第十五話 小旅行(二)
濃藍から紺藍、藤色、鴇鼠、と色が変わり朝日が昇った今、空の色がなんとなく淡く黄色い。いやいや、太陽が黄色く見えるとかそういうことはない。呑み過ぎてない、大丈夫。ドラマチックでないだけでこれも朝焼けだ。
都会の高層ホテルでカップルプランといえば、じっくりしっかりたっぷり後朝を楽しみ昼あたりにチェックアウトしましょうというのが売りなんだが、私たちに関していえば不要なサービスだ。歳をとりますとね、朝が早いんですの。私もいい歳だが、ケイさんは半端なくいい歳こいているので私なんぞよりずっと目覚めが早い。ちゃんと寝てるのか、この人は。で、朝っぱらからお気に入りのうなじにすりすり頬ずりしてたいそうご機嫌なんである。
「……おはようございます」
「おはよう。よく眠れた?」
変態うなじフェチめ。
よく眠れた? じゃないんだよ。眠れるわけないだろう。普通、首に手をかけられたら生命の危機を感じるんだよ。そんなひやひやすることを連続でずっとずっとずーっとやられちゃってるの。さすがにこれだけ長時間やられると生命の危機に瀕していないってのは分かるんだけど、落ち着かないんだよね。これでぐっすり眠れると思うほうがどうかしていると腹の底から思うわけ。だからさ、「よく眠れた?」ってのはまったくもって意味のない問いだと思うのよ。正座させて小一時間ほど説教したいのは山々だがそうしない。間違いなく徒労だから。
ケイさんは、私の首を撫でつつ
「やっぱり注文じゃなくてその場で買えるのを選べばよかった」
とぼやいている。カメラのことである。
実は昨日、カメラ屋にも行った。理沙嬢が破壊したカメラとレンズを買い直すためだ。店に行ってみて驚いた。私の知っているカメラと違う。特にお値段が。ほんと高い。レンズはもっと高い。庶民の私の心を削る金額だった。店員さんによると「バズーカ」の在庫がないらしい。目の玉飛び出るような金額なのでそうたくさん仕入れないのだろうが、あんな高価なものが在庫切れ起こすくらい売れちゃうということに驚いた。すごいな、カメラ好きの世界。レンズとカメラ、どちらも配送手続きした。だから今カメラが手もとになくて
「せっかくいつもと違う場所、違う光の中で撮影するチャンスだったのに」
とケイさんは残念そうにしている。カメラ、買わないほうがよかったんじゃなかろうか。まったくもって変態というのは度し難い。
――いつもと違う場所、違う光、か。確かにそうだ。
大きな窓からふんだんにさす日光が壁紙やベッドカバーに乱反射して部屋がしらじらと明るい。白梅と「島」とに命を引き延ばされている大きい人は一見いつもと変わらない。しかし、ほんの少しだけれど血色がよくない。普段奥深いところに周到に隠された経年による疲労が滲みでているように見える。
「疲れたんじゃありませんか?」
「大丈夫」
唇が重なる。やわらかく甘く狂おしく、一番近くにいるこの人から向けられる視線を浴びているそのことがあまりに明るく幸せで目を開けていられない。ごまかされたのは分かっている。けれど私は溺れた。
チェックアウト後、開店直後のデパートへ行った。
「今回は買い物ばっかりでしたね」
「ほんとだな」
ケイさんが「車で来てるんだから多少かさばっても平気だ」というので、結構買いこんだ。乙女たちへの土産や、来客用の菓子などを車に載せ、帰路についた。
連休最終日。
初夏の乾燥して明るい夏を思わせる日差しがアスファルトを灼く。料金所を通過する。遮音板に囲まれた道路。色、形、くたびれ具合さまざまなたくさんの自動車。
「昨日と違う道なんですか?」
「出発が早かったからね。少し遠まわりしよう」
「どこへ?」
「多々良が浜とは違う海へ」
南へ、南へと進む。
太陽が高い位置にあり、さらに快晴だからそう感じるのだろうけれど日差しが厳しい。都心とは大違いだ。有料道路を出て山間を走っている間はそうでもなかったが海沿いの道に出た途端、渋滞に捕まった。なかなか先に進まないのは難儀だけれど私にとっては却って都合がよかった。
今まであまり潤沢といえない手もとの情報だけで戦略を構築していたが、これからは違う。まだすべてではないが記憶の封印が解け、手探りするのもひとりでなくなった。本当にこれでいいのかという迷いはあるけれど、昨日の朝、白梅荘を出発したときよりずっと心が軽くなっているのは事実だ。
「申し訳ないが、兄の周平について提供できる情報はあまり多くない」
「情報を明らかにすることを許可されていないということですか?」
「そうじゃない。許可も何も、もう『島』も、『島』のみんなもいないんだ。もともとあまり知らないという意味だ」
「兄弟なのに?」
「家族じゃないからな」
複数の異能を高レベルで使える「王化」という状態でありながら長い期間生き続けていること自体が不思議だ、とケイさんはいった。
「もともとの生命力が強いのだとしてもどこかおかしい」
「そうですね……私には詳しいことは分からないのですが、あの人の何かがおかしい、それは感じました」
色々なにおいが混ざっているから、瞳孔がトカゲのように縦長のスリットだったから、それだけではない。実際に目の前に立った周平という人は
「ねじ曲がっているような、無理やりたくさん詰めこんで弾けそうになっているような……」
存在が濃いというのとも違う、厚みがあるのとも違う。うまくいえないけれど不自然に膨らんでいる感じがするのだ。
「見た目は細くてチャラいにいちゃんなのに、なんででしょうね」
「これが周平の奇妙さの原因に直接結びつくかどうかは分からないが、第一印象というのは意外に多くの情報を含むことがある。よく覚えておいたほうがよさそうだな」
ケイさんはちらり、とこちらを見た。
「どうした。何か気になることがあるのか?」
「いや、その……私も複数の異能を持っているわけですが、やっぱり周平という人みたいに奇妙なんでしょうか」
気になっていることを、思い切って口にしてみた。
「奇妙、か。きみの場合は今まで異能が覚醒しないままだったからなあ。奇妙というより、いっぺんにトラブルに遭って疲れきって見える」
「確かに。引っ越した当初ほどではありませんがものすごく疲れます」
「そこが心配なんだよ」
ケイさんはふうう、とため息をついた。
「いやでなければ、だけど、今度診察させてもらえないかな」
「診察料によります」
「え?」
「あんまり高いと払えないです。働いていないので手元不如意なのです」
「いや、お金はいらないけど……」
「駄目ですよ! お医者さんはスペシャリストなんだから、それなりの料金をとらなきゃ駄目でしょう!」
「そ、そう? タダならいいとか、そういうことはないのか?」
「タダってのはよくないんです。ケイさんだと『タダで診てやったんだからうなじ触らせろ、撮影させろ』くらいはいいそうです」
「ええ? いわないよ? ……ちらっと考えたけど」
ほうら、いわんこっちゃないよ! 変態うなじフェチめ。
「こういうのはね、ちゃんとお金に換算して明朗会計しないと、駄目なんですよ」
「そうかなあ」
「じゃあ、これだったらどう?」
ストールで首を隠し、わざとらしく上目遣いしてやった。
「私のうなじって、お金や物に換えられる程度のものなんですね?」
「あああっ、それは違う」
賢い人なのにうなじが関わるとなぜここまで冷静でなくなるんだろう。ほんとに好きなんだな、うなじが。
「ところで、この車を盗聴不可能にするというのはいつ思いついたんですか?」
「抜き針の儀の翌朝だ」
あの朝。勢田氏に世間話の態で警告されたあのとき。
「あの後、ガレージに行ってみたら車に違和感があった。ぱっと見た感じに変化はないのに、と思ってよくよく調べたら盗聴器が仕掛けられていた」
「この車から盗聴器を除いたのはいつですか?」
「昨日の朝。機材をそろえるのに時間がかかって」
「屋敷の中にもありそうですか」
「確認していないがおそらくは」
「じゃあ」
ケイさんは表情を厳しくした。
「気持ちは分かる。情報漏れは盗聴器を仕掛けた人々のせいで白梅荘のみんなではないと信じたい、それは俺もそうだ。でもまだ決めてかかるのは早計だ」
「ええ、そうですね」
残念だけど、そうだ。ほんとうはケイさんも除外できない。だからケイさんに関するリスクを織りこんで戦略を構築しなければならない。
「詩織、大丈夫か」
「平気です」
気を引き締めなければ。渋滞でのろのろ鈍足進行だったが、情報交換は捗った。話したのは今後のことが主だ。私の異能、特に精神干渉についてもいろいろと話し合った。あとは屋敷と乙女たちについて。
乙女三人の異能、健康状態についてはさすがに医者だけあってケイさんは詳しいらしい。らしい、というのは教えてもらったわけではないからだ。
「俺は知っているけれど、プライバシーやハイブリッドコードキャリアのタブーに関わるから、話せない。本人の許可がある場合や、白梅荘に関わる非常事態だったら別だけど」
「ええ、必要に応じて本人に聞くようにするので結構です」
「実はみちるさんの状態はよく分からないんだ」
「そうなんですか?」
「俺じゃ駄目みたいで、師匠にしか診察させない」
「主治医さんと仲良し、みたいな感じですか?」
「違う。違わないんだけど……やっぱり違う」
えええ、何、その歯切れ悪い感じ。
「師匠からみちるさんの変化に注意するように、と念を押された」
「変化?」
「具体的にどんな変化なのか、教えてもらえなかったんだけど」
ふらふらと旅行に出かけたまま帰ってこないというこの人の師匠には教えるスキルが欠けているような気がしてならない。
「さすがにこの渋滞はきついな」
「疲れるんじゃありませんか?」
途中買っておいた飲み物を差し出し様子をうかがうと、ケイさんはボトルを受け取って微笑んだ。
「いや、一向に」
元気な百歳だ。
強い日差しで熱せられた空気がゆらゆらと周囲に立ちこめ、前後の車ものろのろとした進み度合いに倦んでいる。
「別ルートにしよう」
私たちの乗った車は国道から脇道へ入った。畑に囲まれた道を進むと、公園に辿り着いた。駐車場に車を止めて、外へ出る。しばらく歩くと見晴らしの良い丘の上に出た。ベンチで休憩する。
この丘の上から崖に沿うように遊歩道が続き、磯に降りられるようになっている。天気が良いので、遠く湾をはさんで向こう側まで見渡せる。
「多々良が浜とはずいぶん雰囲気の違う海ですね」
「ここは波で浸食された磯だそうだ。面白い景色だな」
長い時をかけて波が削った岩が複雑な曲線を描き、松の木々があちらこちらに生えている。
「『島』があったのはあの山の向こうだ」
「海ではないんですか?」
「名前は『島』なんだけど、山の中にあった」
湾をはさんだ向こう側、遠く西へと、ケイさんは視線を向けた。
――悲しんでいる。
故郷や故郷の人々を失ったのが自分のせいだと、どうしてこの人が考えるのか、それが事実なのか、私は知らない。しようと思えば大きい人の心の中に入って知ることはできるけれど、そうしない。悲しみが癒えさえすればいいのかどうか、そういう風に立ち入ってしまっていいのか、それすら分からない。ただ少しでもその重荷を引き受けたい、そう思った。私は大きい人の手に自分の掌を重ねた。私の手は海風に吹かれて少し冷えたけれど、彼の手は温かい。ぎゅ、と握れば、同じようにぎゅ、と返された。海の向こうを見やっていたケイさんが今は私をじっと見ている。
「直接心の中を見てもらってもかまわない」
「いいえ、今はやめておきます」
「なぜ」
「きっと私が立ち入ることで感情の色が塗り替えられて、そして知りたいと思うことは残像だけを残して私の行ったことのない場所へ隠れてしまう。そんな影響を与えてしまう。それは私が知りたいと思うことの真の姿ではない。そんな気がします」
「俺が向き合えないものを、きみに見ろといっても無理ということか」
私は何もいえなかった。
つないだ手はそのままに、しばらくそれぞれに海の向こうを眺めた。富士山が意外なほど近く大きく見える。晴れているのに空気が湿り気を帯びているのか、光がほんのりと紫がかっている。湿気のフィルター越しに眺める山々は稜線がかすみ、おぼろだった。まだ先のことだけれど、梅雨の気配を感じる。
再び車に乗り、出発した。畑の中から丘へ、混雑する海を避けてルートを選ぶ。
「ケイさんの『島』と白梅荘、意外に拠点同士の距離って近いんですね」
「それは飛行機や自動車がある現代に生まれ育っているからそう思えるんだ。峠や山、海で隔てられたらそう簡単に行き来できない。実験記録装置は有史以前に作られ、鉄器より前の技術レベルにあった先住種族ベースのコミュニティが運営していたことを忘れてはいけない」
こうして整備され平らに均された道路を滑るように自動車で高速で走る、電話でリアルタイムに意思の疎通ができる、それが当たり前の時代に生きていると想像しにくい。
「白梅と『島』の間は、徒歩だと二日以上の距離がある。これ以上距離を開ければ拠点間のコミュニケーションが取れず、代が替わればお互いを忘れ去り、必要に応じた実験対象者の行き来ができない。逆にこれより近いと出生数の少ないハイブリッドコードキャリアを奪い合う。そのあたりの折り合いがつくへだたりなんだろうな」
「なるほど」
「およそ百代にわたる交配実験、人の身からすれば途方もなく長い時間だが、結果は出たんだろうか」
ハンドルを握るケイさんは、厳しい目をしていた。
まだ完全に記憶の封印が解けていない。しかし思い出した記憶を寄せ集めて知った。私は祖父からある義務を引き継いでいる。
――まだだ。まだその時ではない。
記憶の封印が完全に解ければその時がいつか、知ることができるのだろうか。ほんとうは一人でやらなければならない仕事だ。隣でハンドルを握る大きい人にこの義務を肩代わりさせてはいけない。
――どのくらい時間が残っているだろうか。
生命力を割いて発現する異能のせいで私の寿命は極端に短い。何ができるか、何から手をつければいいか。開け放った窓から風が吹きこむ。
――潮のにおい。
多々良が浜の海まであと少し。生きて義務を果たす。あがく、と心に決めた。




