第十七話 解放
潔斎を終え大広間に姿を現した私にみんな感心したと思うよ、きっと。
そろいの白装束を身につけた偉丈夫を従えた男装の私は美しかろう。潔斎で水を浴び体温が下がってすっぴんの顔も真っ白だし! どうよ、水垢離美白。思い思いの白装束に身を包んだ乙女全員、凜々しく美しくて、とても嬉しい。でもでも、いちばんは私ね。理沙嬢のご両親だけでなく乙女諸君も心ゆくまで私に見惚れるがよい。はっはっは。
などと馬っ鹿馬鹿しいことをひとしきり考えるくらいの間、つまり全員呆れるほど長時間、理沙嬢母は喚きつづけた。
いやあ、元気だ。
こうなるんだったらお久さんに「うるさい人にはえいっ、てチョップしてください」許可とか出しておけばよかった。そういえば事前にそうアドバイスされたんだけど集まるのは関係者だけだし、まさかこういう場でここまで空気を読まない人がいるとは思わなかった。私もいい年こいたが人生まだまだわけ分からん……げふんげふん、学ぶべきことがたくさんあるな。
う、まだ喚くか。長っ!
理沙嬢が、全力で自身を罵倒し尊厳を傷つける母親に根気よくつきあう。大丈夫、まだ時間ある。そう視線に気持ちを載せてみると伝わったらしい。理沙嬢は微笑んだ。
「お母さん、聞いて。お願い、聞いて。ボクね、大人になりたいの。ちゃんとした大人に。お父さんとお母さんとじょうくん、みんなといっしょに暮らして、がんばって学校に行って、友達もつくってみたいの。もしかしたらおばあちゃんやしおちゃんといっしょに暮らしたほうが安全なのかもしれない、ここを出たら今までよりもっと変な人にたくさん追いかけられたりして危ないのかもしれない。でもね、乙女の契約錠がこの中にあるとね」
理沙嬢はそっと頭に手を載せた。そこはちょっと、と思ったが触れたくらいでどうこうならない。だからこんなに大袈裟な儀式が必要なのだ。理沙嬢に「大丈夫」と声に出さず唇の動きで伝える。
「契約錠がここに入っているとなんだか別の人みたいになっちゃう。みんながボクのことかわいいって、きれいっていってくれるんだけど、乙女になってからちょっと違うって思うようになったの。なんだかね、乙女の美しさって無駄にきらきらし過ぎ。そんなのボクじゃない」
自分自身の抱える無力感や娘との一体感。状況の変化に対する反射的な拒絶。
きっと一体感を得るほどの執着と依存があるから、それがこの母にとっての愛だからこそ、感情がないまぜになって爆発する。こうして娘が傷つくようなことを喚きたてる。傷つくと分かっていないのか、傷ついていいと思っているのか。
――単に自分で止められないだけなんだろうな。
さっきみたいによくわかんない感じに止めてほしい、そんな欲求が私に向けられているのを感じる。でもせっかく理沙嬢が家族として受け止めているんだからさ、他人は手出ししませんよ。
「ボク、いろんなことから逃げてここに来た。お母さんからも逃げた。今度は乙女からも逃げることになるのかもしれない。ほんとにごめんね、お母さん。でもこれが終わったらもう逃げない。逃げないで何とかする。何とかできるようにがんばって大人になりたい」
理沙嬢母の顔をさまざまな表情が走る。きっと思い出しているんだろう。
生まれた日のこと。初めての離乳食。初めて立ってその日。初めて触れる海。雪。風。子どもにとって初めてのことは、その子どもとともにある親にとっても同じく初めての経験だ。理沙嬢には弟がいる、しかし弟が出会う初めてと、姉である理沙嬢が経験した初めては同じに見えて違うものだ。子どもがそれぞれ違う経験をすれば、親に見せるもの、子どもを通じて親が見るものもまたそれぞれに異なる。人は、ひとりひとり尊い。
「お嬢さんを必ずご家族にお返しいたします」
知りもしない儀式の宣言が自然に口から出る。
「乙女契約解除『抜き針』の儀、ただいまより執り行う。刻限である」
それを耳にした理沙嬢母の顔が悲しく歪む。
「いや、いやいや、やめて、娘に、理沙にひどいことしないで!」
泣き叫ぶ母親の声が隣室へ移動する。大広間には白梅荘の乙女たちと私だけが残った。
「理沙嬢、お母様はあなたのことを案じていらっしゃる。行き違いはありましょうが、儀式が終わったら彼女を赦してあげてください」
「赦すも赦さないもない。ボクとお母さんは家族なんだよ。心が隔てられていてもいつか必ず帰る場所、それが家族なの。だから心配ない。大丈夫なんだよ。ね、おばあちゃん」
青ざめる真知子さんが気丈に微笑んだ。
大広間の中央には理沙嬢と私。他の乙女たちは離れたところで静かに待機している。ケイさんの巨体がその中にあることを視界の隅で確かめて少し安堵する。彼を刺し殺そうとした自分にそんな資格などないけれど。
白いワンピースを着た理沙嬢は青ざめて、とても美しかった。ひざまずいて向かい合い、理沙嬢の頭を両手で押さえる。掌に触れる理沙嬢の肌が熱い。額とつむじの間、目指す場所に口づけようとして身体ががくがくと震えた。
駄目だ。怖い。できない。こんな恐ろしくておぞましいこと、やっぱりできない。こんなに震えが止まらないんじゃ、無理だ。絶対に失敗する。この美しい子どもを大人にするために、幸せも苦労も人並みに、自分の足で人生を歩ませるために必要な儀式だと分かっている。
――分かっているのに、怖い。
――この手で殺してしまうのではないか、それが怖い。
涙で視界が歪んで目を開けていられない。どうしよう。どうしよう。
そのとき、頭の中でぱきりと記憶の錠前がまたひとつ外れた。幼いころのあの日、祖父と祖母の儀式の場面だ。
散る。鮮やかな朱。
色を失った世界の、その部分だけが朱い。
光、闇、光。こま送りのようについては消え、消えてはつく。点滅する記憶。
――よく見ていなさい。
――詩織、成功させるには条件があるのです。
――場所とタイミングを間違ってはいけませんよ。絶対に。
――ばーちゃん、じーちゃん……!
思い出した。あの日あのとき、祖父は失敗した。畳に胸もとに口もとに、朱を散らし祖父は慟哭した。
――怖い、……怖い!
今更なぜ思い出してしまったのか。しかも今、このときになってやっと。もっと前に分かっていればこんな危険な方法、絶対に選ばなかった。できない。私にはできない。今からでも中止に、そうだ、そうしよう、でも……でも……。絶望で目の前が真っ暗になった。
「しおちゃん」
理沙嬢が私の両手を外した。私に腕を差し伸べる。好きにしてもらうために身をかがめた。
真知子さんそっくりな小さく美しい顔。抑えきれない光が内側からにじみ出る。心を揺り動かす美しさがこの子どもの中に乙女であることと関係なくこんなに大きく育っている。この子から発せられる激しい光に曝されて心の奥底深くに隠したものが暴かれてしまいそうだ。目を閉じる。頬にあてられた理沙嬢の手に自分の手を重ねる。理沙嬢の手が、生命の炎がちりちりと肌を灼く。
怯えよろめき震える私を、小さな熱い身体がしっかりと支える。額と額が接し、熱い両手が私の頬を包む。
「しおちゃん。ボク、ほんとうは怖いよ」
理沙嬢は熱い額を私にすり寄せ、囁いた。
「でもこのままはいやなの。ボク、後悔するのかもしれない。死んじゃってから後悔するのかもしれない。でも何もしないまま後悔するのだけはいやなの。痛いのかもしれない。つらいのかもしれない。でも、それでいいの。決めたから」
理沙嬢が微笑み、わななく。
「わたしを、解放して。わたしの、おやかたさま」
向かい合う子どもの放つ激しく美しい光が私を灼く。
すべてが噛み合う。条件が整った。震えが止まる。怯えが消える。
私は、白梅の主。乙女の館の主。
理沙嬢から目を離さず、頬から彼女の手を外し改めて向かい合う。
「理沙嬢、行きますよ」
「うん」
「始めます」
今度はしっかりと理沙嬢の頭を両手で押さえる。
「ありがとう、私の乙女。あなたを解放します」
探ったりしない。迷ったりしない。一度で過たず、額とつむじの間の目指す場所に口づけそして歯を立て、頭皮を食い破る。
ぶちり、とちぎれる音。
びちびちと滴る音とともに血が噴き出す。頭骨の一点、目指す突起を前歯ではさむ。
散る。鮮やかな朱。
――あった。
しっかりと理沙嬢の頭を掴みなおす。片膝を立て上に、そしてわずかに理沙嬢の後ろへ向かって自分の頭を動かし、そのままそれを引く。ゆっくり、しかし遅すぎず。
きらきらと透明に輝く大きな魚の骨のような、弧状に湾曲するそれが散る朱とともにぬったりと現れる。
――これが乙女の契約錠。
ぶれてはいけない。理沙嬢の脳を無傷で解放しなければならない。
――焦るな。懼れるな。左右にぶれず、まっすぐに。
それを歯ではさみ、すべて引き抜いた。左手で鋭く尖る、十五センチほどの契約錠を掴む。
散る。鮮やかな朱。
――うろたえるな、落ち着け、私。泣くな、泣いてる暇などない。
右腕いっぽんで意識をなくした理沙嬢の身体を支えなおす。そして噴きこぼれる血にまみれながら、叫んだ。
「止血を! 白梅荘の建物内であればここでなくてかまいません、どなたか理沙嬢の止血を!」
真知子さんとお久さんが駆けつけ、私から理沙嬢のぐったりした血まみれの身体を受け取る。数歩遅れてケイさんが合流し、理沙嬢を抱き上げ隣室へ駆けた。
大広間に残ったのは私とみちるさんだけだ。
「詩織ちゃん……おやかたさま」
「儀式を続けますッ」
声がひっくり返ろうがどうなろうが、かまうものか。左手に握った弧状に湾曲する契約錠を床にたたきつける。これさえ破壊すれば儀式は終了し、理沙嬢は解放される。もう一度、床にたたきつける。左の掌に契約錠の尖端が刺さる。食いこむ。
「なぜ、なぜ壊れない!」
これを破壊しなければ、理沙嬢の傷口はいくら止血しても塞がらない。契約は破棄されないまま続行され、弧状に開いた傷口の空隙は契約錠を求めて血を流し続ける。そしていったん抜いた契約錠はもう元に戻らない。祖母の頭に開いた穴、契約錠をそこへ刺しなおそうとし、慟哭する祖父の姿がまぶたにちらつく。
余計なことを考えるな。まだ間に合う。今の、次の一撃で破壊すれば間に合う。必ず間に合う。繰り返し繰り返し、血でぬめる契約錠を床にたたきつける。
「壊れろ、壊れろ!」
隣の部屋から叫ぶ声がする。「理沙、理沙、目を覚まして!」
――どうしよう。失敗した……。
よみがえる震えと怯えを振り払い、左手を床にたたきつける。
――早く。早く破壊を!
手が壊れたってかまわない。私の手なんか、どうなったっていい。私を、代わりに私のすべてを持って行ったっていい。あの美しい子どもを返せ。あの子を、さっき私を励ましてくれたあの子を、美しい私の乙女を返せ。返せ、白梅!
あたりが血の香りに満ちる中、背後から日向のにおいが近づいてくる。
「詩織さん! 俺に触れる許可を」
「私以外の者が契約錠に触れれば儀式は失敗します。触らないで!」
「違う、違います。契約錠でなくあなたに触れる許可を」
何も考えず私は叫んだ。
「許します!」
背後から大きい人が私を包む。大きな手が左腕を掴む。
「だ……駄目、契約錠に触れては――」
「触りません。詩織さん、俺が触れるのはあなたです。落ち着いて。よく聞くんだ」
がくがくと震える私を背後から抱きかかえたまま、ケイさんが囁く。
「俺は触らない。触らないからちゃんと自分の目でその契約錠を見て。弓なりの曲線部分をたたいても衝撃が分散して逃げてしまうだけだ。両端を握れ」
隣室から悲鳴が聞こえる。「いやああああ」
間に合わない。どうしよう。どうすればいい。
「お願いだ、落ち着いてくれ、詩織。契約錠を両手で握れ。そして外へ向かって折れ」
がくがくと身体が、手が震える。
「理沙ちゃんは大丈夫、間に合う。そしてその手の傷は今痛くてもすぐ治る。詩織、きみがそういったんだ。だから大丈夫だ。怖がらないで」
震える身体を背後からあたたかく包みこみケイさんが穏やかに囁く。低く太く、つややかな声。
「俺が信じられない?」
「……いいえ」
「こうしていっしょにいる。何が起こっても決して離れない。大丈夫だ。さあ、両手で握って」
契約錠を握る。ぬるぬると血ですべる。がくがくと身体が、手が震える。鋭く尖った契約錠の端が私の両掌をえぐり、しっかりと固定された。
「外側に向かって折れ」
ケイさんのことばに導かれるまま、手を動かす。
きん……!
高く澄んだ音を立てて契約錠が割れ、砕け散った。




