第74話 彼氏の家に近づくほど、恋人の自分が試される気がする
約束の日が近づくほど、私は妙に落ち着かなかった。
恒星くんの家そのものへ行くわけじゃない。
そう説明はされている。
でも、「家に近い場所」「ちゃんと俺の方から見せる」という言葉の意味は、やっぱり軽くはなかった。
ただのデートじゃない。
ただ甘いだけの時間でもない。
そこには、彼の世界の輪郭がもっとはっきり見える何かがある。
そう思うだけで、胸の奥がそわそわする。
「……何着ればいいんだろう」
休日の前日、私は自室のベッドに服を広げながら小さくつぶやいた。
可愛く見られたい。
でも、気合いが入りすぎているようには見せたくない。
けれど、“彼の世界”に少し近い場所へ行くのなら、あまりにも普段通りすぎるのも違う気がする。
難しい。
ほんとうに難しい。
スマホが震えた。
ひまりだった。
『生きてる?』
私は思わず笑ってしまう。
毎回、絶妙なタイミングだ。
『たぶん』
『またたぶん』
『服で死にそう』
『やっぱり』
『来る?』
『行く』
◇ ◇ ◇
ひまりの部屋で、私は何度目かの“デート服会議”を開いていた。
「うん」
ひまりが腕を組む。
「今回は前よりちょっと難しい」
「それは分かる」
「でも方向性はある」
「何」
「おしゃれしすぎて背伸びしない」
「うん」
「でも、“ちゃんと選んできた”は必要」
その言い方が、今の私にはいちばん分かりやすかった。
「……やっぱりそうだよね」
「うん」
「場に食われないことが大事」
私はその表現に少しだけ息を止める。
まさに今の私が不安に思っていることだった。
“場に食われる”。
彼の世界に近づいたとき、自分が浮いてしまうこと。
緊張でこわばって、せっかく隣にいるのに、自分から距離を作ってしまうこと。
たぶん、いちばん怖いのはそこだ。
「栞」
ひまりが言う。
「何」
「今回、一番大事なのは」
「うん」
「“その場所に似合うか”じゃなくて」
「……」
「“そこでも隣に立つ気があるか”だよ」
私は少しだけ黙った。
その通りだと思う。
完璧に似合わなくてもいい。
怖くてもいい。
それでも、逃げないで隣に立つと決めていられるかどうか。
「……うん」
私は小さく頷く。
「それは、たぶんある」
「じゃあ大丈夫」
ひまりはあっさり言った。
その大丈夫に、少しだけ救われる。
◇ ◇ ◇
翌朝。
待ち合わせの場所へ向かう電車の中で、私は何度も膝の上の指先を握り直していた。
今日の服は、やわらかい色のブラウスに、落ち着いたスカート。
華やかすぎないけれど、いつもより少しだけ丁寧な雰囲気になるよう選んだ。
眼鏡はいつも通り。
髪も、頑張りすぎない範囲で少しだけ整えている。
大丈夫。
そう思いたい。
でも、やっぱり胸はうるさい。
改札を出ると、恒星くんはもう来ていた。
今日はいつもより少しきれいめな服装で、でもやっぱり嫌味がない。
目が合う。
その瞬間、彼の表情がふっとやわらぐ。
「おはよう」
「……おはよう」
私が返すと、恒星くんは数秒、何も言わなかった。
その沈黙に、私は少しだけ不安になる。
「……何」
ようやく聞くと、彼は少しだけ息を吐いた。
「今日、すごくいい」
「……」
「頑張ってきたの、ちゃんと分かる」
その言葉だけで、私は朝から報われた気がした。
「……ひまりに手伝ってもらった」
「瀬名さんにお礼言わないと」
「ほんとに」
「でも」
恒星くんが少しだけ声を落とす。
「ちゃんと栞のままだ」
私はその一言に、小さく息を止めた。
それが、今の私にはいちばんうれしい褒め言葉だった。
背伸びして別人になったわけじゃない。
ちゃんと私のまま、少しだけ勇気を出してここにいる。
それを見てもらえた気がした。
「……行こうか」
「……うん」
歩き出しながら、私は思う。
今日の私は、たしかに試されている気がする。
でもそれは、誰かに品定めされるという意味だけではない。
自分で選んだ恋人として、どこまで逃げないでいられるか。
その意味で、たぶん今日の私は試されている。




