第十七話 困却(一)
厨房を出て、階段を上り居住エリアへ向かう。よく晴れているので北向きの廊下も明るい。そして静かだ。裏の菜園や丘に配された灌木や草花など、みちるさんの丹精した無造作なようで美しい庭を腰高窓越しに眺めながら早足で歩く。
白梅荘の居住エリアは二階東翼に六世帯分の居室などがある。洗面台やトイレなどの水回りは共有。間取りは居室によって異なるが、居間と寝室の二間が多い。私の専有部分は当主用だからか広くて部屋数も多いが、千草さんの荷物やら何やらがそのままでほぼ物置と化している。放火事件で失ってしまって私物がほとんどなく、寝室のクローゼットと棚で足りてしまうもので、遺品を片づけようかと重い腰を上げる気にならない。
居住エリアの端、西翼寄りへ向かう。建物の中心に近い端にみちるさんの居室はある。ドアをノックする。
「はい」
と返事があり、内側からお久さんが顔を出した。
「おお、詩織ちゃん、お帰り。楽しかったかの」
「ええ。みちるさんは?」
「うむ、ちょっと具合が悪くてのう」
「すみません。やはり泊まらずに戻るべきでした」
「いやいや、具合が悪くなったのはついさっきでのう。旅行が問題ではないのじゃ」
お久さんが奥の寝室に私をいざなう。
初めて入るそこは、こぢんまりとした部屋だった。クローゼットと箪笥、ベッドとサイドチェストでみっしり空間が充たされている。使いこまれた古い家具。色の褪めた厚いカーテン。
「わしは厨房でおやつをいただいてまいろうかの」
大きな口が上向きに弧を描く人懐っこい笑みを見せてお久さんは部屋を出た。
ベッドサイドのスツールに腰掛けた。分厚いカーテンの隙間から光が帯となって掛け布団を照らしている。いったん立ってカーテンを閉めなおし、スツールに戻った。ベッドで布団にくるまっているみちるさんはいつもよりさらに小さく見えた。つやつやの黒髪ボブヘアが枕に広がっている。熱があるのか、頬が紅潮している。目がうるんで、不謹慎ながらちょっとかわいいと思ってしまった。不機嫌そうな表情を作るのに失敗したように見える。
「ごめんなさいね、詩織ちゃん」
「いつもお忙しいですからね、疲れがたまったのでしょう。せっかくお休みを取れたのに、ゆっくりできない状況になってしまってすみません」
「あのね、詩織ちゃん、話さなければならないことが、あるの」
「なんでしょう」
みちるさんの話は自身の異能「再生」に関することから始まった。概ねケイさんに教えてもらったとおりの話だった。
「早く再生しなければ、もううまく動けなくなってしまいそうで」
身体もそうだが心が疲れきっているようで、みちるさんは弱っていた。
「すみません。もっと早く私がここに来ていれば」
「詩織ちゃん、違うのよ。違うの。……私、もう年寄も大巫女も、再生もやめたい。今ので最後にしたい」
みちるさんは、さめざめと泣いた。
本人の語る「再生」は酷い異能だった。再生が近くなると、変化が現れる。それは体調の乱れだけでない。再生前最後の十年間は過去の記憶が蘇るのだという。
「じゃあ、再生すると……」
「一度、すべて忘れてしまうの。再生してすぐは五歳くらいの子どもになるのだけれど、成長は普通の人より早めで十年ほどで大人になる。その間、折に触れて白梅が表に出て代わりに動いてくれるの。私自身の意識は眠ったままで」
もう何百年前か覚えていられないほど昔から、五、六十年周期で再生を繰り返してきたのだそうだ。
「今の『みちる』という私はもうすぐいなくなる。そうしたら詩織ちゃんのこともみんなのことも……きっとお久のことも忘れてしまう。今までがそうだったから」
ポケットからハンカチを出し、スツールから腰を上げて、みちるさんの目もとを拭う。
「だから、私に抜き針の儀を……」
不意にみちるさんの体から力が抜けた。
しばし後、ふうう、と息を吐いてみちるさんが目を開けた。その目に混沌と深遠が宿る。瞳に青い炎が揺らめいたように見えた。不機嫌メガネモード、いや、ホラーモードだ。白梅と入れ替わったらしい。
「勝手なことを」
白梅は上半身を起こし、額に手をあててため息をついた後、そう吐き捨てた。目尻から涙の筋が伝う。
「おやかたさま。失礼いたしました。白梅の神聖な務めを放棄したいと望んでいるかのような発言、聞かなかったことにしてくださいませ」
「かのような、ではなくみちるさんの望みは努めと異能から解放されることだと聞こえたけど?」
「とんでもないことです。この器はいつもいつも、再生のたびにそういうのです。忘れたくない、忘れられたくない、と」
「いつも……」
「はい。もう何回も繰り返していますのに。『対』などつくらなければよい、と毎回忠告するのです」
なんてむごい。できるだけ表情に出さず、淡々と応じる。
「解放すればよいのでは? 代わりに私が担ってもよいのだし」
「おやかたさま、それは無理でございます。おやかたさまにこれ以上のご負担をかけるわけにいきませんし、なにより」
白梅はふい、と視線をそらした。さっき閉じたカーテンの合わせ目が緩み、明るい初夏の日差しが帯となって白梅の頬をなぶる。
「この器と白梅は、もう分かちがたく結びついてしまっているのです」
初老のみちるさんの顔をした、私の知らない女がそこにいた。
――白梅、お前はどうなんだ。
そう訊きたかった。単に乙女の窓口のつもりでいたのか。仮の宿のつもりだったか。みちるさんの愛する人を見送り、みちるさんが愛した人を忘れ、思い出したときにその人はなく、思い出せなかった期間に接したかつての友との、恋人との記憶に苛まれる再生までの期間を、共に過ごしてどう思ったのか。何百年も経て白梅、お前はどう感じたのか。実験記録装置だと名乗る白梅を詰ってしまいたかった。
しかし、今はそうしない。淡々と事実だけを拾い、確認する。
「なぜ、分かちがたく結びついていると思うの?」
「この器の脳内で契約錠が育ち過ぎているのです。体組織と癒着しています」
「再生時にその癒着は剥がれたり、解けたりするんじゃないの?」
「いいえ、再生時のベースとなるコアの部分ですので解けません」
「では契約錠を抜こうとするとどうなる?」
「実験記録装置としての白梅にコミュニケーション以外の問題は起こりませんが、この器の命が失われます。儀式が成功することはまずありません。契約錠を無理に引き抜こうとすると、脳が破壊されます」
白梅はそらしていた目をこちらに向けた。不躾なくらい不敵な視線だ。殺せるものならばやってみろとでもいいたいか。白梅、その挑発には乗れない。
「白梅、確認させて。今日のこの変調はみちるさんの再生が近づいているからなの?」
「いいえ、違います。再生に備え、この器と白梅は準備を概ね問題なく進めています。今回の変調は白梅のエネルギー切れが近づいているからです」
「エネルギー切れ?」
「はい。メインライブラリをおやかたさまにお預けしてありますが……ご覧になっていないのですか?」
「え? 見ていいの?」
「当然でございます。この白梅のあるじに閲覧権がなくて、余人にあるわけがございません。……いやだこのおやかたさま、アホっぽい」
うぐぐぐぐ。わざと聞かせているな、白梅。辛辣なやつめ。
「そう。じゃあ、今度中身を見ましょうね。それはともかくエネルギーについて教えて」
「はい。――実はここ二年ほど、実験記録装置は稼働していなかったのです」
予備エネルギーで必要不可欠な作業、つまり乙女の契約と管理のみを行っていたらしい。そこへ私がやってきて庭の梅の木の前で流血した、と。
「それで久しぶりに稼働できるようになりました。休み休みではありますが」
確かにだらだら血を流したけど、出血量としては大したことなかったと思う。
「あの程度の量では本来不足するはずなのですが、おやかたさまの血液は不思議なほどエネルギーとして有用です。あれからまめに血液を分けてくださり、そしてあの娘の抜き針の儀で薄い血液ではありますが、まとまった量をいただきました」
「白梅のエネルギー源は血液なの?」
うわあ、すっごく嫌な感じ。血液大好き、それはなんとなく伝わってきていたけれどあれって白梅のご飯だったのか。
「違います。白梅のエネルギー源はハイブリッドコードキャリアの身体を結晶化したものです。血液はその代用に過ぎません」
「ええっと、そのわりには結構喜んでたみたいなんだけど、もしかしてご飯というよりおやつという感じなの?」
「……そうですね。ちなみに髪の毛、あのヤマアラシの針毛などの体組織もおやつとしてつまみます。最近あの大きい乙女は針毛をくれなくなりました」
白梅がぷいっと横を向いた。
あの針毛、スナック感覚でばりばり食べちゃうのかい。そしてお供え物みたく梅の木の前に置いてあった針毛を私が勝手に持って行っちゃった、と。なんだか悪いことしたみたいだけどなんだろう、この残念な感じ。おやつを取られて拗ねてる白梅もそうだけど、知らないうちにおやつを奪っちゃってた私はもっとひどいな。
「ええっと、ケイさんが針毛をストックしちゃってるみたいだから、梅の木の前にお供えするようにいおうか?」
「いえ、結構です。もうおやつくらいでは足りませんので」
エネルギー源はハイブリッドコードキャリアの身体を結晶化したもの。白梅はさっきそういった。
――遺体も分析のために実験記録装置に捧げられる
みちるさんがいっていたこのことだろうか。
「乙女は死んだ後、葬儀を行わないと聞いたけれど、関係あるの?」
「はい。乙女の死後、遺体は前庭の梅の木の前に安置されます。そして梅の木がその遺体をまるごと呑みこみます。実験記録装置が分析を行うサンプルを採取したのち、ボディの残りを結晶化します」
「その結晶がエネルギーとなる、と」
「実際は結晶を用いてある反応を導き、エネルギーを取り出すのですが……おそらくおやかたさまにはご理解いただけないかと」
「とりあえず分析とエネルギー源の結晶を作るために乙女の遺体が必要だということだけ分かった」
「十分な理解でございます」
「乙女ひとり分の結晶でどのくらいの期間もつの?」
「個体差はございますが、少なくとも十年、質がよろしいと五十年近くエネルギーを供給する結晶も」
「んん?」
おかしくないか。
「おば様、じゃなくて先代の当主は館の主ではなかったけれど乙女だったと聞いたけど?」
「さようです」
「先代の当主は今年の初めに亡くなったよね?」
「おかしいです」
「え?」
「そんなわけはありません。先代の当主は相続だけして旅に出ているのではありませんか?」
「ええ? おば様、生きていらっしゃるの?」
「どうもこのみちるという女も他の乙女も、先代当主が亡くなったことを前提にして暮らしているので不思議に思っていたのです」
「いや、亡くなったと聞きましたよ? そうでなければそもそも私、ここに来てないわけだし」
おば様が亡くなったと聞かされたとき私はまだここ白梅荘に来たことがなく、白梅はエネルギー不足で休眠状態だった。白梅と二人で首を傾げていても結論は出そうにない。
「白梅はどうして先代当主が生きていると思うの?」
「まだ遺体をいただいていないからです」
きっぱりと白梅はいい切った。おなかがすき過ぎて記憶が混乱しているというわけではなさそうだ。白梅はおば様の遺体を確認していない。
「乙女が遺体を白梅に捧げないという事例が今まである?」
「はい。この器のように再生する場合もございますが、他に嫁ぎ先が遠方で遺体が回収できなかったり、抜き針の儀を成功させて乙女契約から解放されたり」
抜き針の儀はここ三十年、行われていなかった。儀式を執行できる者、つまり館の主が不在だったからおば様は乙女契約に縛られたままだったはず。
「先代の当主は館の運営に力を注ぎ、乙女としての異能も卓抜したものがありました。ほんとうに資質さえあれば館のあるじに、と悔しく思ったものです。それだけにさぞ質の高い結晶ができるであろうと」
楽しみにしてたんかい。えぐいなあ。
「分かった。調べましょう」
「お願いします。その間のエネルギーの件は」
「さっき、予備があるといったでしょう?」
「ご無体な」
「まあ、その予備の結晶はみちるさんの再生とか、非常事態に備えて保管しておいて」
「普段のエネルギーはいかがいたしましょう」
「そうね。私の血液を使いなさい」
白梅が私を気遣わしげに見つめる。ずけずけとした物いいをすることもあるがきっと白梅なりに当主の私を大事に思っているのだろう。次世代へのつなぎ程度の認識だとしても。
「ですが――」
拗ねた様子が少女めいている。憑依人格だと分かっていてもどうしてもみちるさんと分けてとらえることができない。愛らしいので、頭を撫でた。白梅は驚いたように目を瞠ったが、照れたように俯いた。
「みんなが白梅を騙そうとしていると思っていたんだね?」
「……はい」
「そんなことはないと思うけれど、予断にとらわれずちゃんと調べるから安心なさい」
「はい」
「しばらくエネルギー源を供給できない可能性がある。必要なだけ私の血液を用いなさい。いいね?」
「しかし、おやかたさま」
「ああ、怪我や病気で白梅に負担をかけないように気をつける。それに貧血対策をケイさんと一緒に練るし。あの人、お医者さんなんですって?」
「ええ、そうなんです」
「白梅、お前も、みちるさんも少し休みなさい。頼りにしているんだから」
「かしこまりました」
白梅が布団に再度くるまる。顔も見えなくなるくらい潜ってしまったのには、苦笑してしまった。その気配を聞きつけたか、ひょこ、と顔の上半分をふとんから出して目でこちらの様子をうかがっている。
「あの……」
「どうしました」
あらぬ方へ視線を投げ眉間に皺を寄せた白梅が
「来客ですか。――その、乙女でないハイブリッドコードキャリアが館の中にいるような気が」
自分が感知していることに自信がない様子で尋ねる。
――やはり石部少年はハイブリッドコードキャリアか。
私は当主を継いだだけで乙女の契約を交していないから体内に契約錠がない。それなのに白梅は私が乙女かどうか判定できないようだった。どうも今日の話だとエネルギー不足で十全に機能していないのではないだろうか。だからきっと石部少年のハイブリッドコードをはっきり感知できないのだ。
ならばそれを逆手にとろう。
私は新しい乙女を迎えない。そのことを目の前のみちるさんの姿をした実験記録装置に悟られたくない。
「理沙嬢がきていますよ」
「小さい乙女だった者ですね。ああ、――だから」
得心したのか、白梅の表情がほっと緩んだ。
「ちゃんと鼻も布団から出して。眠るまで見てるから」
白梅は目を細め、布団を顎まで下げた。しばらく頭を撫でつづけていると、呼吸が深く長く穏やかになり、白梅の体から力が抜けた。
長い年月、ひとつの体を分け合ってきたみちるさんと白梅。息が合うこともあれば、今回のように引き裂かれるように相容れないことが何度もあったろう。愛着だとか、憎しみだとか、感情で量れないくらい溶け合うほどに近い存在なのに、触れ合い言葉を交わすことはできない。自分の所業に傷つくと知っていていもみちるさんは再生のたびに「対」を他に求め、白梅はそこから目を背け続ける。
外見は初老のその人の幼い寝顔を眺めながら私はしばらくの間その艶やかな髪を指で梳き、掌で頭を撫でつづけた。カーテン越しの光が傾いている。日暮れが近い。




