第八話 木の芽(六)
夕食後、厨房で後片付けをしていると大きい人がやってきた。背後でもじもじしている。実際のところどうか分からないけどそういう気配がむんむんする。
「……何か?」
「手伝います」
わざわざ断らずともどうぞどうぞ。全部やってくれたっていい。
「詩織さん、あの」
「何でしょう」
「……何でもない、です」
夕方からずっとこの調子で役に立たないんだよ、このおっさんは。おかげで夕飯全員分作る羽目になったよ。みんなに微妙な顔されたよ。自分でもいかがなものかと思ったよ、自分で作った夕飯を食べて。残りの後始末全部押しつけて寝るぞ、あたしゃ。「はあああああ」とため息をつくと、ケイさんはびくりと肩を震わせた。
「何かいいたいことが?」
「いやその」
「なければ後をお願いして失礼したいんですが」
「いやその、あります、話」
聞きましょう。聞いた。うーむ。
あまりに話があっちゃこっちゃごちゃごちゃしているので分かりにくいのだが、要するにこういうことだ。
「臼田青年がかわいそうだといいたいわけですね」
「……ええ」
いってて納得できないような顔してるなよ。理沙嬢が大変な思いをしているのを私より長い間見てきただろうに。
「何もかもうまくいかずその上一途な恋が成就しないのが哀れで」
「それでかわいそうになって浜に連れてきちゃった、と」
「気づいてましたか」
まあ、なんとなくだけどもね。
うまく投げられない理沙嬢を見て臼田青年は「こんなに迷惑をかけているとは思わなかった」といっていたそうだ。目の前でしょんぼり反省されてケイさんは「声をかけて名乗って最初からやり直してみるか」と訊いたのだという。
「それで?」
「『やめておく』といって臼田は帰りました。あんなに純粋に理沙ちゃんのことを思っているのに伝える機会すらやらないのはちょっとどうかと……」
つけまわして不法侵入して何が純粋か。下心もりもりじゃないか。
「それ、理沙嬢にいっちゃいましたか?」
「え? ……はい」
ああ、がっかりだなあ。なんでそんなことしちゃうかなあ。どうするんだよ、それであの子が自分の決断を見失ったら。信頼する大人から真剣にそんなことをいわれたら判断がぐらついてもおかしくない。
「理沙嬢は何と?」
「詩織さんに『自分で考えろ』といわれたから考えると」
「そうですか。本人がそうするといっているのですからそれでいいんじゃないですか」
でもでもだってだって、といいたそうにしている大きい人を「お手伝いはもう結構ですよ」と厨房から追い出した。
視界に違和感を覚えた。あー、もうまたおっさん戻ってきたのか。そう思ったが違った。厨房の入口にレースふりふりガウンがちらちらしている。
「入ってもよろしい?」
柱から半分顔をのぞかせているのは真知子さんだ。かわいいなもう。デレっときちゃうじゃないか。
「ケイちゃんとけんかしてますの?」
「してませんよ」
「そーお?」
「ほんとに、ほんとです」
ケイさんは他人の事情に自分の何かをからめて思い入れをこじらせている。そのことにいらだっているのは私の個人的な感情なのだから腹の中におさめておくべきだった。
「ケイさんに当たり散らしてしまって悪かったと反省しています」
でも反省してるとか何とか口先でいっておいて、またすぐにケイさんに同じ話を蒸し返されたらキレちゃいそうな気がする。
「うちの孫のせいかしら?」
「理沙嬢は全然、これっぽっちも毛ほどもてんでいっさい悪くないです」
真知子さんは一瞬目を丸くするとつい、と窓の外に目を泳がせた。
「詩織ちゃん、せんだいさまにそっくりですわ」
「先代様? おば様、千草さんのことですか?」
おば様は美しい人だった。宗教画の慈母のような清らかさと凄絶な艶やかさ、相反する美があの人の中で矛盾なく溶けていて惹きつけられる。まれに顔を合わせるときは葬儀や法事でいつも化粧気なく喪服に身を包んでいたけれど、それでもそんな魅力が内側から匂い立つような人だった。
血のつながりもないし正直なところ自分では似ていないと思う。でももしかして大人になって私、おば様みたいにきれいになっちゃったとか? ちょ、マジで嬉しいんですけど。たとえお世辞でも。
「ううん、千草ちゃんじゃなくてあなたのおじい様」
「……ああ、子どもの頃からよくいわれるんです、似てるって」
お世辞ですらなかった。似てるって祖父か。なーんだ。
「いやですわね、わたくしったら。ちゃんと詩織ちゃんが跡を継いでいるのに。先代様って今は千草ちゃんなのね」
真知子さんの笑みは少し疲れて見えた。しかし光の具合でそう見えただけだったんだろうか。こちらへ向き直った真知子さんの表情は明るかった。
「じゃあ、あなたのおじい様は先々代様ですわね。先々代様はそれは素敵な方で。すっきりと背が高くて、お顔がきりっとしていましたよ。特に眉と大きな目が男らしくて格好良くってもう、このあたりの女の子はみーんな、先々代様に夢中でしたの」
想像がつかない。祖父のモテ時代が。
祖父は幼い私にとってかわいがってくれる優しい大きい人だった。この人は生まれたときからしわしわでじーちゃんで大きかったんだろうと、若かりし頃の写真を見せられても思いこんでいたものだ。
大人になった今なら分かる。しわしわで大きい優しい祖父にも若い頃があったんだ。あーでもないこーでもないと悩んだり失敗したりしたこともあったのかもしれない、と。青年時代の祖父の、セピア色をしたドヤ顔決めポーズ写真。あんなドヤ顔していたくせに「どうしようかなー、これは駄目かなー、どうしようかなー」とおろおろしたこともあったわけか。なんだかほほえましいな。
不意に頬に手があてられた。低いところから真知子さんが腕を差し伸べている。小さくて熱い手だ。好きにしてもらうために身をかがめた。
「穏やかで丁寧で、それでいてこうとお決めになったら……お心を曲げない。先々代様はそんなお方でしたの。詩織ちゃん、そっくり」
理沙嬢そっくりな小さく美しい顔。光が内側からにじみ出る、この美しさは生来のものなのか、それとも年輪を重ねて得たものなのか。あるいは。
――乙女の異能。
この人から発せられる激しい光に曝されて心の奥底深くに隠しておくべき何かが暴かれてしまいそうでつらい。目を閉じる。頬にあてられた真知子さんの手に自分の手を重ねる。ちりちりと肌を灼くように熱い。
――ああ、この人も乙女なんだ。
理沙嬢と同じく人を惹きつける。うまく年輪を重ね異能をコントロールできているに違いない。それでも目の前の美しい人が持つ異質な力への畏れに声が震える。
「真知子さん、何か見えますか」
「いいえ、いいえ何も」
真知子さんは囁き声で答えた。
「詩織ちゃん、よくお聞きになって。あなたが何をしようとしているのか、どんな失敗を懼れているのか、わたくしには分かりませんの。でも当主となったあなたの決断にわたくし、逆らいませんわ」
耐えられずくずおれ私は跪いた。よろめく私を小さい身体がしっかりと支える。額と額が接し、熱い両手が私の頬を包む。
「他の乙女のことは存じません。心はおのおののものですわ。ただわたくし、そしてわたくしの対の乙女は詩織ちゃん、あなたに従うと決めておりますの」
真知子さんは熱い額を私にすり寄せ、囁いた。
「今は分からなくてもかまいませんの。いずれ時が来ればあなたはすべてを、先代様……先々代様のお心を継がれる」
しばらく待ったが、続きはなかった。私から問う。
「契約の解除を望まれますか」
「いやだ詩織ちゃんたら、老い先短いわたくしをここから追い出しますの? ……でもそうですわね、孫は、理沙は」
真知子さんが額を私にすり寄せたまま、わななく。
「理沙嬢が望むならば、私が必ず」
それで安心してもらえるのかどうか分からない。けれど私は約束した。
バイパスの橋脚。松の木。遠くでかすむ網小屋。濃い青空。水平線。視界を歪めるほど身体をさいなむ記憶の奔流。昼の海、理沙嬢を抱きしめたときに記憶の封印が解けた。
――詩織、乙女から異能を剥がしとるにはある難しい儀式が必要なのです。
――覚えなさい。そして忘れなさい。鍵を見つけるそのときまで。
祖父はこの事態に備えて私に教えたのだろう。自分の死後、儀式を受け継ぐ子孫が私しかいなかったから。
もっと大切な記憶が封印されているような気がしてならない。記憶を探りたどろうとするとぐんにゃりと、しかし確固として弾かれる感覚がある。放火犯に殴られた後頭部の傷痕が疼く。焦りを封じるように別の思いが大きな泡のように浮き上がってきた。
――あなたのことも千草さんは乙女だとおっしゃっていました。
白梅荘を初めて訪れたあの日、みちるさんがそういっていた。私も乙女。ということは私も異能を持っているのだろうか。理沙嬢のように無意識に人を惹きつけたり意のままにできたことはない。そもそもそんな力があれば元カレに愛想を尽かされることもないわけで。魅惑だけが異能ではないだろうけど、自分に大それた力があるとは思えない。
――乙女というのは依頼人が、千草さんがそう決めた方のことなんですよ。
あのときのみちるさんのことば通り、おば様は私のことを単に白梅荘の住人として認め乙女だといったのだろう。
白梅荘の他の住人も異能を持っているのだろうか。どんな異能なのだろう。家族のようでいてそうでない。いっしょに暮らし始めて日が浅くまだ遠慮がお互いを隔てるけれど愛しさを覚える人々。
――ケイさん。
私の心を占める大きい人も異能を持っているのだろうか。分からない。異能で惹きつけられ惑わされているのではない。そんなはずない。
――でも理沙嬢には惹きつけられた。
この子どもの望みは何だ? 何を差し出せば私ひとりのものになる? 自分の意思に反して、いや、意思を確かめる暇もなく湧きおこる独占欲。実際に私は理沙嬢が無意識に発する魅惑の力に屈した。
――ケイさん。
優しくて誠実で妙に強引なくせに気弱なところがある大きい人。私は自分から彼に惹かれたのではないのか。乙女。異能。にわかには信じがたい。
あっちの戸棚、こっちの扉、ふりふりレースをわさわさ鳴らして厨房中を真知子さんが探しまわっている。
「おかしいですわねえ。前はここに隠してあったんですのよ」
先ほどはなんだか妖しい雰囲気になったがこの人はもともとここに酒を探しに来たんである。隠されちゃうくらい呑んじゃうのか。どーしよーかなー。私、ありかを知ってたりするけど、教えてあげよーかなー、どーしよーかなー。
「いやん、詩織ちゃんたらイケズ。教えてくださいませ」
なんてプリティなんだ。奪われた。心を奪われたよ。こうしてあっさり陥落した私から酒を得た真知子さんはご機嫌だ。ぎゅ、と抱える一升瓶がやけに大きく見える。
「わたくし、ケイちゃんとラブについてじっくり語ろうかと思っておりますの」
「酔いつぶしちゃ駄目ですよ」
「んまあああああ、駄目ですの? どうしてか訊いてもよろしい?」
真知子さんの目がきらきら輝く。かわいいなあ。でもこれは私が嫉妬するのを期待する目だね。そういう恋愛系昼ドラ的炎上展開はね、ないです。
「あの巨体を動かせる人がいないからです」
「ああ、ほんと。ほんとにそうですわね」
がっかりした真知子さんは一転、うふふと目を細めた。
「努力しますわ」
* * *
夢だ。これは夢だ。これからどうなるのか私は知っている。まだその場面に至らないのに。
散る。視界に朱が散る。日焼けした古い写真のようなモノトーンの世界に朱が散る。
――できるだけ痛まないようにします。
――いいの。痛くていいの。
散る。鮮やかな朱。
――よく見ていなさい。
――詩織、成功させるには条件があるのです。場所とタイミングを間違ってはいけませんよ。絶対に。
やめて、やめてやめて。
――さあ、解放して。
――ありがとう、わたしの……
ぶちり、とちぎれる音。きらきらと透明に輝き湾曲するそれが散る朱とともにぬったりと現れる。
ああ、酔う。血のにおいが濃い。
* * *
払っても払っても、赤黒い闇がねばねばと私にまとわりつく。不快だ。それなのに闇はあたたかく私を包む。そのぬかるみから私は離れられない。
これは夢だ。分かっている、現実じゃない。私はぬかるみの中でもがきつづけた。
* * *




