第23話「閉ざされた門」
部屋の中は静かだった。
向かい合う二つのベッドに、小さな机と棚だけが置かれた質素な空間は、どこか宿舎の一室のようにも見える。
けれど、その妙に整いすぎた空気が、逆に落ち着かなかった。
窓の外は既に夜の闇へ沈んでいる。
時折、遠くの廊下から微かな足音や話し声が聞こえてくるものの、それも長くは続かない。
静寂が戻るたびに、この巨大な教団施設の中へ閉じ込められているような感覚だけが強くなっていく。
俺はベッドへ浅く腰掛けたまま、小さく息を吐いた。
明かりを落とした室内は薄暗く、天井の照明だけが淡く白い光を落としている。
「……落ち着かないわね」
壁へ寄りかかっていた澪が、小さく呟く。
その声は普段通り落ち着いていたが、完全に平静という訳でもないらしい。
窓の外へ向けられている視線には、どこか張り詰めたものが滲んでいた。
「まぁな……」
俺も短く返しながら、ゆっくりと天井を見上げる。
月に一度の定例集会へ、俺の母親である詩織が現れる。
そう聞かされても、未だに実感は薄かった。
期待なのか、不安なのか、自分でも上手く整理できない感情だった。
『……緊張してる?』
頭の奥で、僕が不安そうに問いかけてくる。
怯えるような、小さな声だった。
「……してない、とは言えないな」
素直にそう返すと、僕は少しだけ黙り込む。
その沈黙は、俺自身が抱えている不安を代弁しているみたいだった。
『チッ。んなもん、会ってから考えりゃいいだろ』
空気を断ち切るように、戦闘狂が吐き捨てる。
相変わらず単純というか、勢いだけというか。
けれど、その雑なくらい真っ直ぐな物言いに、ほんの少しだけ肩の力が抜けそうになる。
『……ですけど、“母親”として会えるとは限りませんわ』
続いたお嬢の声は、珍しく静かだった。
その一言に、胸の奥がわずかにざわつく。
『仰る通りです。そして問題は、詩織が翔を覚えているかどうかです』
その直後に賢者の冷静な声が響いた。
「そんなこと……ありえなくはないか」
自分で口にしてから、その言葉が妙に現実味を帯びて胸へ沈んだ。
向こうにとって、俺は突然現れた“息子を名乗る何か”でしかない可能性だってある。
『それに、我々が記憶している彼女と異なる可能性も否めません』
「……異なる?」
眉をひそめながら問い返すと、賢者は淡々と続けた。
『人は変化します。まして、福音の門という巨大組織の頂点に立つ存在です』
教団の象徴である、大司教。
それはもう、“普通の母親”なんて言葉で表せる存在じゃないのかもしれない。
『ククッ……再会ってさ、“会えたら幸せ”とは限らないんだよ?』
悪の権化が愉しそうに笑う。
その声音だけが妙に軽く、この空気の中で不自然に浮いて聞こえた。
「縁起でもねぇこと言うな……」
小さく吐き捨てた、その時だった。
――ゴォン……
腹の奥へ響くような重低音が、建物全体へ静かに響き渡った。
巨大な施設そのものがゆっくりと目を覚ましたかのように、重々しい余韻が空気の中へ広がっていく。
鐘の音は一度では終わらない。
一定の間隔を空けながら繰り返し鳴り響き、その度に静まり返っていた教団内部へ僅かなざわめきが生まれていく。
部屋の外からは、次第に人の気配が増え始めていた。
柔らかな絨毯を踏みしめる足音や小さく交わされる信徒達の声が聞こえる。
それらが静かな波のように廊下を流れていく。
昼間はどこか停滞していたこの場所が、集会の時間を迎えたことでゆっくりと動き始めている――そんな感覚があった。
「……集会の時間」
俺が小さく呟くと、澪は窓の外へ視線を向けたまま静かに頷いた。
「ええ。信徒達が礼拝堂へ集まり始めてる」
その声音は落ち着いていたが、完全に平静という訳ではないらしい。
コンコン。
ふとノック音が部屋へ響いた。
「……どうぞ」
澪が短く返すと、ゆっくりと扉が開く。
姿を見せたのは、昼間俺達を案内していた観測派の女だった。
相変わらず感情を大きく表へ出さない穏やかな表情。
だが、昼間よりも僅かに空気が張り詰めて見える。
「集会が始まります。信徒達は既に礼拝堂へ集まり始めています。お二人もこちらへ」
その一言で、部屋の空気がわずかに引き締まった。
言葉と共に、廊下の向こうから再び鐘の音が響いてきた。
◇ ◇ ◇
礼拝堂の後方へ並ぶ長椅子へ腰を下ろしながら、俺は改めて周囲へ視線を巡らせた。
内部は既にかなりの人数で埋まり始めている。
だが、不思議なほど騒がしさはなかった。
信徒達は皆、小声で会話を交わすか、静かに祈りを捧げるように前方を見つめている。
時折、ステンドグラス越しの淡い光が揺れ、無数の蝋燭の灯りと混ざり合いながら、礼拝堂全体へどこか幻想的な色彩を落としていた。
その穏やかな空気の中へ混ざるように、異能の気配も自然と存在している。
長椅子へ座ったまま、掌の上へ小さな火を灯している少年。
隣では、半透明の影のような存在を連れた女性が静かに祈りを捧げていた。
誰も驚かない。誰も恐れない。
それがこの場所における“普通”なのだと、嫌でも理解させられる。
「……変な場所だな」
思わず小さく呟くと、隣に座る澪が前を向いたまま静かに答えた。
「異能者や人格保持者にとっては、貴重な居場所なんでしょうね」
その声には複雑な響きが混じっていた。
完全に否定することもできない。
けれど、素直に肯定もできない。
そんな感情が滲んでいる気がした。
俺は小さく息を吐きながら、再び礼拝堂の中へ視線を巡らせる。
前方では、白い法衣を纏った信徒達が静かに動き回っていた。
集会の準備をしているのだろうか。
聖壇付近へ蝋燭を並べたり、長椅子の位置を微調整したりと、慣れた様子で動いている。
その光景を見ているうちに、ここが単なる“怪しい宗教施設”ではなく、一つの社会として成立していることを少しずつ実感し始めていた。
『……なんか、普通だね』
僕がぽつりと呟く。
その声音には、戸惑いと安堵が半分ずつ混ざっていた。
『ですが、表面的な空気だけで判断するのは危険です』
賢者の冷静な声が頭の奥で響く。
『ふふっ……ですけど、嫌いではありませんわ。こういう“緊張感”』
お嬢がどこか楽しげに笑う。
その声音には怯えも警戒も薄く、むしろ舞台の幕が上がる直前を楽しむ観客みたいな余裕すら感じられた。
『チッ……オレは嫌いだ。静かすぎて落ち着かねぇ。今にも暴れそうな空気の方が、まだ分かりやすいぜ』
戦闘狂が不満そうに鼻を鳴らす。
「お前は本当に戦闘基準でしか物事見てねぇな……」
小さく呆れながら返すと、戦闘狂は鼻で笑った。
『ハッ。どうせこういう静かな場所ほど、後で派手に壊れんだろ』
その言葉に、俺は無意識に小さく息を吐く。
否定しきれないのが嫌だった。
ここは穏やかに見える。
実際、救われている人間もいるんだろう。
けれど同時に、この教団が危険思想や武装派閥まで抱えていることも既に知っている。
だからこそ、この静けさが妙に落ち着かなかった。
嵐の前の静けさ、そんな言葉が不意に脳裏を過ぎる。
そして――その時だった。
礼拝堂のざわめきが、不意に少しずつ弱まっていく。
誰かが声を上げた訳じゃない。
それなのに、波が引いていくみたいに、信徒達の会話が自然と途切れ始めていた。
前方通路の脇へ控えていた白い法衣の信徒達が、静かに左右へ下がっていく。
周囲の視線が、ゆっくりと礼拝堂前方へ集まり始めていくのを感じた。
そして――礼拝堂奥の扉が、ゆっくりと開く。
白を基調とした法衣を纏い、長い黒髪を揺らしながら落ち着いた足取りで一人の女性が進んでくる。
その姿に派手さはないが、威圧するような動きも、周囲を見下すような態度もない。
けれど、その女性が姿を見せた瞬間、礼拝堂全体の空気が変わった気がした。
信徒達は誰一人騒がない。
ただ静かに、その人物へ視線を向けている。
距離があるせいで、まだ顔までははっきり見えない。
それなのに、不思議と目を離せなかった。
福音の門の大司教。
そして――俺の母親、御門詩織。
その姿を見ているだけで、胸の奥に説明のつかない感覚がじわりと広がっていく。
「……あの人が」
気づけば、小さく声が漏れていた。
隣の澪も、黙ったまま前方を見つめている。
礼拝堂の中央通路をゆっくりと進んでいく詩織は、そのまま聖壇前へ辿り着くと、静かに信徒達を見渡した。
その瞬間だった。
――ゾワッ。
理由もなく、背筋へ薄い緊張が走る。
視線が合った訳じゃない。
なのに、一瞬だけ“見られた”ような感覚があった。
『……あれが……お母さん?』
不意に聞こえた僕の声は、今までになく弱々しかった。
その一言だけで、僕が強く動揺していることが分かる。
「……僕、大丈夫か?」
小さく呼びかけると、僕は怯えるように声を震わせた。
『だって……なんか違う……お母さんなのに……前と違う……怖いよ』
その言葉に、俺は無意識に詩織へ視線を戻す。
聖壇前へ立つその姿は静かで穏やかなのに、妙な圧迫感だけが胸へ残っていた。
「無理するな。今は意識を閉じてろ」
『でも……』
「俺だけ見てればいいんだから、な?」
そう言うと、僕は少しだけ黙り込んだ後、小さく返事をする。
『……うん。ごめんね?』
僕の小さな声を最後に、頭の奥の気配がゆっくりと静かになっていく。
不安に揺れていた感情が少しずつ奥へ沈み、意識が薄れていくのを感じた。
俺は小さく息を吐きながら、改めて前方へ視線を向ける。
聖壇前へ立つ詩織は、静かに礼拝堂全体を見渡していた。
信徒達もまた、誰一人言葉を発しない。
ざわめきは完全に消え、広い礼拝堂は不自然なくらい静まり返っている。
その沈黙を支配するように、詩織がゆっくりと口を開いた。
「――今宵も、この場所へ集ってくださった皆様へ感謝を」
穏やかな声だった。
静かで、優しく、どこか安心感すら覚える声音。
けれど、その声が礼拝堂へ響いた瞬間、空気が僅かに震えた気がした。
まるで、この場にいる全員が、その一言を待っていたかのように。
「この場所へ辿り着くまで、皆様は多くの苦しみを抱えてこられたのでしょう」
詩織は、信徒達をゆっくりと見渡しながら言葉を続ける。
決して大きな声ではない。
それなのに、礼拝堂の隅々まで自然と染み込んでいく。
「異能を恐れられた者。人格を否定された者。居場所を奪われ、自らを責め続けてきた者――この世界は、時にあまりにも冷たい」
礼拝堂は静まり返っている。
その言葉へ反応するように小さく目を伏せる者もいれば、俯いたまま拳を握り締める者もいる。
ここへ集まっている人間達の多くが、“普通”という枠から弾かれた側なのだと嫌でも伝わってきた。
「ですが、福音の門は違います。ここでは、異能も人格も罪ではありません。皆様は、ここにいていいのです」
詩織は静かに両手を広げる。
「福音の門は、皆様を拒みません。いつの日か、それぞれが自らの“門”へ辿り着くその時まで」
「……っ」
瞬間、頭の奥が鈍く痛む。
まるで、忘れていた何かを無理やり掻き起こされているみたいだった。
詩織の声を聞いているうちに、胸の奥のどこかが引っかかり始めていた。
声なのか、言葉なのか、それとももっと別の何かなのか、自分でも分からない。
けれど確かに、“何か”が記憶の奥へ触れている感覚だけはあった。
思い出せそうで思い出せない。
あと少しで届きそうなのに、その先だけが白く霞んでいて、手を伸ばしても掴めなかった。
『……翔?』
頭の奥で、賢者が僅かに警戒するような声を漏らす。
「……大丈夫だ。なんでも、ない」
小さくそう返しながら、俺は無意識に拳を握っていた。
頭の奥に残る鈍い痛みはまだ消えていない。
それでも、今ここで気を乱す訳にはいかなかった。
『ククッ……まだ思い出せないのかい?頑なに閉じてるんだね。君の“門”は』
悪の権化の声が、頭の奥で愉しそうに響く。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が不自然にざわついた。
自分でも、どうして思い出せないのか分からなかった。
目の前にいる詩織が、あまりにも“母親”らしく見えないからなのか。
それとも――思い出せなくなるほど、辛い過去だったのか。
考えれば考えるほど、答えの見えない深みへ沈み込んでいくようだった。
僕『翔、本当に行くの?』
翔「ああ。母親に近づくには、それしかない」
僕『怖くない?』
翔「怖いさ。でも、逃げる訳にはいかないだろ?」
僕『……そっか。なら、もう止めないよ』
翔「次回、『儀式への招待』――その先に何があっても」




