送れなかった、ごめん
瀬野くんと喧嘩してから四日が経っていた。冷戦——そう呼ぶしかない状態だった。
職場では事務的なやり取りだけになった。「柊主任代行、シフトの件です」「瀬野先生、連絡帳を確認しました」。敬語と肩書き。恋人だった頃の名残はどこにもなかった。
美咲が心配そうに言った。「奈月ちゃん、瀬野くんと何かあった?」
「なんか空気が違うよ」
私は「別に、何もありません」と口元を緩めた。笑えていただろうか。
夜。布団に入って、久しぶりにこえつきのアプリを開いた。
瀬野くんは配信を続けていた。でも内容が違う。
——今日はね、ちょっとだけ、自分の話をしてもいいですか。
夜凪の声。いつもの声。でもどこか硬かった。
——大切な人がいるんです。その人がどんどん削れていくのが見えてて。でも僕が何か言うたびに、逆に追い詰めてる気がして。……正しいことを言えば言うほど、その人の顔が遠くなるんですよね。
コメント欄が動いた。「大丈夫?」「夜凪さん無理すんなよ」「聞いてるよ」。
——声だけなら人を傷つけないって、ずっと思ってた。でも現実では、声が逆効果になることもあるんだなって。……わかってることと、諦めることって、違うじゃないですか。
瀬野くんが配信で自分の弱さを語っている。初めてだった。いつもリスナーの夜を包んでいた人が、自分の夜を誰かに差し出していた。
画面の向こうに向けた言葉なのに、私の布団の中まで届いてしまう。
瀬野くんは、私に聴こえる場所で話しているのかもしれなかった。
配信が終わった。暗い部屋で、スマホだけが光っていた。
LINEを開いた。瀬野くんのトーク画面には、四日前の業務連絡が残っている。指が止まった。
「ごめん」と打って、消した。「聴いてた」も消した。「あなたも傷ついてるのに」は、最後まで打てなかった。
もう一度、「ごめん」と打った。
送信ボタンの青い矢印が、やけに近く見えた。
親指を乗せたまま、画面が暗くなるまで動けなかった。
送れなかった「ごめん」だけが、入力欄に残っていた。
あの子も傷ついている。でも私は、まだ手を伸ばせない。




