第三十三話 旅は多い方が楽しい
「ちょっと声が大きいわよ」
顔を真っ赤にしながら、思わず大声で聞き返してしまいました。意外も意外、まさしく晴天の霹靂が如く言い放ったクリスカさんですが、そこには微塵も恥じらいもなく、むしろ哀愁すら漂っていて、表情も懐古に想い耽る微笑みが現れています。
「失恋したんだけどね。次の旅は件のその人に会いに一路日本海を伝って南へってところかしら」
「クリスカさんを射止めた方……ぜひお会いしてみたいです」
「……物凄くハードル上がるなぁ」
上げたのは私ではありませんよ多分。
「まぁ話を戻すんだけども」
「無理やりですね」
「意外と恥ずかしいのよもう。光莉の心配は杞憂よ。あらかじめ言っておくわ」
「杞憂?」
「まだ薫との糸は切れていないという事よ。まぁ離れていても秒速で伝えたい言葉や想いが伝播する現代だと、離れ離れってことの実感が薄いけれど」
それでもやはり、と食い下がりそうになりました。もはや戻る術などなく、いくらクリスカさんに弁じていても何も伝わらない。
理解しつつも煮え切らず、言葉だけが込み上げてきます。けれどそれを伝えるためだけに私が泳いで戻るとかは不可能で、船を差し戻すということも考えましたが一個人の願いの為だけに周りを巻き沿いにするのは尚更無茶な発想でした。
下唇を噛みながら、私は遠ざかる北の大地に目を向けます。あの雄大な大地に大切な何かを置き忘れた気分で。
「言いたいことがあるなら、叫んでみるといい」
「叫ぶ?」
「心を持つということは時に不思議でね。離れていても言葉が通じ合うことだってあるの。以心伝心という奴かな?」
まさか、とも思いましたが気晴らしには丁度良いかもしれないと、私は腹に息を溜め込みます。
「薫さぁぁぁん! 酷い事言ってしまってごめんなさぁぁぁい!」
「そう叫ばなくとも聞こえているぞ、光莉」
不思議です。手に取る様に薫さんの声が耳に残り、
「って、え?」
「さっきから見ていたぞ。クリスカも少し悪戯が過ぎるんじゃないか?」
「人の驚いた表情とか、愕然と立ち尽くす様を見るのが私の好物の一つよ。覚えておくといいわ」
「いつ……から?」
「階段のところでずっと出番を待っていた」
「じゃ、じゃあ、さっきまでクリスカさんに打ち明けてたことも全部」
「聞こえていた。それに関しては、何か悪いことをしたかな?」
顔全体が沸騰するように熱くなっていくのが分かりました。なんだかずる賢い。
「とっても悪いですよ。心配……したんですからね」
擦れた声で言い募ると気づけば視野が霞んで大粒の涙がこぼれていました。
「言い出すタイミングが分からなくて、ここに来るまでずっと黙ってたんだ」
「照れ隠しのつもりですか……でも良かった。また、顔を見ることが出来て。何も知らず、口任せに酷い事を言ってしまって、本当にごめんなさい」
「お互い様だ。私も君を蔑んだ。すまなかった」
言い尽くせない。ごめんなさいでは足りない気がしました。けれど言葉が、何を言えばいいのかが分からない。
ただじっと薫さんの瞳に視線を重ねます。彼女も私と同じで釈然としないまま別れるのが嫌だったのです。
人間の本心を完全理解する術は今の人類にはないけれど、行動で示される意味は感じ取れていて、不安が霧散していきました。
「もう死なない、どんな事があっても。それを君に誓いたくて、ここに来た」
「私なんかで、良いんですか?」
「当たり前だ。君が見つけてくれなければ、ここに影すら留めていないから」
「では、その誓いを確かに受け取ります」
硬い握手。その手は滑らかで大きく温かい。血脈の張り巡らされた生命の証明です。
「敬語は止してほしいかな。私達、奇しくも同い年な訳だし」
「同い年だったんですね」
てっきり年上かと。
「それから」
薫さんは顔を背けて言い淀み、一度咳払いをします。
「光莉とクリスカに恩返しがしたくて、しばらく旅に同行しようと思ってる。二人をモデルにして新作を書きたいんだ」
「わ、私達をモデルに?!」
「ダメかな?」
モデルだなんて光栄ですが荷が重い。困惑して思わず顔を窄めると、薫さんの表情が曇ります。
「やはりダメか」
「ダメと言うわけではないのですが……」
「ハッキリしちゃいなよ光莉。喜ばしいけど気恥ずかしさもあるんでしょう?」
「え、えぇまぁ」
「物は試しよ試し。私達をそのまま使うんじゃなくて、モデルになるだけだから、誰も気づかないって」
「そ、それならいいです」
快諾という表現が相応しくなのは百も承知ですが、その提案を呑みました。
「作家『黛キエル』先生の登場人物になれる日が来るなんて夢のよう」
「黛先生って、薫さんが?!」
「おい、その呼び方はあまり好きじゃないと言ったじゃないか」
「あら、つい口が滑ってしまったわ薫。でも打ち明けておかないと、光莉が辿り着けないわ」
「それは最もらしいが……」
頬を掻いて目を泳がせる薫を愕然と私は凝視していました。
後で由来とか、いろいろ聞いてサインを貰おう。秘かに画策して、私達は次なる旅の終着点へと馳せていきました。




