第七話 木の芽(五)
影薄臼田青年に「仕事してない」「おじさん」「ニート」とさんざんけなされたケイさんをもちろんすぐフォローするつもりでいた。ケイさんもフォローされたそうにしていた。目は私の首あたりをうろうろしていたけど。この人にとって私の本体って首なんだろうな。妖怪ろくろ首を探してお友達になってもらってはいかが、と皮肉っても「ああ、……考えたこと、あります」なんて帰ってきそうでいやだ。変態うなじフェチめ。こちらにフォローする気があってもあちらはなぜか臼田青年に盛大にからまれなつかれていたので放置することにした。よく考えたらこの手があったよね。変態を以て変態を制す。
理沙嬢が釣り道具を抱えて出てきた。私へ笑顔を向けてくれるが表情が硬い。そして私たち三人がいるあたりを大きく迂回した。
臼田青年は理沙嬢の怯えた表情に今さらショックを受けたのか、しょぼーんとしている。ケイさんもいっしょにしぼんでいる。なぜにそこでシンクロするか。
私がこの二人にできることは当面なさそうだ。あってもしたくない気分である。理沙嬢を追いかけることにした。
理沙嬢の担いでいた釣り竿を思い出す。お気に入りの白い竿だったはず。華奢に見えるそれは理沙嬢の勝負竿で、鱚狙いで本気を出すときに携えるものだ。ロッドケースはなく勝負竿一本のみだったから、投げてさびいて、歩いてまた投げてさびいてと探りながら移動するつもりなのかもしれない。
堤防か、浜か。ひとまず浜へ探しに行ってみるかな。
理沙嬢へのストーキングが影薄臼田青年の一件だけで解決とはいえないのだけれど、今は何となく警戒しなくてもいいような気がした。
門を出て海へ向かって歩く。ぶらぶらと散歩気分で歩くのも悪くない。街道には自動車が行き交い、人々が会釈を交わしすれ違う。白梅荘周辺の静けさとは対照的な、しかし私がかつて暮らしていた街とも雰囲気の違う活気だ。空と海の色、光と影の濃いこの多々良が浜に愛着を覚えている。ついこの間までろくに知りもしなかった街のに。住めば都、なるほどね。
街道を渡り住宅街を抜け、バイパスの橋脚をくぐって海へ出た。しばらくざくざくと砂を踏みながら浜を歩く。
「この辺はどうかな。釣りに向いているポイントを知らないんだけどね」
理沙嬢が後ろからとぼとぼ、ついてきている。
理沙嬢が道具の準備をするのを砂浜に腰を下ろし、ぼんやり眺めた。
やがて準備が整った。
びゅっ、と風を切る音とともに投擲。激しく回るリール、繰り出される鮮やかな色のライン。一色二色、三色、やがてリールは回転の勢いを失い、止まった。飛距離が伸びない。理沙嬢はラインの張り具合を確かめ、整えた。
ぐいっと竿を立て、ラインのたるみがなくなるまでゆっくりとリールを回す。海の底を這うおもり、砂地の起伏。仕掛けの針先で踊るイソメにたわむれかかる小魚。それらのかすかな振動を指先で聞く。キャップのつばの影で目を細め、理沙嬢はラインの伝える感触を無心にたどる。
やがて緊張を緩め、眉間に皺を寄せたままリールを回し、理沙嬢はラインを回収した。海から上がってきた仕掛けの先は投げる前のままだ。ターゲットが仕掛けにのらなかったらしい。
もう一度投げる。引く。聞く。
もう一度。もう一度、もう一度……。
「……今日は駄目だなあ」
投げたままさびかずにラインの調子だけ整え、理沙嬢は竿を置いた。そして私の隣にやってきて腰を下ろした。膝を抱える。
投げ方がことさら悪いわけではない。
何度も理沙嬢の投げる様子を見ているから、何となく分かる。風向きを読み丁寧に方向を定め、思い切りよく投げている。しかし腰のひねりがほんの少し、踏み切りのタイミングが少し、そしてリールの回転が止まるのを待つのがほんの少し。それぞれのわずかな差異が干渉し合い誤差が増し、飛距離を二十メートルも三十メートルも縮める。そして仕掛けはターゲットに届かない。
「ボク、大人になるのいやだ」
理沙嬢は私の膝に身体を投げかけ、幼子のようにしがみつく。
小さく頼りなく、儚く幼く見えても日々大人に近づく理沙嬢のBQBボディにみっしりと生命力が満ちている。しがみつくのに任せ、ただ軽く背中をあやすように撫でた。
かわいそうに。理沙嬢自身は成長を望んでいないのにそれでも一日、一日と大人へ近づいていく。
「ボク、子どもに、小学生に間違えられる。前はそれがいやだった。大きく、大人みたいに見られたかった」
若くない私には本人の望みがかなわないことよりも、大人へ近づくことを忌避する、その心の痛みが悲しく感じられる。
「でもなんだかおかしいんだ。子どもらしく媚びろっていわれたり。かわいがったり世話をしたりするふりをして――嫌な感じで――触ろうとする人がいたり。みんながみんな、変なわけじゃない。女の人がみんな、大丈夫ってわけでもない。でも男の変な人は」
理沙嬢はことばに詰まった。
「男の変な人は、とても怖い」
説明しようとしてもことばにならないこともある。いいよ、いいよ。伝わるといいと思いながら背中を撫でつづけた。
「大人の女の人はとてもきれいで楽しそうで、ボクもああいう風に楽しく生きたいって思う。おばあちゃんも言ってた。大変なこともあるけれど、とても楽しいのよ、って。でも、でもボク、小さくて子どもみたいなのに体つきだけ大人みたいで変なんだ。すごく変なんだ。おかしいんだ」
背中を撫でるのをやめた。ぽんぽん、と軽くたたく。
「理沙嬢、変じゃない」
「でも」
「変じゃない。とてもきれいだ」
「だって」
「私は見たよ。とてもきれいだ。そしてこれからきっともっときれいになる」
「でも……変だもん」
「そうか。変だと思う人もいるんだね。でも私はそう思わない。大人になってもきっといいことばかり起こるわけじゃないし、いやなことが却って増えたりもするんだと思う。楽しいかどうか、いいことなんか全然ないのかどうか。大人になってみなきゃ分からないよ」
理沙嬢は顔を伏せたまま黙り込んでしまった。説得力がないと自分でも思う。法律上の大人になり、経済的に自立して十年以上経つけれど、「じゃあ、今日から大人になります」などと子どもを卒業することを自覚していたわけではない。なんとなく、気がついたらそのタイミングが来ていたから乗っただけだ。だから私は大人なんだけどどうなれば大人なのか、大人になるとどうなるのか、実際のところを分かっていない。そういう意味でもういい年齢なのに理沙嬢とさして変わらない。
「話が飛んじゃうみたいだけどね、全部が全部、成功しなきゃ駄目なのかな、って思うんだよね。大人はみんなそう言うからさー、きれいごとみたいに聞こえちゃうかもしれない。私も昔そう思ったし。でもさ、理沙嬢の大変さに比べたらたいしたことないんだけどさ、こうして家族も仕事も彼氏もなくしてぼんやり暮らしてるとさ、いっさい失敗しちゃ駄目ってこともないかと、思うわけ」
しみこませるように、ことさらのんきな調子を装い、私は理沙嬢に語った。
「大人になったらさ、見せにおいでよ。私にBQBボディの仕上がり具合を」
理沙嬢は顔を上げた。怪訝な表情だ。
「びーきゅーびーって何?」
「理沙嬢みたいなナイスバディのこと。ボン・キュッ・ボンの略」
「何それ」
「きれいでうらやましいけどな、理沙嬢のBQB。ほら私、貧乳だから」
「しおちゃん、自虐的」
「うん、自分のことばに傷ついた」
理沙嬢は身体を起こし、私に向き直って両腕を差し伸べた。
「しおちゃん、ぎゅうってして」
「いいよ、おいで」
膝に乗り、私にしがみつく天使のような子ども。接する頬のすべらかな感触と、美しいこの子どもの全面的な信頼を得ていることが私の魂を揺さぶる。心の奥底からこみ上げる満足感。
「理沙嬢はかわいいなあ。私、理沙嬢のこと大好きだよ」
「しおちゃん、ありがと」
「かわいくなくても、ぶうたれていても大好きだよ」
「ありがと」
「焦って大人になる必要はないけど、大人になるのをやめないでほしいと私は思う。どうだろう?」
表面は優しく、理沙嬢が望むであろうことばを口先で紡ぎながら私は心の奥底に沈みかけた違和感に気づいた。
――おかしい。
この満足感は何だ。なぜ私はこの子どもを手に入れたような気になっているんだ。離れなければ。ただの親切の範疇を逸脱している。
――おかしい。こんな自分は変だ。
さらに強く、理沙嬢がしがみつく。
何がいけないんだ。こんなにも自分は相手から求められているじゃないか。自分が手を出したのではない。
――この子が誘ったんだ。
ちらりと脳裏をよぎったことばに体中の血が凍るかと思った。いけない。自分は常軌を逸しかけている。相手が同じ女性だから、自分より若く、まだ幼いから、そんなことが枷にならない。私のものにしたい、私の意のままに動く、私だけのかわいい――。
ぱきり。
身体の奥底、心、いや、脳の奥だろうか。どこかで記憶の封印が解けたのを感じた。
* * *
昔。燃えてなくなるずっと前、まだ新しい私の家。積み木で作ったお城の前で祖父と二人。いつ頃だろう。祖父が亡くなったのが五歳の頃だからかなり昔だ。
――おとめのちから?
――ええ、異能というのです。
――いのう……?
――詩織は小さいからよく分からないかもしれませんね。例えば、ほら。
祖父はちらりと積み木のお城に目をやり微笑んだ。てっぺんに置いた三角の積み木が持ち上がり、ゆっくりと宙をよぎり私の掌の上にそっと載った。祖父の手は膝の上に置かれたままだ。
――わたしは乙女ではありませんがね。
――おとめってみんな、こんなことができるの?
――乙女の能力は様々です。目に見えない要塞で悪い人をはねのけたり、魂を惹きつけていうことを聞かせたり。
すごい。そういう力があったらおかあさんに「めっ」されることなくおやつを食べたいときに食べ放題だ。
――そんな風につかっちゃいけないのです。
祖父は「駄目なものは駄目なのです」と私をたしなめるときの顔をした。祖父の「駄目なものは駄目」はぜったいだ。お父さんもそういっていた。
――この異能を手放したいと願う乙女がいたら、詩織はどうしますか?
祖父は静かに問うた。私には分からない。お願いしたり、機嫌をうかがったり、地団駄を踏んだりしなくてもわがままが通る力を持っているのにそれを手放したいと思う乙女の気持ちが分からない。
――詩織、乙女から異能を剥がしとるにはある難しい儀式が必要なのです。
黙って首をかしげたままの私を優しく見つめて祖父はいった。
――詩織、成功させるには条件があるのです。場所とタイミングを間違ってはいけませんよ。絶対に。
私の頭を撫でるごつごつとした大きな手。低く穏やかでまるい声。
――覚えなさい。そして忘れなさい。鍵を見つけるそのときまで。
* * *
蘇る記憶の奔流が身体を苛む。錠前がひとつ外れた。視界でバイパスの橋脚が、松の木が、遠くでかすむ網小屋が、濃い青空が水平線が歪む。
――そうか、そうだったのか。理沙嬢は白梅の乙女、異能者なのか。
ただの美しさではない。相対するものの魂を惹きつけ、縛る魅惑の異能。理沙嬢はその異能を知らず知らずのうちに行使していた。ただ幼く美しいからかわいがられるという通常の範疇を超えて人を惹きつけたとき、どんなに恐ろしい思いをしたろう。それが理沙嬢の意図しない力の行使だったとしても。
乙女の異能。解放の儀式。そうだった。私には課された義務がある。その義務が何なのか、まだまだ思い出さなければならないことがたくさんあるけれど、とにかくやらなければならないことがあって私はこの地に来た。全貌の明らかでないその義務が心に重くのしかかる。
私は理沙嬢の背中、首、頭全体を撫でた。
――ここなのか。これがそうなのか。
指先でとらえた感触と蘇った記憶を照らし合わせ私は震えた。今はまだ違う。この子の場合はまだそのときでない。間違えていないはずだ。大切な場所に触れすぎないよう、腕を背中にまわし、小さな身体を抱きしめた。
理沙嬢が顔を上げた。
「しおちゃん、大人になるのをやめるかどうか、大人になっても自分が大丈夫なのか、ボク、分からない。でもそのことを考えてみる」
ふうう、と思わずため息をついた。
「いい答えです。理沙嬢は賢いなあ。決して鵜呑みにしない」
「答えが出たらまた話を聞いてくれる?」
「私でよければもちろん。理沙嬢がこうと決めたら、それがどんな決断であっても私はそれを否定しない。私は理沙嬢の対の乙女ではないけれど、そのことだけは約束できる」
理沙嬢は少し身体を離し、私の胸に手をあてていった。
「対の乙女がここに住んでいるから?」
「理沙嬢、違う。それは違うよ」
なんといえばいいんだろう。ごまかすつもりはないのだけれど、いわなければ分かってもらえないこともある。いいたくないけど。
「あのねそこ、胸板じゃないんだよね。ひ、……貧乳だから、分かりにくいかもしれないけど、その」
「あ、しおちゃん、ごめん」
緊張が解けた。理沙嬢がもぞもぞと膝から降り、座り直す。並んで海を眺めた。
「ボク、あの人と仲良くしなきゃいけないのかなあ」
「理沙嬢は、どうしたい?」
「……分からない」
寄せる。返す。潮騒を聞く。
「しおちゃんに叱られてあの人、反省しているみたいに見えた」
叱っちゃいないんだが、そう見えたかもね。そして影薄青年はひとまず反省に近い心持ちになったんだと思う。
「反省したらゆるしてあげないといけないんでしょう? ゆるして、仲良くしてあげなきゃいけないんでしょう?」
理沙嬢は身体を震わせた。今の発言はいろいろ分解してつっこみメンテしたほうがよさそうだから、ひとまず曖昧に
「そうかなあ。そのことも考えてみるといいよ。『どうしたいか』という問いの答えになっていないし」
とだけ返した。
長いこと放っておいた竿の穂先からラインがだらりと緊張を失って垂れ、風に揺れている。
投擲のフォーム、タイミング。
仮にそれらがすべてかみ合い、すばらしい飛距離を確保できたとしても、そこにターゲットがいるとは限らず、ターゲットがいたとしても、確実に釣れるとは限らない。釣れるかどうか、投げてみなければ分からない。
砂をざくざくと踏み、大きい人がやってきた。いつの間にか日が傾いている。
「帰りましょう」
竿を手に取り、くるくるとリールを回してラインを巻き取り、仕掛けを回収する。今日は釣れなかった。海から上がった仕掛けは半透明の繊細な糸が針を巻き込んでもつれている。それはどんなにほどく努力をしても元通りにならないように見えた。
私はこれから一度たりとも失敗できない。残る記憶の錠前を外す作業も、私に課された義務を果たすことも。針が引っかかり、肌を破ったとしても、なんとしてももつれを解きほぐさなければならない。
理沙嬢は私とは違う。まだまだ幼い。いくらでもやり直しが利くはずだ。大人になったら失敗が決して許されない、そんな問題にいつか直面することになるかもしれない。でも今はそのときではない。彼女が抱える問題がそうならないように、こじれないように――私は祈った。




