最終話「穏やかな日常」
柔らかな陽射しがカーテンの隙間から差し込み、閉じた瞼を優しく照らしていた。
「翔、朝よ」
聞き慣れた澪の声が耳へ届く。
ゆっくりと目を開け、見慣れた天井をぼんやりと見つめた。
「……朝、か」
身体を起こし、小さく息を吐く。
「ほら、朝ご飯できてるから。顔洗ってきなさい」
「……分かった」
ベッドから降り、部屋を出ようとしたところで、ふと足が止まる。
いつもなら、この辺りで――。
「……」
静かな朝だった。
聞こえるのは、窓の外でさえずる鳥の声と、階下から漂ってくる朝食の香りだけ。
胸へそっと手を添える。
「あいつら……」
あの戦い以来、一度も声は聞こえていない。
それでも、不思議と寂しさはなかった。
きっと今も、俺の中にいる。
そんな気がしていたからだ。
「翔ー?どうしたの?」
階下から澪の声が聞こえてくる。
「ああ、今行く」
自然と口元が緩むと、洗面所へ向かって歩き出した。
洗面所へ入り、蛇口を捻る。
冷たい水で顔を洗い、顔を上げる。
鏡の向こうには、少しだけ大人びた自分が映っていた。
「……」
冷たい水が頬を伝うと、不意にあの日の光景が脳裏へ蘇る。
戦いを終え、施設を脱出した俺を迎えに来たのは、レイヴンの操縦するヘリだった。
機体へ乗り込むと、そこには澪がいた。
目が合った瞬間、澪は涙を浮かべながら俺へ抱きついてきた。
「よかった……本当に、よかった」
何も言えなかった。
ただ、その温もりを確かめるように抱き返した。
窓の外では、戦いの舞台となった施設が少しずつ遠ざかっていく。
あの景色を見た時、ようやく終わったのだと実感した。
タオルで顔を拭きながらリビングへ入ると、食卓には湯気の立つ朝食が並んでいた。
「ほら、冷めちゃうわよ」
エプロン姿の澪が笑顔で椅子に座り、俺も向かい合って座る。
「ああ。いただきます」
「はい、召し上がれ。」
しばらくは箸の音だけが部屋へ響く。
以前なら、この食卓はもっと賑やかだった。
誰かが文句を言い、誰かが笑い、誰かが呆れ、そんな声が頭の中を飛び交っていた。
今は、その声は聞こえない。
「……どうしたの?」
澪が不思議そうに首を傾げる。
「いや。なんでもない」
肩の力を抜くように息をついた。
澪もそれ以上は聞かず、優しく微笑み返した。
「そういえば、今日は買い物に付き合ってくれない?」
「買い物?」
「冷蔵庫、ほとんど空っぽなのよ。昨日で使い切っちゃってね。今日買い足そうと思って」
頷きながら立ち上がる。
「分かった。行こう」
「ありがとう」
澪は嬉しそうに笑うと、テーブルの上に置いてあったエコバッグを手に取った。
◇ ◇ ◇
スーパーで買い物を終えた俺達は、両手いっぱいの買い物袋を提げて店を後にした。
休日ということもあってか、大通りには多くの人が行き交っている。
「あちゃー……」
澪が苦笑しながら人混みを見つめた。
「結構混んでるな」
「この時間帯はいつもこんな感じなのよ」
澪は少し考えるように辺りを見回すと、不意に俺へ視線を向けた。
「住宅街を抜ける道、覚えてる?」
「住宅街?」
「うん。少しだけ近道になるのよ。人も少ないし、そっちから帰りましょう」
「分かった」
俺達は大通りを離れ、静かな住宅街へ足を踏み入れた。
賑やかだった街の喧騒は次第に遠ざかり、聞こえるのは風に揺れる木々の音だけ。
その静けさの中を歩いていると――。
「……こんにちわ。澪さん、翔君」
聞き覚えのある落ち着いた声が、前方から聞こえてきた。
黒いジャケットに濃紺のジーンズ。
どこにでもいる会社員のような、ごく普通の服装だった。
しかし、その顔を見た瞬間、思わず目を見開く。
「……アンタは、御堂!?」
その声に反応するように、澪が素早く俺の前へ立った。
買い物袋を持ったまま、それでも俺を庇うように両腕を広げる。
「アンタ……!翔は渡さないわよ!」
澪は鋭い眼差しで御堂を睨みつける。
御堂はその言葉を聞くと、困ったように肩を竦め、小さく息を漏らした。
敵意がないことを示すように両手をゆっくりと上げる。
「そんなに警戒しないでください。もう翔君をどうこうするつもりはありませんから」
澪は少しも気を緩めない。
御堂から目を離さないまま、一歩も退かずに問い掛けた。
「……じゃあ、何の用?」
「何、ちょっとした世間話ですよ」
御堂は澪の警戒した視線を受け止めながらも、表情を変えることなく口を開いた。
「まずは、ご安心ください。プロジェクト・キメラは、もう終わりました。」
「……終わった?」
俺が問い返すと、御堂は頷く。
「あの戦いの直後、NAB査察部門が施設へ介入してきました」
「プロジェクト・キメラへ関与していた強硬派、観測派の研究員達。そして最高責任者、一条蓮司は全員確保されています」
その言葉を聞き、胸の奥で張り詰めていた何かがほどけていく。
もう、あの悪夢が繰り返されることはない。
「そのため、プロジェクト・キメラの続行は事実上不可能となりました」
「……一条は」
短く尋ねる。
御堂は一瞬だけ目を伏せ、息を吐いた。
「まともに会話ができる状態ではないそうです。常に何かへ怯え、謝罪を繰り返しているとか」
「……そうか」
当然だ。
そうなるようにしたのだから。
御堂は俺の表情を見つめると、話を続けた。
「もっとも、その場に私がいた訳ではありません。私は事態を察知し、査察部門が到着する前に密かに施設を後にしましたから。今や、私も追われる身です」
改めて御堂の服装へ目を向ける。
人混みへ紛れてしまえば、誰もNABの人間だとは気付かないだろう。
「だから、そんな格好をしてるのか」
「ええ。案外、似合っているでしょう?」
御堂はそう言うと、自分のジャケットを軽く広げて見せた。
そして、ふと思い出したように口を開いた。
「ああ、そうそう。被検体R-02――朝倉凛についてですが」
その名前を聞いた瞬間、思わず表情を引き締める。
「彼女なら、ちゃんと解放しました。現在は病院で療養中です」
「……本当だろうな?」
俺が鋭く睨むと、御堂は胸ポケットへ手を入れ、一枚のメモを取り出した。
「疑うのでしたら、ご自身の目で確かめてください」
そう言って差し出されたメモには、病院の名前と住所が丁寧な字で書かれている。
「ここへ行けば、彼女に会えますよ」
無言のままメモを受け取った。
それを見つめる俺へ、御堂は穏やかな口調で続ける。
「少なくとも、彼女はもう被検体ではありません。一人の少女として、新しい人生を歩み始めています」
胸の奥に残っていた僅かな引っ掛かりが、ようやく消えた気がした。
「……そうか」
「それと、翔君」
「……なんだ?」
俺が問い返すと、御堂は眼鏡の奥からじっと俺を見つめた。
その視線は、これまで何度も向けられてきた研究者としての冷たい観察の目とはどこか違っていた。
まるで、一人の人間の成長を確かめるような、穏やかな眼差しだった。
「……なんだか、雰囲気が変わりましたね」
突然そんなことを言われ、思わず困惑する。
「そうか?自分じゃ、どこも変わってないと思うけどな」
御堂は首を横へ振った。
「いいえ。私は長い間、君を観測し続けてきました。人格の変化も、能力の変化も、そして君自身の心の変化も。だからこそ分かるのです。今の君は、あの頃とはまるで別人ですよ」
その言葉を聞き、隣にいた澪が一歩前へ出る。
「また翔を観測する気?」
警戒を滲ませたその声に、御堂は困ったように眉を下げ、小さく笑った。
「おっと、失礼。どうも長年の癖は、そう簡単には抜けないようですね」
そう言って一度だけ頭を下げる。
その仕草には、以前のような余裕や皮肉は感じられなかった。
御堂は改めて俺達二人へ向き直る。
しばらく何かを考えるように黙っていたが、やがて柔らかな笑みを浮かべると、穏やかに口を開いた。
「それでは、お二方。私がこんなことを言うのも、おかしな話ですが――どうか、末永く平穏に」
その言葉を最後に、御堂は俺達へ背を向けた。
住宅街の静かな道を歩いていく後ろ姿は、どこか肩の荷が下りたようにも見える。
やがて角を曲がると、その姿は街並みの向こうへ消えていった。
しばらくその方向を見つめていたが、やがて視線を澪へ移す。
「……行こうか」
「あ、うん」
俺達は再び歩き出した。
◇ ◇ ◇
帰り道の途中、ふと足を止めた。
「……澪」
「ん?どうしたの?」
「あそこの公園、少し寄っていかないか」
澪は俺の視線を辿り、小さな公園へ目を向ける。
「ふふっ、いいわよ」
俺達は園内へ入り、空いていたベンチへ腰を下ろした。
柔らかな陽射しが公園を包み込み、子ども達の楽しそうな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
そして何気なく辺りを見渡していると、一組の家族が目に入った。
父親が幼い子どもを肩車し、その隣では母親が楽しそうに笑っている。
子どもは父親の頭の上ではしゃぎながら、無邪気な笑い声を公園へ響かせていた。
気付けば、その光景へ見入っていた。
「……翔?」
隣から澪の声が聞こえる。
視線を家族から外さないまま、小さく呟いた。
「いや……あれが、家族ってやつなのかなって」
その光景を見ていると、胸の奥が少しだけ締め付けられる。
もう父さんと母さんに会うことはできない。
それでも、不思議と後悔はなかった。
あの二人とは、それぞれ自分なりの答えを見つけられたのだから。
「何言ってるのよ、翔」
澪がくすりと笑いながら俺の顔を覗き込む。
「私達も、家族でしょ?」
その言葉に、思わず目を見開いた。
「ああ……そうだな」
自然と頬が緩んだ。
気付けば、胸の奥に残っていた小さな寂しさも、いつの間にか温かな何かへと変わっていた。
ベンチへ深く腰掛け直し、空を見上げる。
青く澄み渡った空が、どこまでも広がっていた。
その時だった。
『えへへ……翔、よかったね』
「……っ!」
不意に、頭の中へ柔らかな声が響いた。
聞き間違えるはずがない。
何度も、何度も俺を支えてくれた声。
「……僕?」
思わず立ち上がる。
鼓動が一気に早くなる。
まさか、そんなはずは――。
「どうしたの?」
突然立ち上がった俺を見て、澪が不思議そうに首を傾げた。
震える声で呟く。
「今……声が、聞こえた」
『ようやくティータイムの時間が取れますわね』
「!?」
聞こえてきたのは、お嬢の気品ある声だった。
『本を嗜むのも、悪くありませんよ?』
賢者の穏やかで落ち着いた声が続く。
『おいおい、それより身体動かそうぜ!』
『ククッ……どこか面白い事件とか起きてないかな?』
次々と聞こえてくる、聞き慣れた声。
そのどれもが、もう二度と聞けないと思っていた声だった。
「お前ら……!」
思わず笑みがこぼれる。
胸の奥が熱くなり、視界が少しだけ滲んだ。
「もしかして……人格たち?」
隣で俺の様子を見ていた澪が、何かを察したように口を開く。
「ああ!」
嬉しさを隠しきれないまま何度も頷く。
「でも、お前ら……消えたんじゃ……」
『あ?何言ってんだ?』
戦闘狂が呆れたように鼻で笑う。
『わたくし達が、そう簡単に消える訳ありませんわ』
お嬢はどこか誇らしげに言い放つ。
『肉体は失いましたがね』
賢者が冷静に付け加える。
『ククッ……そういう訳だからさ。せいぜい、ボクらを愉しませなよ?』
悪の権化がいつものように楽しそうな笑みを浮かべる気配がした。
『えへへ。また、よろしくね。翔』
最後に聞こえてきたのは、僕の優しい声だった。
「ふふっ……また、賑やかになりそうね」
澪はそんな俺を見つめながら、どこか安心したように微笑む。
頭の中では、早速戦闘狂と悪の権化が言い合いを始め、お嬢が呆れたようにため息をつき、賢者が静かにたしなめている。
そして僕は、いつものようにおろおろしながら仲裁に入っていた。
「……まったく。これじゃ、静かな毎日は当分来そうにないな」
澪と顔を見合わせ、俺達は自然と笑い合った。
それでも――。
そんな毎日も、悪くないと思えた。
ここまで『五つの人格を宿す俺は、秘密組織に狙われている』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
翔の物語は、これにて完結です。
ここまで長い旅となりましたが、一話でも楽しんでいただけたなら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
この作品は、自分にとって挑戦の連続でした。
人格たちの掛け合い、戦闘、伏線、物語全体の構成……どれも今まで以上に悩みながら書いた作品です。
正直、途中で「難しいな」と立ち止まることも何度もありました。
それでも最後まで翔たちの物語を書き切れたのは、読んでくださった皆さまのおかげです。
また、感想や評価、ブックマーク、そして毎話読みに来てくださることが、執筆を続ける大きな励みになっていました。本当にありがとうございます。
この作品を書き終えた今は、大きな達成感と少しの寂しさがあります。
そして、次はまた自分らしい物語を書いていこうと思います。
本当にありがとうございました。
また次の物語で、お会いできたら嬉しいです。




