第九話 疾雷(一)
とても大事なことなので、再度確認しておくべし。変態には常に服を与えなければならない。
「ぐえ」
どんよりとした夜明けの空に消えていく大鳶を見ていたら、背後から伸びてきた太い腕が私をぐい、と引き寄せた。寒いのかな、と思ったのだがどうも違う。ケイさんの様子がおかしい。
腕は獣毛が消えつるりとしている。爪も引っこんでいる。日向のにおいに混じって濃い血のにおいがする。
「ケイさん、怪我――」
「詩織、ごめん、動かないで」
ずずずずず、ずぞぞぞぞ。
背後でぎちぎちと何かの音がする。
「もしかして白梅の木が」
「そうなんだ。枝が傷に食いこんじゃってて……」
「痛いんですか? 痛いですよね? 白梅、やめなさい、白梅!」
ちょっと、ステイステイ、血液ちゅうちゅうはやめて!
――おなかすいた。もっと、もっとちょうだい。
白梅の、かなり不満そうな気配がする。無理もないか。血液というおやつで釣って寝ているところを叩き起こし、「このあたり守っちゃってねよろしく」みたいな雑な指示をしかも肝心のおやつ――すなわち血液――でぐるっと領域指定しちゃって、白梅からすると「この円から出ちゃいけないのかな、それとも気を利かせてデキる白梅アピールしたほうがいいのかな、どうしようかな」と触手わきわきさせているうちに人間同士で話が終わっちゃって、要するに目覚め損なのだ。
「白梅、後で私の血をあげます。どうでしょう、前回の倍、四百ミリリットルで手を打ちませんか」
「詩織、駄目だ。さっき出血したばかりだろう。そんなに血を抜くと体に障る」
「でも」
背後からにゅにゅにゅ、と梅の枝が伸びてきた。地面に細い枝先で
――二百
と書き、ついでのようにさっきまで私が握っていた武器代わりの針毛を回収し、にゅにゅにゅ、と触手は戻っていった。食べるのか。あの針毛をおやつにするのか。
「に、二百ミリリットルだったら大丈夫ですよね?」
「ああ、まあ。体調と相談しながらだがなんとかなるんじゃないか」
驚いた。白梅と初めて直接コミュニケーション取れた。そうだそうだ。白梅も納得してくれたことだし、まずケイさんの怪我の具合を確認しよう。
振り返ろうとしたら、またぎゅうっと抑えこまれた。
「ぐえ」
おなかのあたりを締められるととても苦しいんですが。背後からお久さんの声がする。
「おお、これは痛そうじゃ。すぐに手当てをせねば」
「ええ、大丈夫、じゃないですけど、ええ、まあ」
「ケイちゃん、何をもじもじしとるんじゃ」
「いや、その、あの」
お久さんから逃げているらしく、くるくる回っている。背後からきつく抱きこまれている私も自動的に一緒にくるくる回っている。
く、苦しい。やめてくださいいい。ぎゅうぎゅう締めつけられて私の身体、おなかで真っ二つにもげそうですううう。
「五木くん、やめてあげて。カノジョ、僕の養女になる前に死んじゃう」
いつの間にか、目の前に甘ったるい顔のチャラチャラした長身の青年が立っていた。
「げげっ、スケベ医者」
「師匠!」
甘チャラ男は肩をすくめ手を体の外側に向かってひらひらさせる、欧米人めいた仕草をして、大袈裟にため息をついた。
「久子ちゃん、その呼び方ひどい。それはともかく、カノジョ大丈夫? 顔色変になってるからおなか締め付けないで、五木くん」
「ああああっ」
「ぐえ」
ケイさんがぐったりした私に気づき手を離した。すぐに私の体を抱えこみなおしたが。それでも幾分締めつけが緩んで助かった。甘チャラ男のおかげで一命を取り留めたようだ。
「ケイちゃん、何をしたいんじゃ」
「久子ちゃん、分からないかなあ。五木くんはカノジョをいちじくの葉っぱ代わりにしてるわけ」
いちじく?
「五木くんさあ、落ち着きなよ。服が全部吹き飛んじゃったのは仕方ないんだからさ。もう一度ヤマアラシになればいいんじゃない? わりと色々なところ隠れるよ、あの姿だったら」
「あ」
変態には常に服を与えなければならない。
大広間に移動して、ケイさんの手当することになった。大山猫の爪で裂かれた背中を中心に、ケイさんの体には痛々しい傷がいくつもついている。
ケイさんの師匠だというその人は見た目が若い。師匠というより隠し子といわれたほうがピンとくる。外見は二十代半ばくらいの無邪気な青年なのだが、よくよく目を見ると底の知れない何か、みちるさんが白梅に憑依されているときに宿す深遠と混沌に似た何かがちらりと見える。さっき「僕の養女になる前に」と口走っていた。この人がくだんの親戚なのだろうか。みちるさんが評判がよくない人物だとか何とかいっていたような。
「手伝ってくれる?」
「はい」
「カノジョ、聞くところによると館のあるじに選ばれたんだって?」
「ええ」
「じゃあ、治癒能力高いね?」
「え?」
「この人、麻酔使えないの。そのまま縫っちゃうから痛くて暴れちゃうと思うんだ。カノジョも怪我するかもだけど、頑張って抑えてて」
「詩織、俺は大丈夫だから離れて」
「五木くんは余計なこといわないの。いいよね? カノジョ」
ケイさん、暴れる気満々だったんだな。苦笑して私は答えた。
「もちろんかまいません。お手伝いさせてください」
甘チャラ男はわずかに目を眇めた。
――試してみてどうなの? どう思ったわけ?
心の表層を解放して好き放題読ませる。親戚であるらしいこの甘チャラ男は精神干渉の異能持ちらしい。
ごくわずかな間、睨み合う。ケイさんが居心地悪そうにもぞもぞし始めたのでお互いに引いた。
――いけ好かないやつだ。
このくらい、漏れて気取られちゃっても構わない。嫌な顔をされた。大人げないと分かっているがお互い様ということで。
甘チャラ男に指示されたのは「とにかく傷を縫い合わせる間、暴れないように抑えておけ」、この一点である。長椅子にうつ伏せに横たわるケイさんの顔の前に跪き手を握り、滲む脂汗を拭う。暴れると自分の怪我がさらにひどくなるという、そんな理由では駄目なんだろう。自分のせいで他人が怪我をするということがケイさんにとってより厳しい枷になるとこの甘チャラ男は知っているのだ。
――ますますいけ好かない。
できるだけ顔に出さないように努めたが、少し漏れちゃったかも。まあ、いいや。
甘チャラ男にざくざく傷を縫われる間、ケイさんは歯を食いしばり、わなわなと震えて声も出ない様子で苦悶していた。鮮やかな手つきで針と糸を使う甘チャラ男がちら、と私を一瞥していった。
「あのさあカノジョ、この人医者なんだよね」
「はい」
「頭脳労働者であって戦う人じゃないんだよね」
「はい」
「無茶させないでくれる?」
「……はい」
マスクの中で「ふうう」とため息をつき患部から目を離さず、甘チャラ男は話し続けた。
「あんな風に非力な女性が向かっていったら、いくら非戦闘職のこの人であっても間に入らずにいられないと思うんだよね」
「師匠、それは違います。俺は昔からあいつの暴走に対抗してき――」
「ああ、知ってる。知ってるけど僕がいいたいのはそこじゃないわけ」
「……」
「今もね、僕が『怪我するかもだけど』っていっても平気でしょう、カノジョ。いくら治癒能力が高くても、自分が怪我したり倒れたりすることに躊躇がないのって、当主としてどうかと思うよ」
「あなたに当主としての心得を説く資格があるとは存じませんでした」
私の背後遠く、大広間の入口に凄まじく冷たい波動が凝っている。この怖い冷気は不機嫌メガ……
「れいちゃん!」
「え? 誰だって?」
みちるさんの声だよね。振り返りたかったが、目の前で恐ろしいことが起きている。
甘チャラ男が私の背後遠くに立つ「れいちゃん」なる女性へ手を振りたそうにしている。光り輝く笑顔だ。目は女性に釘付け、しかし両手は縫合で塞がってなおかつ動いている。すなわちあれだ。ブラインドタッチっていえばいいの? 手もと見ないで縫ってるよこの人!
「ちょ、ちょっと手もと、ても――」
「いいかげんになさいませ、嵐太郎様」
「れいちゃんんん!」
「ちゃんと手もと見て縫いなさいよ!」
幸い、といっていいんだろうか。ケイさんは痛みで気絶している。
術後の後始末を済ませた甘チャラ男が片膝ついて跪き、みちるさんの手をとってうっとりと見上げている。
「れいちゃん……」
「嵐太郎様は残念ながら耄碌したようですね。『れいちゃん』ってどこの女よ」
「れいちゃん、しばらく会わないうちにこんなに老けこんじゃって」
すぱーん、と大広間に鋭いビンタ音が響く。
「んもう、おりんちゃんたら、相変わらず乱暴だなあ。でも年をとっても綺麗だよ」
「とってつけたように心にもないこといわないで!」
こんどは「おりんちゃん」っていったい誰のことだよ。
「今の私は鈴子ではありません。みちるです」
「でも、思いだしたんでしょう? 僕のこと」
甘チャラ男が再びみちるさんの手を取り微笑み、指先に口づけた。甘チャラ男は目を伏せていたから見えなかっただろうが、私はちらりと見てしまった。慌てて目をそらす前に見えてしまった。唇を噛み、一見悔しげに手を委ねるみちるさんの目に喜色がちらりと浮かぶのを。
「――思いだすも何も。あなたは五代前の当主、嵐太郎様です」
再び視線を絡ませる二人に先ほどの――視線が交わらずとも共有できていた――甘い雰囲気はない。みちるさんは冷たく男を見下ろし、嵐太郎とかいう甘チャラ男はその外見のわりに老成した目をして向かい合う女を見上げている。どこか切なさを載せているのにそこにあきらめの色はない。私にはそう見えた。




