第七話 梅雨寒(七)
「オレはオレさ。周平だよ。そこのネズミの兄で、『島』の実験記録装置『朽ち縄』の主であり、そして今は『朽ち縄』自身でもある」
「周平、おまえは実験記録装置の管理者に選ばれなかったはずだ」
「ネズミ、情報が古いぞ」
ふふふふふ。
ちかちかと肌が内側から光を放つ。そのまだら模様の明滅に鳥肌が立つ。
「ネズミ、それは『島』にまだハイブリッドコードキャリアがたくさんいた時代の話だろう。朽ち縄に選択肢を与えなければどうなる?」
――まさか。そんな。
息を呑む私を見て、周平がへらりと笑った。
「ふふふ。やはり白梅の当主は察しがよいな。ネズミには過ぎた女だ」
すすす、と近寄ってくるのを握りしめた針で薙ぎ払う。狙ったつもりなのにまたぬるりと避けられた。
「周平、どういうことだ」
「ケイさん、あなたが軍隊に入っている間にこの人は『島』を内部から破壊したんですよ。どうやったかは分かりませんが――。そしておそらく管理者になって朽ち縄を拠点から移動させるためのエネルギー源として『島』のハイブリッドコードキャリアの遺体が必要だった」
「島」で育てられた周平が、「王化」などとちやほやされながらも鬱屈した思いを抱えていた可能性はある。そうだとしても人を殺す理由にしてよいわけがない。もし私の想像通りのことを周平がしていたとしたら――。
――吐き気がする。なんておぞましい。
パワーでかなわないから、ケイさんが軍隊に召集されている間にことを進めたのだろう。もしかしたらケイさんの婚約者も利用するために誘惑されたのかもしれない。
――なぜそんなことを。なんのために――。
胸ぐらをつかんで揺さぶって問い詰めたい。しかし私に激する資格があるのか。ふと湧きおこる疑問が私の心に冷や水を浴びせる。
「全部が全部正解だとはいわないが、白梅の、だいたいのところはアンタの想像した通りだな」
「むちむちした例の女性をハイブリッドコードキャリアにしたのはあなた自身だということですね?」
「そうだ」
「あなたの中の朽ち縄があの女性を――呑んだのですね」
食べた、とはどうしてもいえなかった。ふるふると胃がわななくのを感じるが、懸命に抑える。
――動揺してたまるか。
ケイさんがこちらへ来ようと姿勢を変えたが、視線を周平に合わせたまま制した。気持ち悪さに耐え、握りしめた針の先で掌をぐりぐりと抉る。鮮やかな痛みが私を揺さぶる。正気を保て、と揺さぶる。
「ああ、呑みこんだよ」
「おば様も――梅田千草さんもですか」
周平はほんの少しの間きょとん、とした表情を見せた。皮膚がまだらに輝き、目が影に沈む奇怪な姿なのにその表情は意外なほどいとけなく見える。しかし腑に落ちたのかすぐに先ほどまでの私を侮りあざける表情に戻した。
「――ああ、なるほど。白梅の、そこはちょっとお勉強が足りないようだな」
たやすく情報は寄越さない、そういうわけか。傷ついた手で背後の梅の老木に触れる。じくじくと痛む。たらりたらり、と血が老木の幹を伝うのを感じる。
――まだ、まだ駄目。あと少し我慢して。
「まあ、このくらいは教えてやってもいいぜ。千草の遺体はオレがもらった。そこの梅の木の前に安置してあるのを引っ攫ってやったよ」
ずずずずず、ずぞぞぞぞ。
「オレはなあ、白梅の。大吾と約束したんだ。表向き初恋を実らせた幼馴染ということになっていた愛人は単に大吾の交配実験の相手というだけだったからさして興味はなかった。でも、千草は違う。幼いころに大吾が引き取り、乙女として自ら育て上げてそして、周囲の反対を押し切って結婚した特別な女だ。だから最後まで見届けた。でも死んだあとはどうしようと俺の勝手だ。そういう約束なんだ。アンタには分からんだろうが。――これ以上は簡単には教えてやれないな。そうだな、オレのものになったら教えてやってもいいぜ」
ずずずずず、ずぞぞぞぞ。
「じゃあ、教えてくれなくていいです」
「おいおい、そんなにオレを嫌うなよ。このネタはそこらそんじょの資料や記録を調べても出てこないぜ」
「不要です。質問を変えます。『川向こうの盟主』とは誰ですか。あなたのあるじですか」
周平の顔色が変わった。明滅する皮膚に血の色が上る。
――ほう。意外なところに弱みが。
「誰もオレに指図なんぞできん。川向こうの、あいつには昔ちょっとばかり世話になったから手伝ってやっているだけだ」
「そうですか。対等な関係なんですね。昔世話になったというのは『島』を滅ぼしたときのことですか」
ケイさんの体、針毛が悲しみと憤りで膨れ上がる。ごめんなさい。本当はこんな話、聞かせたくなかった。
「世話になったのはあいつの親父の代だ。ネズミを遠ざけ、人が消えたのをもみ消す代わりに『島』の文書をくれてやった。対価としては大き過ぎるくらいだが、戦争のどさくさで原本が焼失したとか何とかで、息子が値切りやがる」
「なぜ今になって動き始めたのですか。『島』を滅ぼし朽ち縄を手中に収めておよそ七十年、祖父の大吾が亡くなり白梅荘の政治的、経済的基盤が弱体化しはじめて三十年、何度も機会はあったはずです」
「朽ち縄が嫌がったからよ」
怒りに体を震わせるケイさんをちらりと見て周平は鼻で嗤った。
「朽ち縄はオレを管理者にしたがらなかった。朽ち縄は何度も何度もオレに抗った。必要としているくせに『島』のハイブリッドコードキャリアの遺体を呑みこむのもそれはもういやがってなあ」
ふふふふふ。
楽しそうにうつむいて周平が笑う。なんて嫌な声なんだ。
「朽ち縄が抵抗をやめたのはついこの間、といっても二年くらい経ったか。何十年も消息の知れなかったネズミが白梅と乙女契約を結んだと聞いて、朽ち縄はやっとオレに従うようになったのさ。手を焼いたぜ」
そんな。
「ああ、千草も同じことをいってたぜ。知っていたら契約させなかったってな。あれはいつだったか、そう――去年の年末だったな」
ケイさんががっくりと膝をついた。肩を震わせている。
「相当ショックだったみたいでなあ。雨が降っていたのに立ちつくしちまって、あの後大丈夫だったのかね。それ以来庭にも出てこなくなったけどな」
ぶん、と棒が叩きこまれた。すすす、と周平が滑るように後退する。
「詩織ちゃん、すまんのう」
身の丈を越える長い棒を構えたお久さんが私の前に立っていた。
「わし、もう我慢ならんよ」
「排除を許可します。ただし殺してはなりません」
「詩織ちゃん」
「まだおば様の遺体のありかが知れないのです。殺してはなりません」
「承知」
お久さんは眉根を寄せて周平を睨み、静かにいった。
「村尾。おやかたさまの温情に感謝するがよいぞ」
「ほう、久子さん歳をとったねえ。異能でなく棒っきれでオレをどうこうできるとでもいうのか?」
「元より侮ってはおらんよ」
二人の間の緊張が膨らみきるその前に。
――よく狙え。
高く掲げ私は針毛を投げた。弧を描き、針毛は植えこみの陰に吸いこまれる。
ぐしゃり。
手ごたえがあった。
「白梅の――お前、何を」
「村尾、参る!」
ぶん、ぶんぶん、ぶん――。
お久さんのあの小さな身体のどこからこんなパワーとスピードが、と目を疑うような凄まじい打撃が繰り出される。ひらり、ひらひらりと躱すことに成功していた周平の肩に一撃、突きが入る。ず、と重く鈍い音がして周平の体が犬槙の木に向かって跳ね飛ばされた。ゆらり、と立ち上がる周平の頬に斜めに走った傷から血が流れる。しかしその血が頬から地面へと滴り落ちる前に傷も血もすっぱりと消えた。朽ち縄も管理者、あるじである周平に治癒能力を与えている。
この機会を逃してはならない。私はストールの内側に縫いつけたホルダーから針毛を二本、取り出した。高く針毛を掲げ、薔薇の茂みの陰に向かって投げる。
――外した。
唇を噛む。落ち着け、私。もう一度、慎重に狙った針毛が弧を描き薔薇の茂みに吸いこまれた。
ぐしゃり。
「あああああっ!」
周平が耳を手で押さえ、叫ぶ。肌がまだらに輝く。明滅のスピードが上がる。指の間から血が漏れる。容赦なく振り下ろされる棒をかろうじて避け、周平が初めて狼狽の表情を見せた。
私はさらに取り出した針毛を構えた。
「白梅の、やめろ」
周平が呻く。すっきりと通った鼻すじに皺を寄せ、侮蔑でなく憎悪の眼差しで私を貫く。
――ぐ、ぐぐぐぐ。
犬槙の根もとに伏せた体勢から、周平が一気に高く跳躍する。
空中で体が変化する。
ぐるるるるる。
軽やかに着地した大きな獣が私を凝視しながら優雅にゆっくりと歩む。黄金色の目がらんらんと輝く。灰色の毛に木漏れ日に似た斑点が浮いている。――山猫だ。足を止めた山猫の目がいっそう強く輝き、口が嘲笑うように開いた。なめらかな毛皮に覆われた背中が大きく膨らむ。
しゃあああっ。
大山猫が突進してきた。




