第40話「託された想い」
『……終わりました』
静かな声と共に、賢者の姿が淡い光へと溶けていき、身体の主導権が俺へと戻る。
荒く息を吐きながら焼け焦げた床を見つめる。
先ほどまで張り詰めていた緊張が一気に押し寄せ、全身から力が抜けそうになる。
「父さん!」
我に返った俺は弾かれるように振り向く。
少し離れた場所では、澪が倒れた父さんの身体を支えながら必死に呼び掛けていた。
「雅人さん!しっかりしてください!」
父さんの胸には、あの巨大な氷柱が深々と突き刺さったままだ。
白い氷は鮮血に染まり、その先端からは赤い雫が床へと滴り落ちている。
俺は駆け寄ろうと足を踏み出したその時、頭の中へ賢者の声が響いた。
『お待ちください』
「何だよ!」
『胸部を貫通しています。下手に氷柱を抜けば、大量出血を招く恐れがあります』
「じゃあ、炎で溶かせば……!」
焦るように言葉を返す俺へ、賢者は落ち着いた口調のまま続ける。
『それも推奨できません。氷柱が傷口を圧迫し、止血の役割を果たしている可能性があります。無理に溶かせば、一気に出血する危険があります』
「そんな……」
助けたい。
目の前で父さんが苦しんでいるのに、何もできない。
悔しさに拳を握り締める俺の隣で、澪は父さんの肩をそっと支えながら静かに呼び掛けた。
「雅人さん、聞こえますか?」
その声に応えるように、父さんの指先が僅かに震える。
「……っ!」
ゆっくりと瞼が開き、苦しげな呼吸の合間から、俺を見つめる視線が向けられた。
「……翔」
「父さん!」
俺は父さんの傍らへ膝をつく。
父さんは浅く息を繰り返しながら、震える唇を動かした。
「……聞け」
「喋るな!今助けるから!」
思わず父さんの肩へ手を伸ばす。
何かできることはないのか。
何でもいい。このまま目の前で死なせるなんて、そんなこと認められるはずがない。
だが――。
「……時間が、ない」
その一言が、その願いを打ち砕く。
苦しげに息を吐きながらも、父さんは俺を真っ直ぐ見据える。
「非常階段へ……行け」
「何言ってるんだよ!そんなことより父さんを運ぶ!まだ助かる!」
叫ぶ俺を見ても、父さんは首を横へ振るだけだった。
その動きはあまりにも弱々しく、見ているだけで胸が締め付けられる。
「屋上に……ヘリがある」
「……」
「脱出用だ」
短く区切られる言葉は、それだけで呼吸を削っているのが分かった。
「まだ……終わっていない」
「だからって!」
「ここへ残れば……全員、捕まるか、死ぬ」
父さんは苦しそうに息を吐きながら、それでも言葉を続ける。
「翔……お前は……生きろ」
その一言は、不思議なくらい静かだった。
命令でもない。
願いでもない。
父親が、息子へ託した最後の想いだった。
「嫌だ……」
喉の奥から絞り出すように声が漏れる。
「そんなの……嫌だ」
視界が滲む。
「せっかく、せっかく父さんと話せたんだぞ!」
ようやく再会し、ようやく分かり合えた。
それなのに、また失うなんて。
そんな結末、受け入れられるはずがない。
父さんは俺の言葉を受け止めるように、小さく笑った。
それは今日初めて見る、どこか穏やかな笑みだった。
「もっと早く……お前と、向き合うべきだった」
父さんは俺を見つめたまま、小さく息を吐いた。
その瞳から少しずつ光が失われ、身体から力が抜けていく。
「父さん……?」
返事はない。
胸がざわつく。
嫌な予感が全身を駆け巡った。
「父さん……!」
肩へ手を添え、何度も呼び掛ける。
それでも、父さんの瞳が再び俺を見ることはなかった。
「……雅人さん」
澪は震える声でその名を呼ぶと、父さんの頬へ手を添えた。
やがて、そっと瞼を閉じさせると、その手を胸元へ添え、深く目を伏せた。
「……翔」
俺の名前を呼ぶ澪の声は、確かに聞こえていた。
それでも、返事をすることはできなかった。
目の前の現実を受け止めきれず、俺はただ、動かなくなった父さんを見つめることしかできなかった。
ようやく、「父さん」と呼べるようになった。
それなのに――。
『ククッ……ねぇ、翔』
静まり返った意識の奥で、悪の権化の小さな笑い声が響いた。
「……っ」
聞き慣れたその声が、頭の中へ染み込んでくる。
『奪われちゃったねぇ。せっかく分かり合えたのに』
「……黙れ」
声を振り絞ってそう返す。
しかし、悪は楽しそうに笑うだけだった。
『悔しいよねぇ。憎いよねぇ。強硬派が、NABが、君から全部奪っていく』
「……」
何も言い返せない。
俺の沈黙を肯定と受け取ったように、悪はさらに甘く囁く。
『そんな奴等、許せないよねぇ。だからさ、もう我慢なんてしなくていい』
一拍置いて、その声はどこまでも優しく、そしてどこまでも禍々しく続く。
『全部、壊してしまおうよ』
胸の奥では、負の感情が渦巻いていた。
今すぐ強硬派を殺したい。
NABを壊したい。
そんな衝動が、確かにあった。
「……俺は憎い。父さんをこんな目に遭わせた奴らを、許せるわけがない」
『そうだろう?じゃあ――』
その言葉が続く前に、俺は拳を握り締めた。
「けれど、お前の思い通りにはならない!」
一瞬、静寂が訪れる。
やがて、頭の奥から感心したような声が響いた。
『……へぇ、まだ振り払える意志があるんだ』
短い沈黙の後、悪の権化は楽しげに笑う。
『ククッ……いいよ、翔。その憎しみが消えない限り、ボクはいつでも待ってる』
その言葉を最後に、頭の奥へ響いていた笑い声は静かに遠ざかっていった。
残されたのは、父さんを失った悲しみと、胸の奥で燻り続ける消えることのない憎しみだった。
「……翔、行きましょう」
澪の声が耳へ届く。
「……ああ」
小さく頷き、もう一度だけ父さんへ視線を向ける。
穏やかな表情のまま眠るその姿は、ついさっきまで言葉を交わしていた人とは思えなかった。
「……父さん。さよなら」
返事はない。
もう、その声に応えてくれることはない。
俺は名残を断ち切るように踵を返した。
その時だった。
『翔、少々身体をお借りしても?』
頭の中へ、賢者の落ち着いた声が響く。
「……何かあるのか?」
歩みを止めると、賢者は答えた。
『ええ。今のうちに済ませておきたいことがあります』
「……分かった。頼む」
意識を賢者へ委ねる。
身体が淡い光に包まれ、感覚が遠のいていく。
そして身体の主導権が賢者へと移っていった。
賢者は一歩前へ進むと、澪へ向き直る。
『澪さん、その生体モニターを外します』
「……できるの?」
澪は自らの手首へ視線を落とす。
生体モニターは、観測派が俺達の行動を制限するために取り付けた拘束具だった。
『ええ。今までは彼らの監視下でしたので、迂闊に手を出すことはできませんでした』
賢者は生体モニターへ視線を向けたまま続ける。
『ですが、この状況は彼らにとっても完全に想定外です。監視網も混乱しているでしょう。解析するには、これ以上ない機会です』
賢者は右手を差し出した。
掌へ淡い蒼白の光が灯り、生体モニターを包み込んでいく。
『……解析開始』
青白い魔法陣が幾重にも展開され、その光が生体モニターの表面を走っていく。
内部構造を一つずつ読み解くように、賢者は目を閉じた。
複雑に組み上げられた電子回路。
幾重にも施されたロック機構。
その一つ一つを読み解くように、賢者は微かに眉を寄せた。
『……なるほど。観測派らしい、実に慎重な設計です』
指先が生体モニターの表面をなぞる。
魔法陣の光が一瞬だけ強く輝き、内部を流れていた青白い光が収束していった。
『解析、完了』
カチッ。
乾いた電子音と共に、生体モニターのロックが解除され、黒銀色の輪が開いていく。
「……外れた」
澪は驚いたように自分の手首を見つめる。
赤く残った装着跡をそっと撫でると、小さく息を吐いた。
賢者は床へ落ちた生体モニターへ視線を向ける。
『これでもう、貴女を縛るものはありません』
「……ありがとう、賢者」
『礼には及びません。これは、私にできる当然のことです』
賢者の身体が淡い光となって消え、再び主導権が俺へと戻る。
「……行こう」
廊下へ出ると、そこには少女に倒された観測派の黒服達が何人も横たわっていた。
壁にも床にも氷柱が突き刺さり、戦闘の激しさを物語っている。
誰一人として動く者はいない。
俺はその光景を一瞥すると、父さんから聞いた非常階段へ足を向けた。
重い鉄扉へ手を掛ける。
ギィ……
鈍い音を立てて扉が開いた、その瞬間だった。
「目標を確認!」
フロアの奥から鋭い怒号が響く。
振り返ると、廊下の向こうには、武器を構えた強硬派の兵士達が雪崩れ込んできていた。
「逃がすな!」
「屋上へ向かわせるな!」
「追え!」
俺は咄嗟に澪の手を掴んだ。
「行くぞ!」
「ええ!」
俺達は非常階段へ飛び込み、そのまま屋上へ向かって駆け出した。
非常階段を駆け上がり、最後の鉄扉を押し開ける。
屋上へ飛び出した俺達の目に飛び込んできたのは――。
一機のヘリコプターだった。
「……あれだ!」
俺は澪の手を引き、そのままヘリへ駆け出した。
勢いよくドアを開け、二人で機内へ飛び込む。
「よぉ、お二人さん!また逢えたな!」
聞き覚えのある陽気な声が操縦席から響く。
「レイヴン……!?」
「あなた、どうしてここに……!」
俺と澪が驚きの表情を浮かべる中、レイヴンは振り返ってニヤリと笑う。
「話はあとだ。今はここを離れるぜ!」
そう言うと操縦桿を力強く握り込む。
ローターの回転音が一段と大きくなり、ヘリはゆっくりと浮かび上がった。
「目標発見!」
窓の外を見ると、屋上へ強硬派の兵士達が次々と現れ、一斉にこちらへ銃口を向けていた。
「撃てッ!」
乾いた銃声が空へ響く。
無数の銃弾がヘリの周囲を掠め、火花を散らす。
レイヴンは小さく舌打ちすると、操縦桿を素早く引いた。
「舌噛むなよ!」
エンジンが唸りを上げ、ヘリは一気に高度を上げていく。
屋上に取り残された強硬派の兵士達がなおも銃撃を続けていた。
しかし、やがて屋上は遠ざかり、強硬派の兵士達の姿も小さくなっていった。
◇ ◇ ◇
ヘリはホテルから十分な距離を取り、高層ビル群の上空を安定して飛行していた。
機体を揺らしていた振動も徐々に落ち着き、耳を支配していた銃声は、いつしかローター音だけへと変わっていた。
操縦桿を握り続けていたレイヴンは、前方を見据えたまま大きく息を吐く。
張り詰めていた肩から力が抜け、その表情にもようやく安堵の色が浮かんだ。
「ふぅ~……危なかったぜ」
心底ほっとしたような声だった。
俺も窓の外へ視線を向ける。
父さんが眠るホテルはもう遠く、小さく街並みに紛れていた。
「……」
俺はその景色を見つめることしかできなかった。
そんな静寂を破るように、澪が操縦席へ向けて静かに口を開く。
「ねぇ、レイヴン」
「あ?」
「まさか、雅人さんが言っていた"裏の人間"って……」
レイヴンは前を向いたまま、小さく笑う。
「ご明察。いやぁ、世の中は狭いもんだねぇ」
軽口のような返事だった。
けれど、その言葉を聞いても俺の胸は少しも軽くならない。
「……父さん」
無意識に零れたその一言に、機内の空気が静まり返る。
「その様子じゃ、雅人の旦那は」
俺は何も答えず、小さく頷く。
「……そうか」
いつもの飄々とした笑みは、そこにはなかった。
雅人という男の最期を受け止めるように、レイヴンはしばらく前だけを見つめ続けていた。
しばらくの沈黙の後、レイヴンが前を向いたまま口を開いた。
「で、お二人さん。これからどこへ向かう?」
「……」
俺も澪も答えられない。
追われる身であることに変わりはない。
逃げ切ったとしても、また次の追手が現れるだけだ。
そんな重苦しい空気の中、澪が答えた。
「どこでもいいわ。安全な場所なら」
レイヴンは困ったように肩を竦める。
「そいつぁ難しい相談だな。奴等はそう簡単に諦めねぇぞ?」
その言葉が胸に刺さる。
安全な場所。
そんなものが、本当にあるのだろうか。
父さんは命を懸けて俺をここまで逃がしてくれた。
このまま逃げ続けるだけで、本当にいいのか。
「……だったら」
小さく呟いたその声に、澪がこちらを見る。
「翔?」
「だったら、NAB日本支部へ向かってくれ」
僕『翔……本当に、行くんだね』
お嬢『ここまで来た以上、もう後戻りはできませんわ』
賢者『ですが、私達の力もこれまで通りとは限りません。くれぐれも油断なさらぬよう』
戦闘狂『シャアッ!関係ねぇ!戦えるうちに暴れまくってやるぜ!』
悪の権化『ククッ……さぁ、最後まで君の綺麗事を貫けるかな?』
翔「……ああ。何が待っていても、俺はもう逃げない」
翔「次回、『決戦の地へ』――俺達の手で、すべてを終わらせる」




