第三話 木の芽(一)
あなたが怖いんじゃないの私自身が怖いの、ってか? けっ。あのときの自分に蹴り入れてやりたいよ。
齢三十五にして乙女の、まさに薄皮を有する乙女のごときときめきと、そして乙女が抱いてはならないむらむら、ええ、ありましたよ。認めますよ。初日の皮剥鍋の夜、おっさんの「だいじょうぶ、だいじょうぶ」にむらっときましたよ。ちくしょー、腹立つ! 乙女のときめきには限りがあるんだ。そのときめきを無駄遣いした。あー、もったいない、やめやめやめ。自分で自分のこと乙女っていっちゃった。シラウメナイズされてきちゃったよ、私。白梅荘的に正しい用法なのか今ひとつ分からないんだけどさ。
木の芽時ってことですかね。にょきにょきぐいぐい、新しい命が萌え出るときは生きとし生けるものすべてわくわくそわそわしちゃうってことですかね。もうそういう季節だってことで。ブラックボックスに押しこんで忘却という宇宙の彼方へ放り出してしまいたい。皮剥鍋の夜の件も、今回も。
少なくともあの夜、どきどきしたのは自分だけでないと思いこんでいた。現実って厳しい。
というのもとんでもないことが判明したんである。
白梅荘はけっこう広い。
二階の居住エリアはともかく、一階表のパブリックエリアは大広間だの大サロンだの、用途にどういう違いがあるんだか今ひとつ分からないでっかい部屋がいくつもある。パーティだの舞踏会だの陰謀渦巻くお茶会だの、そんなドラマチックなイベントには縁がないのでこれらの大きな部屋はまず使うことがない。たまに風を入れて掃除する程度で、普段は調度に布をかぶせ鎧戸を閉て、鍵をかけてあるんだそうな。
この日私は「オーナーになっちゃいました、資産を把握しましょう」ツアーを自主的に敢行した。たまたまみなさん忙しかったらしく、在宅していたのは私の他にケイさんだけだったので彼に案内を頼んだ。開けたり閉めたり、ぱたぱた入ったり出たりしてただ見てまわるだけの簡単なお仕事なのにまだ体力が戻っていないからか、途中でバテた。博物館に差し上げたほうがよくはないかと悩むような由緒ありげな調度に驚いたからかもしれない。立ち眩みした次の瞬間、
「詩織さん……!」
でっかいおっさん乙女に抱きつぶされましたよ、私。
――ちょちょちょちょっと、息が、息ができません! できないっつうの!
いいたくてもいえないのでケイさんの腕をばっしばし叩いて「まいった」のタップアウトをしたんだけど、危うく昇天して両親との意外に早い再会を遂げちゃうところだった。タップアウトでようやっと私の生命の危機に気づいたケイさんは
「ああああっ、すみません!」
と解放してくれたんであるが、「ぼへえええ」とぐったりする私を見てさらに様子がおかしくなった。そうっと私の背中に腕をまわして抱き起こし、悩ましげにため息をついたんである。
このときは私がおっさん乙女のことをてんで理解していなかったので、皮剥鍋の夜のむらっとタイム再来かとどきどきしていたわけだ。だってケイさんの太い指がつつつーって首筋たどるんだもん。元カレにフラれる前から長期間ご無沙汰していたがこりゃいよいよ覚悟が必要か、といろいろいろいろ考えこんじゃった(女子にはいろいろあるからね)私を誰が責められるかってんだ。
「はあ……、素敵です。詩織さん、とてもきれいです。初めて会ったあのとき、見惚れました。あなたのうなじに」
え? なんだって?
目をぱちくりしている私自身には一切関心がないんだか、ケイさんは繰り返し繰り返し、私の首をなでなで、なーでなーでしてうなじを絶賛している。私の本体っていうか心が宿る場所って頭とか、あるいは心臓のある胸のあたりかもよ、なんて思うんですけどね? その辺はまるっとスルーでうなじオンリーですか。
「後ろ側のこのラインもきれいですが、鎖骨につながるこの曲線も美しいです」
「……はあ」
「たまりません。ほんとに……好きです」
「うなじが?」
「はい」
「もう一度訊きますよ? うなじが?」
念を押されたのが理解の外だったか、ケイさんはきょとん、と首をかしげ
「うなじ、好きです」
といいやがった。「好きですがそれが何か?」とでもいいたげな顔だな。そうかい。おっさんはうなじフェチかい。
確かに私の首は細い。そして長い。人によっては私のような細長い首を好むらしく、今までも稀にほめられることはあった。
なんだかね、ものすごくがっかりしましたよ。びょろんと長い首でありゃ誰でもいいのかい、と。チャームポイントのひとつくらいにポジティブに考えればいいのかもしれないんだが、ものすごーくがっかりしたついでに萎えた。何が萎えたか分からないけど、私の中で勃然として沸きおこった何かがぷっしゅー、としぼんだ。
「もしかしてケイさん、首長族の女性が好きだったり」
「首長族……はい」
いい。もういい。いわずとも分かる。皆まで語るな。
私の中で疑念は確信に変わったね。このおっさん、首長族の輪っかはめて首を伸ばしてるああいう女性を恋人にするにはとかなんとか、一度ならず真剣に検討したことがある、と。変態おっさん乙女はすーりすりすり、と私の首を撫でながら熱っぽく主張した。
「美しい……俺、詩織さんのうなじについて一時間、いいえ、一晩中でも語り続けることができます」
誰が聞くんじゃ、そんな話。
ここまでうなじに執着する人も珍しい。他にも角度がどうの曲線がどうの、光線のあて方がどうのとうじゃうじゃ語っていたが、いいかげん私はキレそうになったよ。無理な体勢を保持しているので首筋が攣りそうでもあり、何より愛しげな手つきで撫でられるのが屈辱的で耐えがたい。むらっとタイム再来かと思いこんでいただけに耐えがたい。
しかし私は大人だ。ここはがんばって穏便に対処せねば。私は首を這うケイさんの手をはっしと掴んだ。
「私なんぞの首がそんなにお気に召しましたか」
「なんぞって、ほんとうにすばらしいんですよ?」
私の手をそっと外し、またぞろ首に触ろうとするのでがっしとおっさんの手を掴みなおす。
「そうですかそうですか。大変に残念です。そこまで気に入っていただけたのなら、外して『どーぞ?』と差し上げられるといいんですが、そうもいかないんですよ。私にくっついてる首なんで」
腹が立つ。「どーぞ?」のところで逆側にこてん、と小首をかしげて見せたらばケイさんの表情がぱあっと輝いた。この角度もお好みですか、うなじフェチめ。もう我慢ならん。怒りがこみ上げる勢いそのままにおっさんの手をずばっ、と振り払い私は立ち上がった。
「離れなさい、こんの変態セクハラオヤジ!」
何が乙女だ。あのおっさん、単なる変態さんだったよ。距離の詰め方がおかしい、近すぎると思ってた。まあでもね、早いうちに気づいてよかったですよ、危うく求められもしないのにお肉のぶつかり的アフェア持ちかけちゃうところでしたよ。すんでのところで勘違いに気づけてほんとによかった、ちくしょー!
どすどすどす、と自室に戻るべく居住エリアの階段へ向かって歩いていると外出から戻ってきた理沙嬢とお久さんが顔を出した。
「なんじゃ、ずいぶん威勢のよい……」
くらり、と視界が回転した。いかん、貧血だ。くずおれる寸前、どどどど、と風を巻いて大きい人が駆けつけ私の身体をすくい上げた。
「うわあ、お姫様抱っこ」
「おやおやおや」
もうやだ。耳もとで「すみません」とかなんとかいつもどおりの弱気発言だけどさ、低音つやつや声出されると困るんだよ、いっちいちエロいんだよ。うなじしか眼中にないくせに。
「どさくさに紛れて首に触るな変態、ケイさんなんか、嫌いだあああ!」
あ、駄目だ。気が遠くなる。私は意識を失った。
ぼそぼそと人の話し声が聞こえる。
「まだ新しい環境に慣れていなくて疲れやすいんだから、無理させちゃ駄目でしょ」
「……すみません」
「ちゃんとそばについていてあげて。貧血を起こした場所が階段の途中だったら――」
息を呑み、深くため息をつく気配。……ケイさんだ。もっと叱られればいいんだ。みちるさんももっともっといってやってください。乙女だかなんだか知りませんが実はうなじフェチですよ変態ですよ、このおっさん。
「想像するだけで心が張り裂けそうに痛む。私は、私たちはこの人を失うわけにいかない。理解してる?」
「……すみません」
「ちゃんと大切にしてあげて。押しつけるんじゃなく」
「はい」
軽い足音が密やかに外へ向かう。みちるさんが出て行ったらしい。しばらくのち、ため息をつく気配がした。
「嫌いっていわないでください……」
あたたかい大きな手が私の指をそっととる。熱い息と、心もとないくらいやわらかい何かが指先に触れた。
唇。
でもね私、分かっちゃったよ。目を開けられないくらい眠くてだるいけどばっちり分かっちゃったよ。タイミングずれたよね。躊躇あったもん。おっさん、私の指じゃなくてうなじ触ろうとしたよね。それで迷ってやめて仕方なく指で我慢、そんな感じか。うぐぐぐぐ、腹立つ。
いっちいち、うなじに盛るな。それに嫌いっていうなって結局押しつけがましいよ。
いいたいことがたくさんあるのに、睡魔が眠りの沼へ私を引きずりこむ。駄目だ、溺れる。起きていられない。




