第97話 領民の安全を守るため
視察は一日では終わらず、その日は辺境伯邸に泊まることになった。
翌朝、客間を出ると廊下の空気はしんとして冷えていた。外ほどではないが、朝の張りつめた気配が石造りの屋敷全体に満ちている。
カケルは軽く肩を回した。昨夜は久しぶりに広いベッドで休めたが、やはり落ち着かなかった。
肩の上では、ワサビ君がいつものように襟元を掴んでいた。左右の目を別々に動かしながら、静かな廊下や窓の外の明るみをゆっくり追っている。
「昨日より寒そうだね」
隣を歩くリアナが、小さく息を吐く。
「ええ。今日はもっと北側を回るはずだもの」
二人が階下へ向かうと、すでに出立の準備は整っていた。騎士たちが動き、使用人たちも朝のうちに必要なものを運び終えている。
やがて辺境伯も姿を見せた。
「行くぞ」
短いその一言で、一行は再び屋敷を出た。
今日も馬車での移動だった。昨日よりも道は荒れ、進むほどに残る雪が増えていく。陽は出ているのに、あたたかいとは言えない。
カケルは窓の外を見ながら、昨日より人の姿が少ないことに気づく。
「この辺まで来ると、村の外の守りが必要なんだね」
リアナも同じ方を見た。
「ええ。村に入る前に止めないと、被害が大きくなるもの」
ほどなくして馬車が止まり、一行は外へ降りた。
そこは街道沿いの小さな詰め所だった。頑丈な石積みではあるが、領都の建物と比べれば簡素な作りだ。壁際には乾かした薪が積まれ、横には馬をつなぐための柵がある。
辺境伯は詰め所を見上げ、それから近くに控えていた騎士へ視線を向けた。
「今冬の配置は」
「例年通り、夜明け前と日暮れ前を厚くしております。雪が深くなれば、さらに北側の詰め所からも人を回す手筈です」
「物資は」
「干し肉と豆は七日分、薪は十日分を確保済みです。補充は五日ごとに」
辺境伯は頷き、建物の中へ入っていく。カケルたちも続いた。
中は外見より狭かったが、必要なものは整っていた。地図、予備の槍、毛布、水桶、乾いた薪。数は多くない。だが、ここで数日踏ん張ることを前提に揃えられているのがわかる。
辺境伯は壁に掛けられた地図の前で止まった。
「ここは街道と森の境だ。雪が深くなると、動ける道は限られる」
そう言いながら、指先で地図の上をなぞる。
「この道が塞がれれば、村へ向かう荷は遅れる。騎士の動きも鈍る。だから先に位置を決めておく」
カケルはその線を目で追った。
「動ける道が少なくなるんですね」
「ああ。だから一度乱れると、立て直しが遅れる」
辺境伯は振り返り、今度はリアナを見る。
「昨日見た村の柵も、備蓄も、それだけでは足りん。支える場所があっても、動く者が届かなければ意味がない」
「はい」
リアナはまっすぐ答えた。
詰め所を出たあと、一行はさらにいくつかの見張り場を回った。見通しの利く場所もあれば、森が近くて空気の重い場所もある。辺境伯はそれぞれで足を止め、配置、備え、見通しを確認していった。
途中、街道の脇に深い轍が残っている場所で辺境伯が馬を止める。
「ここは荷車が嵌まりやすい」
騎士の一人がすぐに答えた。
「はい。例年、補助の板を置いて対応しています」
「今年は先に置いておけ。止まってからでは遅い」
「承知しました」
また別の場所では、森へ入る細い道の脇に折れた木がそのまま残されていた。辺境伯は一目でそれに気づく。
「これはなぜ残っている」
「申し訳ありません。昨夜、雪の重みで折れたものです。今日の午後には」
「午前のうちに片づけろ」
「はっ」
辺境伯の指示は簡潔で、迷いがない。
昼を少し過ぎた頃、一行は森の手前にある開けた場所へ着いた。ここは昨日見た高台よりさらに森に近い。それでも中へ入るわけではなく、あくまで外縁を見ている。
辺境伯は森を見たまま言った。
「ここから先は、騎士でも動きが落ちる。だが、向こうは違う」
カケルは木々の間を見つめた。静かだ。静かすぎて、何かが潜んでいてもおかしくないと思わせる。
「スノーグリズリーは、どういうふうに下りてくるんですか」
カケルがそう聞くと、辺境伯は少し間を置いて答えた。
「一頭ずつ様子を見る時もある。だが、厄介なのは群れだ。押し切れると見れば、そのまま下りてくる」
「村の柵に集まると、かなり危ないですね」
「ああ。だから騎士は一か所に固まって待つわけにはいかん。見張りで早く気づき、出る場所を絞り、受ける位置を決める」
リアナが森を見たまま口を開く。
「追い返すだけでは駄目なのですね」
「押し返せても、やつらはまた来る」
辺境伯の声は平坦だった。
「削り、崩し、村側へ回る前に止めねばならん」
その後も一行は、騎士が集まる場所、村へ戻るための道、援軍を回しやすい位置を順に見て回った。
やがて日が傾き始めた頃、辺境伯は最後に街道脇の広い空き地で足を止めた。見覚えのある場所だった。
狩猟会が行われた森の外れだ。カケルがわずかに目を上げると、辺境伯がそれに気づいたように言う。
「覚えているか」
「はい。狩猟会の場所ですよね」
「ああ」
辺境伯はそのまま森のほうへ目を向けた。
「我が騎士団は強い。だが、それでもスノーグリズリーの群れ相手には苦戦する。個の力が足りぬとは思わん。だが、それだけでは拾いきれぬ場面があるのもまた確かなのだ」
カケルは黙って聞いた。
リアナも顔を上げる。
「お前の召喚獣の動きは、あの時見た」
辺境伯はそこで初めてカケルを見た。
「我が騎士団に、召喚獣の連携とやらを教えろ」
風が吹き、乾いた土の匂いがわずかに立つ。
カケルは一度だけ息をついた。
「俺でよければ」
「お前でなければ意味がない」
辺境伯の返答は早い。
「狩猟会で見たのは、召喚獣の数でも珍しさでもない。どう動かしていたかだ」
リアナが、少しだけ驚いた顔で父を見る。
辺境伯は娘へ視線を移した。
「お前も参加しろ。見て終わるな」
「……はい」
「場所はこの森でいい。地形はすでに見ている。明日から騎士団を出す」
周囲の騎士たちも、異を唱える者はいない。ただ、その表情にはわずかな緊張があった。
それも無理はない。カケル自身、まさか辺境伯家の騎士団に教えることになるとは思っていなかった。
「師匠」
小さく呼ばれ、カケルは隣を見る。リアナはまっすぐ前を見たまま、でも口元だけ少し引き締めていた。
「忙しくなるわね」
「そうだね」
答えた声は自然とやわらかくなった。
「でも、やるしかないかな」
辺境伯はそんな二人を一瞥すると、短く告げた。
「今日は戻る。準備をしておけ」
「はい」
カケルとリアナが頷くと、一行は辺境伯邸への帰路についた。
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