいない。ご当主、あの少女を再度乙女にしていただくわけにはいかないだろうか」
じり、じり、と草履が境内の砂を噛む音がする。男がこちらへ少しずつにじり寄ってきているのだ。回りこむ男の動きを牽制するように、ケイさんが体の向きを変える。
「――事業の目的が見えませんが」
仕方なく相槌を打った。まだ情報が足りない。私の言葉を受け、男が勢いづく。じり、じり、とまたこちらへ近づき始めた。
「村尾――周平さんはそのあたり、詳しく話していないんだろうか。嵐太郎さんは――まあ、当てにならない。気まぐれなお人だからな。仕方ない」
男はケイさんと向き合ってじりじりくるくる回るのをやめ、姿勢を正した。その事業とやらは男の心を躍らせるものであるらしい。「仕方ない」などといいながら、心の表層のプラグが激しく波打つさまが男の興奮度合いの高まりを表している。
「ハイブリッドコードキャリアは現在の遺伝子工学では解明できない技術で作られた芸術的な遺伝形質の発露だ。知恵者たちの播種計画は一部成功している。断片的なハイブリッドコードであればそこらを歩く老人にも子どもらにも、たいていの人間に備わっている」
男の心の表層に影が走る。あまりに素早く、そしてすぐに見失ってしまったためにそれがどんな感情によって動いているのかを知ることはできなかった。
「ハイブリッドコードは複雑な暗号でね。我々の配下の専門家が躍起になって解こうとしているがどうも難しい。仮に鍵と錠前のようにぴったりと合っても異能が発動するにはさらに何らかの条件があるらしいのだよ。しかも自然に顕現した異能では弱過ぎる。あなた方の異能は朽ち縄と白梅に引き出されたものだ。白梅のご当主、わたしはね、今の恣意的なものでなく、誕生の前、発生の段階からハイブリッドコードキャリアをうまく創出したいのだよ」
だからさ、それがどうしたっていうんだよ。うまいことハイブリッドコードキャリアが生まれないのは今に限ったことじゃないし、その上高確率の女性体の不妊問題があるわけで、そのあたりをクリアしたという前提で何をしたいのか、そこを訊いているんだけどね。
イライラする。
「ご当主、あなたが縋りついている五木さん。この人のように大きく長命で、しかも獣に変化する――そんな兵士がたくさんいたとしたら、どうだろう」
ケイさんの身体がびくり、と震えた。
「この人は大きく歳を取らないだけでない。力も強い。傷の治りも常人より早い。そんな兵士を意のままに、大量生産できるとしたらどうだろう」
男の心の表層のプラグが一斉に緩む。しゅうしゅうと漏れる気体が瘴気のように視界を阻む。
ふふふ、はは、はははは。
「素晴らしい。本邦はともかく隣の国なんかは高く買ってくれそうだ。事実、打診はあったのだよ」
男が誇らしげに笑う。ケイさんの身体の影からまたそっと目だけ出して男の様子をうかがう。なぜだろう。得意げに語る男の表情は無邪気ですらあるのに、なぜこんなに不穏なのだろう。続きを聞くのが怖い。ケイさんの身体が小刻みに震えている。男はふふ、と笑った。
「わたしの父はやり方を誤った。もったいないことをした。周平さんの要求を呑んでしまわず、『島』を温存する方法を提案すべきだった。そうすれば獣化するハイブリッドコードキャリアの量産方法がつかめたに違いないのに」
ぎょっとした。 いつの間にか男が回りこんできて、すぐそばで私を見ている。
「わたしもねえ、もとは播種拠点の出身なんですよ。まあ、当主の直系子孫であるあなたと違って、使用人の末裔なのでね、今時珍しくわたしの身体にはハイブリッドコードが欠片も入っちゃいない」
――なんだこのにおいは。
甘ったるい香水でマスクしきれない苦いにおいから逃れるために、私は手ぬぐいで口を覆い、ケイさんの背中に顔を押しつけた。
――冷たい。冷たい汗をかいている。
はっとして、ケイさんの正面へ回りこむ。汗に濡れるシャツを握り見上げるけれど、ケイさんはふるふると震え正面を虚ろに見据えたまま反応を示さない。おかしい。何が起こっているんだ。
「おやおや、そんなに怖がらずとも。五木さん、白梅のご当主は愛らしいお方ですな」
ふはははは。
「――ああ、そうだ。五木さん、美奈子さんという女性をご存じでしょう?」
男は下からねっとりとケイさんを見上げる。細い目が開く。この場を制したことを確信しているのが見て取れる。
「み――美奈、子」
ふるふると小刻みに震えるケイさんの顎からぽたり、と汗が滴った。
「ええ、ええ。その美奈子さん、残念なことにね、もう長くありませんよ。普通の人間としては十分に長生きといえましょうが」
ふふふふ、はははは。
「――どうです、一目会いたいでしょう」
「美――奈子?」
ケイさんはふるふると震え正面を虚ろに見据えたまま一歩、また一歩踏み出した。
「どこ――だ」
「ケイさん……」
いいたいこと、訊きたいことはたくさんある。でも目の前の大きい人から無理に私の聞きたい言葉を引き出したとて何になる。唇を噛み、うつむく。涼風が首筋をなぶる。力いっぱい掴んで皺くちゃになったシャツが指の間をすり抜けていく。
ほと、ほとり。
何かが池に落ちる音がした。大きな花びらが池に浮いている。蓮の花が散りはじめた。境内に、大きい人の姿はない。




