プロローグ:声の名前は夜凪
——眠れない夜は、誰にでもある。
連絡帳を十二冊書いたあとの指先が、まだ少し痛んでいた。その手でイヤホンを押しこんだ。夜の十時。部屋は暗かった。スマホの画面だけが天井にぼんやりと光を落としていた。
——でもね、眠れないことは悪いことじゃないよ。今日一日をちゃんと生きた証拠だから。
一万人のフォロワーがいる声を、私はひとりで聴いていた。布団を顎まで引き上げて、膝を抱えて。今日も遅くまで残業した。コンビニ弁当を食べてシャワーを浴びた。そしてここにいる。
この声の持ち主を、私は知っていた。笑うと目が細くなる。子どもの前でしゃがんで、同じ高さから話しかける人。
コメント欄に「今日もおつかれさまです」と打って、送信ボタンの手前で指を止めた。明日の朝、同じ保育室で顔を合わせる人に、夜の私として近づくのは違う気がした。文字を消した。
——じゃあ、今日はここまで。おやすみ。また明日ね。
最後の「ね」だけ、声がやわらかくなった。子どもを寝かしつけるときみたいに。そのまま暗闇に溶けていった。
画面が消えた。イヤホンを外した。耳の奥に、まだあの声の輪郭が残っていた。
明日の朝、「おはようございます」と言えば、「おはようございます、柊さん」と返ってくる。それだけの距離。あの「また明日ね」が自分に向けられた言葉ではないことを、わかっているのに。
この気持ちに名前がつく前の話だ。声の名前は夜凪といった。




