第1話
特にこの季節、ゲートタウンの空は、分厚い雲に覆われていることが大半だ。
窓枠にはめ殺しにされたくすんだガラス越しでは、それが雨雲なのか、あるいはアビスから吐き出される超微細粒子による薄靄なのか判然としない。
旧ショッピングセンターでの教団『弥生の理』による騒ぎ――日和という少女の奪還劇から数日が経過していた。
片桐の事務所には、いつになく重苦しく、そして静かな空気が澱んでいる。
片桐は使い古された革張りのソファに深く腰を沈め、グラスの底に残った安いウィスキーを回している。
アルコールが食道から胃へと落ちていく熱さで、肋骨周りに巻かれた包帯の下で疼く鈍い痛みを強引に誤魔化す。
オオサキとの立ち回りで受けた深い指痕による痛みは、数日程度で引くような甘いものではない。
ふと視線を向けると、部屋の隅には高級な生地をすっかりヨレヨレにしてしまったスーツ姿の男が膝を抱えていた。
有坂律である。
イリス・キャピタルの御曹司でありながら、不正取引データを持ち出し、戸籍上死んだことになっている男。
数日前の騒動で、彼は片桐の合図によって勢い任せに会場に乱入し、自身の生存を教団の御奉賛たちに露呈させてしまった可能性がある。
結果として、彼はこの数日というもの、片桐の事務所から一歩も外に出られない状態が続いている。
「……また、外に誰か……いますね。今度こそ、教団の人達が報復に……いや、あるいは父に雇われて僕を連れ戻しにきた人とか……」
有坂は、窓の外から微かに聞こえる物音にいちいち肩をビクつかせ、虚ろな目で虚空を見つめていた。
これまで明確な害意を向けられることのなかった彼にとって、今の状況は想像以上に精神をすり減らすものらしい。
「落ち着くんだ、有坂くん」
片桐はグラスを置き、静かに声をかけた。
「君の素性がバレたと決まったわけじゃない」
それに、と片桐は言葉を切ると、グラスにウィスキーを注いだ。
「外のあれはスクレイパー同士のちょっとした諍いだ。この街じゃ、珍しくもない。教団の連中だって、自分たちのやってきたことが公になるリスクを冒してまで、こんなところまで大々的に人を差し向けたりはしないよ」
片桐の言葉に有坂は小さく頷くものの、その怯えは完全に収まってはいない。
実際、窓の隙間から漏れ聞こえてくるのは、路地裏で何かを奪い合っているらしき下品な罵声だった。
だが、その怒鳴り合いに混じって、奇妙な会話の断片が片桐の耳を撫でる。
『……だから言ってんだろ!昨日の夜、『外』から戻ってくるときによ、何かすげえでかいのが這いずる音がしたんだよ!』
『大げさなんだよ。どうせ「這う者」だろ?お前はビビリだからよ。それより俺は一昨日の夜に『外』で変な匂いを嗅いだぜ。腐ったみたいな臭いでよ……』
それこそ魔物どもはみんな臭えだろ、ともう一人のスクレイパーが馬鹿笑いする。
普通なら誰も気に留めない、酔っ払いが話すような下らない噂話だ。
だが、片桐だけはその言葉の裏にある「真実」に気づいている。
ゲートタウンの『外』、等活で起きている些細な変化。
(――いずれ近いうちに、騒ぎになるかもしれないな)
誰も直接は見ていない。
見た者はすでに呑み込まれているのだろう。
痕跡と、わずかな匂いだけが人々の間で『今』を楽しませるだけの噂話として消費されている。
片桐はグラスの氷をカラリと鳴らし、思考を現実の事務所へと引き戻した。
ガチャリ、と玄関のドアノブが回る音がした。
有坂が弾かれたように顔を上げ、次の瞬間安堵のため息をつく。
ドアの隙間から現れたのは、泥だらけの安物のスニーカーを履いた少年、シンだった。
「よっ。買って来てやったぜ。水と、トイレットペーパーと、あと適当な弁当。ほら、ちゃんと人数分あるから安心しろよ」
そう言って数えた弁当には、ちゃっかりシンの分も含まれていた。
有坂は大きく息を吐いて立ち上がり、水を持ってまた同じ場所へと座る。
現在、この事務所の兵站を維持しているのは、この生意気な少年である。
教団にマークされるほど目立つことなくゲートタウンで生きてきたシンは、今の片桐たちにとって唯一、自由に外を動ける存在だった。
「すまない。助かるよ」
「へへっ、いいってことよ。日和を助けてくれたお礼だからな。これくらい安いもんだ」
シンはニカッと屈託のない笑みを浮かべ、買ってきた物資をテーブルに並べていく。
教団の裏側を知ったはずだが、彼が必要以上に重く受け止めている様子はない。
ストリートで生きる子供特有の、嫌なことはさっさと切り替えて今日を生き抜くという逞しさがそこにはあった。
「……ごめんね、シン君。君にまで、こんな危ないお使いをさせてしまって」
有坂が申し訳なさそうに身を縮めて言うと、シンは不思議そうな顔で振り返った。
「危ない?何言ってんだよ、ただの買い出しだぜ。ここらの連中は俺のことなんか空気みたいに気にしてねえし。それに、あの教団の奴らも今日は大人しかったぞ。なんか、壊れた配管の修理をボランティアでやっててさ。おばあちゃんたちが『ありがとう』って手合わせてたよ」
シンの言葉に、有坂は複雑な表情を浮かべた。
自分たちの命を狙っているかもしれない組織が、片方では貧しい人々のインフラを修理して感謝されている。
この歪な二面性に、彼の常識は処理が追いつかないらしい。
片桐はグラスを置き、膝を抱える有坂を静かに見やった。
(――このまま部屋にこもって考え込ませていても、いいことはないな)
元の世界の常識で測ろうとするから、思考が袋小路に入る。
必要なのは、狭い部屋の隅でこれまでの理屈をこね回すことではない。
この街で生き残るために、今の自分に何ができて何ができないのか、その現在地を体に分からせ、新しい理屈を植え付けてやる必要がある。
片桐は短く息を吐いた。
「シン。俺と有坂くんは少し出るから、君は休んでいてくれ」
片桐はソファからゆっくりと立ち上がり、首の骨を鳴らした。
ウィスキーのアルコールが回ったのか、少しだけ痛みが遠退いている。
有坂を見下ろし、穏やかな口調で提案した。
「有坂くん。こうしてずっと部屋に引きこもっているのも気が滅入るだろう。少し外の空気を吸おう。裏の庭に行こうか」
「え、外!?ダメですよ、もし誰かに見られたら……!」
「大丈夫だ。うちの裏庭は高いトタン塀に囲まれてるから、外からは見えない。ちょっと身体を動かすだけだ」
半ば強制的に促され、有坂はしぶしぶ立ち上がった。




