恋人じゃなく、主任代行
三島主任がメンタル不調で休職に入り、私が主任代行を引き受けることになった。その初日の朝。出勤すると、三島主任のデスクに私の名札が置いてあった。「柊奈月 主任代行」。白石園長の字だった。
シフト管理、保護者対応の窓口、園長との連絡係。引き継ぎメモを読みながら、三島主任がどれだけの業務を一人で回していたか、初めて知った。
「おはようございます、柊」
蒼の声が止まった。私を見て、一瞬だけ口元が揺れた。
「おはようございます、柊主任代行」
正しい敬語だった。正しい距離だった。昨日まで電話で「なつきさん」と呼んでいた人が私を肩書きで呼んでいる。
正しさが、寂しかった。でもそれは自分が望んだ線引きだ。職場では上司と部下。それ以外の選択肢は、最初からなかった。
昼休み。給湯室に入ったら、蒼がいた。棚からコップを取ろうとしていた。私も同じ棚に手を伸ばした。
指が触れた。
蒼の手の甲に、私の指先が重なった。温かさが指先に残る。蒼の手が止まった。私も止まった。給湯室の蛍光灯が静かに唸っている。
「すみません」
蒼が手を引いた。私は「いいよ」と言いかけた。でも口から出たのは別の言葉だった。
「大丈夫です」
敬語。なぜ敬語が出たのか、自分でもわからなかった。蒼は黙ってコップを一つ取り、出ていった。
夜、布団の中で蒼に電話をかけた。
「ごめん、今日ちょっと冷たかった?」
「いえ。なつきさんが決めたことですから」
蒼の声は穏やかだった。怒っていない。でも電話越しで顔が見えない分、声だけがまっすぐに届いてくる。
電話を切ってから、こえつきのアプリを開いた。今夜の二十二時まであと少し。でも画面を閉じた。夜凪の声を聴いたら、泣きそうだった。
翌朝、昨夜の配信のアーカイブが残っていた。聴かなかったのは、初めてだった。
正しいことが、こんなに寂しいなんて知らなかった。




