第三話 夜長(三)
「おっと、コピーして持って行くのはいいけれど、声に出すのはやめておいてね」
嵐太郎にうなずいてみせた。確かにそのコードはトラップ解除のときに嵐太郎が示したものと対になっている。
「これは……」
「そう。二つのコードを組み合わせてできあがるのが、僕がつきとめた抜き針の儀執行コード。どう? 合ってる?」
確かにこれは乙女の前ではうかつに話せない。
「この期に及んでまだ警戒されてるのかあ、僕」
「そうじゃありませんよ。執行条件に変化が起きないかどうかを解析していただけです。……確かに執行コードになり得ます。条件もおそらく変わりません。館の主でなくても抜き針の儀を執行できるのですね」
嵐太郎は目を逸らした。夜だからそう見えるだけなのか、嵐太郎の顔は血の気が失せて白い。
「実際に執行できるのかどうかは、分からない。――試せなかった」
美しい青年の垂れ気味の目尻に皺としみが現れたような、そんな気がしたが直視するのがためらわれて私も目を逸らした。
「さ、詩織ちゃん、本題はその奥だ。解読できなかった部分も見たままを記憶するよう努めた。持って行って、祟り神文書も」
全体のサイズを確認し、記憶を転写する。圧縮しようかと思ったが、やめた。そのままのサイズで転写し、プライベートの記憶野に並べておく。祟り神文書は和綴じの古文書だった。見たことのない文字が並ぶ巻ばかりだ。
「これが祟り神文書……」
「――詩織ちゃんは記憶の受け渡しも話しながら、片手間でできちゃうんだね」
問い返す隙を与えず、嵐太郎は表情を厳しくした。
「弟子が獣化能力者だから仮説を立てても話せなかったんだけど……知恵者の播種計画、僕が聞かされてきた話と違うかもしれない」
確かに。これは私がみちるさんやケイさんから聞いた播種計画の内容とも異なる。
「朽ち縄の被験者ふたりはこのことを知っていると思う?」
「知らない……と思います。そういえばケイさんは祟り神文書を解読できると周平さんがいっていました」
「その言葉だけでは何ともいえないね。祟り神文字を読めるという事実を表しているだけだ」
嵐太郎と私の間に緊迫した沈黙が下りた。
「僕が読み取ったことを鵜呑みにしてよいものかどうか分からないけども。この史料を読む限り、『島』の最終目標は祟り神、いや、知恵者とのハイブリッドチルドレンを創ることじゃない」
「嵐太郎さんほんとは……」
「うん、少しだけど読めるんだ、あの文字。あの拠点で創ろうとしていたのは龍人ってことになる」
「そのことをケイさんと周平さんはご存じなんでしょうか」
「さあ、どうだろうね。あくまで仮説だから」
嵐太郎は表情を険しくした。
「山猫はともかく――鳶、守宮。『王化』とあの拠点で呼ばれる複数の獣種の発現だけじゃない。周平くんは初めて哺乳類以外の種が顕現した個体なんだ。あの史料の示す龍人が創り出される可能性があるとすれば周平くんの子孫になるだろう。だからなんだろうね、生殖能力の分の生命力を大幅に底上げするために何度も秘儀を施されたと周平くんがいっていた。その秘儀がどういったものなのかは教えてもらえなかったけど。――それで大人になる前からその、交配実験に何度も無理矢理参加させられたそうだ」
虐待じゃないか。怒りに胸が締めつけられた。だからといって周平が「島」の人々を殺害していいとは思えない。でもこれが周平のいっていた
――オレは気が狂いそうなことを生まれてこのかた百年間、幾度となく経験してきたんだ。
その苦しみなんだろうか。
「その交配実験は『島』の管理者も同意の上だったんでしょうか」
ケイさんの心の深海底で出会った優しい人の憂いを帯びたごつくて美しい横顔を思い出した。
「どうだろうね。そこまでは。――詩織ちゃん、時間がない」
嵐太郎が扉のほうへ視線を投げた。
「さっき渡した例の記憶と僕の仮説、弟子と共有するかどうかは詩織ちゃんの判断に任せるよ」
なぜご自身で、という私の問いは口に出せなかった。とんとん、と扉がノックされた。
「はーい。五木くん、待ってたよお」
先ほどまでの重苦しい表情をかなぐり捨て、嵐太郎がふわんふわんと跳ねながら扉へ向かった。
オーバルの耐熱皿に鶏としめじ、エリンギのグリルが載っている。オリーブオイルと肉の脂であぶられたにんにくのにおいが、バジルやローズマリーのさわやかな香気とからむ。とっくに夕飯を済ませたというのに腹が鳴る。テーブルにセットすると、ケイさんは再び盆を持って立った。
「真知子さんが帰ってきたから夜食の用意をしてくる」
「それでしたら私が」
「いや、いいよ。もう少しアテが必要になりそうだ。夜食の後に多分、真知子さんもこちらに合流するだろうし。師匠、先に始めていてください」
私の肩に軽く触れて、ケイさんが再び部屋を出た。
「うううん、これはおいしそうだ。さすが僕の弟子」
嵐太郎はショットグラスにとくとくとウィスキーを注ぎ、私のほうへ押しやった。そして自分の取り皿へ鶏ときのこを山盛りにして「いただきます」と手を合わせると猛然と食べ始めた。「うま、うまうまうま」とがつがつ食べるのだが品が悪くならない。美形は得だ。
「嵐太郎さん、先ほどの――」
「祟り神文書と仮説の件なら、詩織ちゃんに任せた。さっきもいったとおり、時間がない。何か訊きたいことがあるんでしょ?」
時間がないって、今ケイさんが時間作ってくれたんじゃないのか。まあ、いいや。気を取り直して質問した。
「白梅荘や『島』の他に播種計画の拠点があれば教えていただきたいのです」
「他の拠点かあ」
ショットグラスの中身をくいっと空けてボトルから明るい琥珀色の液体をとくとくと注ぐ。嵐太郎は顔色ひとつ変えない。相当アルコール度数が高そうな酒だが、平気なんだろうか。
「戦後のどたばたで滅びちゃったところばかりだなあ。今残ってるのはここ、白梅荘だけだよ」
「そうですか……。実はいいにくいことですが」
今後について抱いている懸念について説明した。白梅荘を播種計画拠点として維持できるとすれば私の代までが資金的に限界だろうということ。当主や乙女がいなくなり、憑依体としての小梅のボディが朽ちた後、白梅をどうするのかに不安があること。
「そうだねえ」
親指でショットグラスを撫でながら視線をテーブルに落とし、嵐太郎が考えこんだ。ふい、と視線をこちらへ戻す。
「詩織ちゃん、結局現状維持を選んだんだ」
「はい、時勢に逆らうようですが。再生した小梅を迎え入れたあのときに心が決まりました」
「そう。白梅を引き剥がすにしても小梅ちゃんを害する方法なんて採用できないしね。無理もないよ」
慎重に探ってみたが、嵐太郎の表情は淡々としている。みちるさんは家族のようなものだった。小梅のあの幼子の姿では抜き針の儀を執り行うことなどできない。そして数カ月経て小梅もまた私たちの家族となった。どう理屈を並べようが、言い訳にもならない。
「私は祖父から受け継いだ義務を果たせませんでした」
「……」
「あなたから受け継いだ義務でもありました。失敗してしまい申し訳ありません」
「いいんだ」
「そして次代を担い、義務を受け継ぐ子を産めないかもしれません」
「詩織ちゃん、いいんだ。大吾くんだってきっとそう思ってる。白梅を破壊するなんて自分にできもしないことをきみに押しつけてしまった。僕らがいけなかったんだ」
じゃあ、どうする――。嵐太郎にも、私にも策などない。




