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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第二章  新茶と乙女

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第十四話  小旅行(一)

「フル」

「ハーフ」

「フル」

「これだけは譲れない。ハーフだ」

「……じゃあ、四分の三で」

「駄目だ、ハーフだ」


 ほんとに、ほんとうに情けない。もういやだ。一目惚れだの婚約だの、全部撤回したい。今だったらまだ間に合うんじゃないの? 大きい人と睨み合って押し問答しているここはデパート、婦人下着売り場(の前)だ。

 いきさつはこうだ。

 今回の小旅行には着替えや小物類を持ってこなかった。ついでに買っちゃえ、と思ったからである。


「一緒にお買いものなんて初めてですね」

「そういえばそうだ。本当にせわしなかったからなあ」


 こんな調子で最初のうちは和やかだったんである。だがしかし。この大きいおっさん、改め変態じじいは「私、下着を買ってきます。どこかで待ち合わせしましょうか」という私の提案を涙目で拒絶し、一緒に行くとしつこくいい張った。あほか。そんなこと許せるわけがなかろう。口がへの字でいかに愛嬌があろうが譲れないものは譲れない。


「男性が下着売り場の中までついてくるのはいかがなものかと思いますよ」

「心配だから」


 何が。何が心配だっていうんだ。


「私にはさっぱり理解できません。もしかして一緒に下着を選びたいんですか?」

「あたりま……あ」

「そうですか、あたりまえなんですか。特に危険を察知したわけではないがひとまずそれを口実にしてしまえ、と。ますます理解しかねますね」


 スケベヤマアラシめ。今このフロアで最も変態度が高く危険なのは間違いなく貴様だろうが。軽蔑の眼差しで突き刺してやった。赤面してうろたえていやがる。


「じゃ、じゃあ、せめてこういうかわいいのを」


 これ、かわいいんか。

 ケイさんが指さすウィンドウにはデコラティブで下着として用をなさない布切れ(私基準で判定)がマネキンに引っ掛けてあった。ああいうのは着用しているといわない。布が引っ掛かってるだけだ。


「これは下着ではありません」

「え? そうなの? 水着なの?」

「そんなわけないでしょう。下着の役割を果たさないといっているのです。下着とは肌を保護し、保温性と通気性双方ともに高くというアンビバレントなリクエストをハイレベルに追求した高機能なものを指すのです」

「まさか色は」

「上に重ねる服を選ばず透けにくいベージュ、他の選択肢はありません」

「そんなおばさんくさ……すみません、詩織さん、睨まないでください。分かった、分かりました。譲歩しよう。じゃあせめてブラはハーフカップで」

「は? 何とおっしゃいましたか。そんな機能性を無視したものを私に押しつけようってんですか? カップはね、フルと決めてるんです」

「いや、ハーフのほうが絶対かわいいって。ほんとはハーフでも布が多すぎるくらいだ」

「それ以上減らしたらはみ出るでしょうが。あなたはあほですか」


 で、先の会話に至るわけだ。


「……もういやだ。ほんとにいやだ。私、早まったんじゃないでしょうか。世の中にはこのくらい譲歩してくれる男性がいくらでもいるような気がしてなりません」

「詩織、大げさだぞ。一緒に行ってサイズを聞いてだな、かわいいのをいくつか選んでプレゼントさせてほし……」

「いらんわ。ついてくんな。下着売り場に入ってきたら別れる。賃貸契約解除してうちから追い出す」

「えええええ」


 もういざとなったら電車で帰るし、賃貸契約解除も真剣に検討しよう、そう思いながら下着売り場へぷんすか一人で足を踏み入れた。すすす、とどこからともなく近寄ってきた店員さんにサイズを測ってもらい、アドバイスを受けつつ下着を選んだ。以前とはサイズが変わっていたので多めに購入する。


「お客様。近頃はデザイン性の高い下着の中にも『高機能』なものがございますよ」

「あはははは。見苦しいところを」

「お連れ様があちらでしょんぼりと」


 いや平気です、肩丸めてるのはデフォルトなんで、といいかけたがやめておいた。


「追加でふた組買います。デコラティブなのを見繕っていただけますか? ひと組は着て帰りたいんですが」

「お任せくださいませ」


 デコラティブな下着の心もとなさったらない。これはある種の攻撃といえるんではなかろうか。体の随所がすうすうする。階段横の壁にもたれて文庫本を読むケイさんのもとへ向かった。


「……なぜそんなに歩き方がぎくしゃくしてるの?」

「ケイさん、他にいうことないんですかね。さっきのやり取り、店員さんに筒抜けですっごく恥ずかしかったですよ」

「それはすまなかった」

「――こちらこそお待たせしてすみません」

「すまなかった。だから目、そらさないで」


 ちょっぴりぎくしゃくしたままでもなんとかなるイベント、ということでひたすら買い物。服やら小物、鞄を買い、買ったついでに着替え、今回の旅行で使わないものはまとめて配送してもらった。

 いつもはカジュアルといえば聞こえはいいが膝が抜けかけていたり、色があせていたりと、着古したものばかり身につけている。今回はカジュアルでもお出かけ着風にまとめた。お互いに身長が高くてサイズで苦労するが、それでもさすが都心。いくつか店を梯子すればぶっつけでもなんとかそろう。ケイさんはジャケットのセットアップ、私はワンピースに身を包み、並んでまだぎくしゃくしながら歩いている。すうすうする下着にも幾分慣れ、一度は雰囲気も和らいだのだが、ケイさんが光りものを買うといってごねたからだ。


「ケイさんって普段着がずいぶんラフなのにカフスボタンとかピンとか買うんですね」


 と首を傾げたら、


「違う。きみのうなじに映えるネックレスを」


 などといい出したので脊髄反射で却下した。いらんわ。いっそのこと買い物でなく映画か何かで時間をだらだらと無駄にすればよかった。ぎくしゃくしていてもそれなら楽しめたかもしれない。


 夕刻。高層ビルの立ち並ぶあたりから、雑居ビルの多いオフィス街へ私たちは来ていた。駅を背にして交差点を眺めて立つ。日が沈むより早くネオンが灯り、空の薄青い残照を抑えてぎんぎんと脈打つように輝く。やがて交差点の向こうにある建物からたくさんの若者が出てきた。和やかに談笑する者、鬱屈を隠せない者、表情はさまざまだ。


「予備校だ」


 すぐ隣に立つ大きい人がいった。


「あそこを見てごらん」


 気づいていた。数人の男女に囲まれ、弾けるような笑顔を見せる青年がいる。隣の少女にでこぴんされ、前を歩く少年に(はや)され、人の波でごった返す予備校の前で、友人たちにもみくちゃにされている。ふと交差点の向こうから青年がこちらへ目を向けた。はっとした表情をすぐに緩め、微笑む。こちらへ軽く会釈する臼田青年に、私もうなずいた。雑踏にまぎれ、青年の姿はすぐに見えなくなった。

 これでよかったのだ、と安易に断定などできない。

 私が生ぬるい対応をしたせいで青年と彼の家族は故郷を失った。この(とが)を私は一生背負わなければならない。でも梅の木の前で母親と対峙し、白梅と初めて絡み合ったあの日以来、ずっと気になっていた青年のその後をうかがい知ることができてほんとうによかった。



 車を止めた駐車場の上は高層ビルで、ホテルだった。チェックインを済ませ、部屋で夕食まで休憩することにした。


「お茶、おいしかったですね」

「そうだな」


 今日はイベントてんこ盛りで危うく忘れてしまうところだったが、そもそも今回の東京行きは私が「お茶を買いに行きたい」とおねだりして実現したのである。中国茶や台湾茶を扱う目的の店は街のはずれにあった。産地、種類さまざまな茶葉のにおいが混然としている店に慣れるまで少し時間を要したが、一度慣れてしまえばその香りを楽しむことができた。お茶を試飲させてもらったり、参考にすべく店員さんのお茶の()れ方をじっくりじっとり観察したりして、なかなか充実した買い物となった。


「お茶を買うのって楽しいんですね。初めて知りました」

「そうか。よかった」


 ケイさんは私の手を取った。熱い息と心もとないくらいやわらかい彼の唇が指先に触れる。


「ついはしゃいでしまって、わがままをいってすまなかった」

「こちらこそすみません。私も(かたく)なでしたから」


 口先だけ謝っておく。ほんとは自分が悪いとは思ってない。


「その……さっき気づいたんだが」


 ケイさんが頬を赤らめて目を泳がせている。な、なんだなんだ。


「その、下着が……あ、だめだ、俺、獣化しちゃいそう」

「やめんか、ステイ」


 もじもじと話したそうにしているので聞いてやった。実に下らない。

 いくら私の身長が高めでも、ケイさんはさらにどーんと背が高いのでかなりの身長差がある。すぐ隣、腰を抱き寄せるほど間近に立っていると、ふとした拍子に上からちらちらブラジャーが見えちゃうんだそうだ。


――そんなに開いてたか?


 黒いワンピースの胸もとを押さえる。殴っちゃっていいだろうか、この変態ヤマアラシ。いやいや、私は大人だ。冷静に、クールに対応しよう。拳に頼るのは最終手段だ。我慢。よし、大丈夫。殴るのはこらえる。


「思った通りだ。とってもかわいい」

「いやいやいや、『愛され女子のゆるふわ』セットとかいうかわいいデザインじゃないですよ。今着ているのは、店員さんから激しく推奨された『小悪魔、そこはかとなく悪女風』セットとかいう下着に擬態したアグレッシブな何かです」

「違う違う。下着のデザインがどうこうじゃないんだ。それを身につけて歩き方がぎくしゃくしたり、恥ずかしがったりするきみがかわいいに決まっているだろう」


 なんだよ、その「決まっているだろう」ってのは。変態ってやつは度し難い。ソファに座るケイさんが「ここに乗って」とぽんぽん膝を叩くので、仕方なくいわれたとおりにする。ぎゅうっと抱き寄せられた。


「獣化しない?」

「大丈夫だ。がんばる」


 はあああ、とため息をついたケイさんがうなじに頬ずりする。


「そろそろやめましょう」


 ソファやら何やら、ホテルの備品を破壊しては大変だ。


「もう少しだけ」 

「ところでケイさん、臼田青年のこと、あり……あ」


 他のどのパーツも目に入らないほど気に入っている私のうなじにケイさんはちゅちゅ、と口づけた。ごきげんである。


「臼田は前より元気そうだったな。よかった。それで、『ありがとう』はいわなくても分かるからいわなくていい、といってるだろう。どうしてもそれを口にしたいんだったら、いい換えるんだ」

「なんていえばいいんですか?」

「そうだな、じゃあ、いってごらん。『ケイさん、大好き』」

「え?」

「遠慮せず、さあどうぞ」

「何いわせるんですか」

「老い先短いじいさんの願いをかなえると思って、さあ、いってごらん」

「変態。老い先短くもなんともない癖によくそんなこといえますね?」

「分からないぞ。長命種の老化の仕組みもまだはっきりしていないんだ。明日いきなり実年齢相応になっちゃうかもしれないし」


 実年齢って、百歳。

 今は四十代後半にしか見えないこの大きい人の老いた姿は、私の脳内でどうしても晩年の祖父と重なる。大きくてしわしわの、優しくて大好きだった、でも疲れきって病に苦しむ祖父。

 今同じときを過ごしていても、それは時間軸が一時的に触れ、交わっているだけ。人生の残り時間の短い私の死んだ後、大きい人は長い長い時をまた独りで過ごさなければならない。仮に急激に老化が進んでしまうようなことがあったとしてもケイさんと私、それぞれの時間の進み方が異なることに違いはない。

 ハイブリッドコードキャリアであるかどうかと関わりなく、愛し合えばきっと同じ問題に直面する。お互いがお互いを失った後、どう過ごすか。

 私が顔を背け、黙りこんでしまったのを見てケイさんは慌ててしまったらしい。


「急に老化が進んだというケースは今まで報告例がないから、大丈夫だ。心配しないで。詩織、すまなかった。よくない冗談だった」


 ケイさんは私の体を抱え直した。


「詩織、今は先のことを考えたくない」

「私だってそうです。でも」

「俺、とても幸せだ。きみに会えてよかった。生きててよかった。百年かけてやっと、そう思えるようになったんだ」


 頬と頬を寄せる。


「ケイさん、大好き」


 太くあたたかな腕にぎゅうっと閉じこめられた。


 ふと、ワンピースがずり上がって露わになった太ももをケイさんがじっと見ているのに気づいた。こらこらこら、何見てるかと慌てたのだが、ちょっとケイさんの様子がおかしい。


「詩織、ちょっと失礼する」


 ケイさんはワンピースのファスナーをじゃーっとおろして背中を露わにした。


「ちょ、ちょっと」

「ごめん。見るだけ。……悪い。ワンピース、脱いでもらえるかな」


 なんだろう。ケイさんが真剣な目をしているのに気圧されていわれたとおり下着姿になる。抱き上げられ、ベッドでうつ伏せになる。


(あざ)ができているな」

「すぐ治りますよ?」

「確かにだんだん薄くなってきている。今日は街が混雑していたけど、人とぶつかったりした?」

「ええ、ちょいちょいぶつかっちゃいました。東京を離れて人こみを歩くスキルが落ちたかな、なんて思いましたけど……どうかしました?」


 ケイさんは眉根を寄せて考えこんでいたが、私が振り返っているのに気付くと微笑んだ。


「いい眺めだ」

「もう!」


 ぷんすかする私の隣に寝ころび、ケイさんはため息をついた。


「いつから痣ができやすくなった?」

「いつって……気づいたのは最近です」

「そうか。痛くない?」

「痛くありません。痣って、いけない兆候なんでしょうか」

「いや、そうとは限らない。ただ心配しているだけだ」

「え?」

「俺、心配性だから。気になるだけだ」


 私を腕の中に閉じこめたケイさんは「痛くない?」と恐る恐る抱きしめ、


「次はもっと人が少なくてゆっくりできるところへ行こう」


 そういって額に口づけた。



 窓の外は夜景。

 周囲のビルの窓の灯り、行き交う自動車のライト、ネオンサインがちらちらと瞬きながら濃藍(こいあい)の空、大気をぼんやりと照らす。ひとつひとつは小さくてもこれだけの数の灯りがあれば地面から照射される光の量は大きい。大気を照らし染めあげる光ひとつひとつが人の営みなのだ、こんなにもたくさんの人々がこうして夜空を染めているのだ。

 光ひとつひとつにため息があり、笑顔があり、あくびがあり、そのひとりひとりに人生があるのだ。当たり前のことなのに胸を()く。

 知恵者は先住種族がこういう社会をつくると、こんな風景を作ると知っていたのだろうか。知っていてそれでもひとつになるために実験を繰り返したのか。知らずに、実験対象にしてもかまわない種族だと思っていたのか。夜を明るく染めるこの景色を、エネルギー源の化石燃料を燃やしつくすだけのおろかな行為だと嘲笑うんだろうか。

 知恵者、何を考えていたんだ。

 先人が考えないはずがない。私より賢い人がいくらでもいたはずだ。それでも答えは出なかった。問題は先送りされた。東京に向かう車中で記憶の封印が新たに解け、私は課された義務について思い出した。


――詩織、ほんとうにすみません


 孫に対しても丁寧な言葉を崩さなかった祖父の、苦渋と疲労に打ちのめされた姿が脳裏を(よぎ)る。記憶の封印が解ければ、疑問は解消されると思っていた。そうじゃなかった。


――私はどうすればいい?

――どうしたい?

――何から手をつければいい?


 そんな問いの数々が私をぐるりと囲み、追い立てる。


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