第10話 思い出の場所で、答え合わせはまだできない
その週の金曜日、私は朝から落ち着かなかった。
理由ははっきりしている。
昨日の夜、夕食のあとで父に何気なく告げられたのだ。
「日曜、一条さんのところに顔出すからな」
「……は?」
思わず箸を止めた私に、父はきょとんとした顔を返した。
「何だその反応」
「何だ、じゃないでしょ。聞いてない」
「今言った」
「そういう問題じゃなくて」
母が味噌汁のお椀を持ちながら笑う。
「前から言ってたじゃない。久しぶりにお邪魔するかもって」
「“かも”と“行く”は全然違うよ」
「まあまあ。向こうも忙しいから、直前まで確定しなかったのよ」
「……」
私は黙り込んだ。
一条家。
つまり、一条恒星の家だ。
いや、正確には“家”という表現で済ませていいものなのか分からない。昔から父は、向こうの家を「でかいぞ」としか言わなかったけれど、その“でかい”が普通の家を指していないことくらい、今の私にも分かる。
そして問題は、私がそこへ行くということだ。
最近ただでさえ、学校で彼と関わるたびに心臓が忙しいのに。
今度は家?
家って何?
どういう顔で行けばいいの?
「そんな嫌そうな顔するなよ」
父が少しだけ不満そうに言った。
「向こうのお父さんもお母さんも、おまえのこと可愛がってたんだぞ」
「小さいころの話でしょ」
「そうだけど」
「今さら行っても、気まずいだけだよ」
「気まずい?」
父が首をかしげる。
「何が」
「……何でも」
何でもないわけがない。
でも、ここで説明できるほど私は器用ではない。
母は私の顔を見て、少しだけおかしそうに笑った。
「栞、もしかして緊張してる?」
「してない」
「じゃあ、楽しみ?」
「してない」
「どっちにしてもしてないのね」
「お母さん」
笑いながらも、母の目は少しだけ優しかった。
たぶん何かを察している。
でも深入りしないでいてくれるのはありがたい。
父は何も気づいていない顔で、ごはんを食べながら言った。
「久しぶりだしなあ。庭も相変わらず立派らしいぞ」
「庭……」
「おまえ、昔あそこの噴水のとこで転んで膝擦りむいてたよな」
「……え」
そのひと言に、胸の奥が小さく揺れた。
噴水。
白っぽい石の縁。
夏の日差し。
ひんやりした水音。
そして、泣きそうな男の子の顔。
断片だけが浮かぶ。
でも、それ以上はつながらない。
「覚えてないのか?」
父が不思議そうに聞く。
「……ちょっとだけ」
「そっかあ。まあ、小さいころだしな」
私はそれ以上何も言えなかった。
心の中だけが、ひどく落ち着かなかった。
◇ ◇ ◇
その翌日、学校で一条くんの顔を見るのが、いつもよりさらに気まずかった。
いや、気まずいというより、変に意識してしまう、の方が近いかもしれない。
明日、彼の家に行く。
たぶん彼もそのことを知っている。
それなのに何もなかったみたいに学校で会うなんて、どう考えても落ち着かない。
「おはよう」
朝、教室の前で恒星に声をかけられたとき、私は危うく持っていたノートを落としかけた。
「……お、おはよう」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「今、全然大丈夫に見えなかったけど」
「気のせいです」
「そう?」
そう言いながら、彼は少しだけ笑う。
でもその目の奥が、何となく私と同じくらい落ち着かなさそうに見えて、私は余計に困った。
やっぱり知っているのだ。
明日、私が家に来ることを。
「明日」
恒星が小さく言った。
心臓がひとつ跳ねる。
「……はい」
「来るんだよね」
「……たぶん」
「たぶん?」
「家の都合なので」
「そっか」
そこで彼は少しだけ視線をやわらげた。
「来てくれるの、うれしい」
「……」
「でも、緊張しなくていいよ」
「無理です」
「即答なんだ」
「だって、無理なので」
そう返すと、恒星はくすっと笑った。
その笑い方が少しだけ年相応で、私は少しだけ呼吸がしやすくなる。
「まあ、そうだよね」
「一条くんは緊張しないんですか」
「するよ」
「……え」
「するに決まってる」
その答えは、思った以上にまっすぐだった。
私は思わず彼の顔を見る。
恒星は少しだけ肩をすくめた。
「君が来るんだよ」
「……」
「緊張しない方が変じゃない?」
そんなことを、そんなふうに当たり前みたいに言わないでほしい。
私は返す言葉を失って、そのまま小さく俯いた。
「……そういうの、ほんとに」
「うん」
「困るので」
「知ってる」
「なら言わないでください」
「難しいかも」
「……」
もうだめだ。
朝から心臓に悪い。
でも、その会話のあと、私は少しだけ救われてもいた。
自分だけが落ち着かないわけじゃないと分かったから。
◇ ◇ ◇
そして日曜日。
私は家を出る前から、すでにだいぶ疲れていた。
何を着ればいいのかで三十分悩み、結局、無難なワンピースにカーディガンを合わせた。
眼鏡はもちろんかける。
髪もいつもより少しだけ整えたけれど、下ろす勇気はなかった。
「栞、まだ?」
玄関から父の声がする。
「今行く!」
返事をして、鏡の前で最後に一度だけ自分を見る。
変ではない。
たぶん。
でも、自信もない。
母が後ろからやってきて、私の肩をぽんと叩いた。
「大丈夫よ」
「何が」
「何が、って顔してるから」
「……そんな顔してる?」
「してる」
母は笑った。
「向こうは敵地じゃないんだから」
「誰も敵地とは言ってない」
「でもそんな顔」
「……」
図星すぎて何も言えない。
玄関へ行くと、父はいつもの調子で車の鍵を回しながら言った。
「そんな緊張するなよ。昔しょっちゅう行ってたじゃないか」
「それ、小さいころの話だから」
「体が覚えてるかもしれんぞ」
「そういう変なこと言わないで」
でも、その“体が覚えてる”という言葉は、意外と間違っていないのかもしれなかった。
一条家へ近づくほど、私は胸の奥に妙なざわめきを感じていたからだ。
知らない場所へ行く感じではない。
でも知っているとも言い切れない。
その曖昧さが、ひどく落ち着かなかった。
◇ ◇ ◇
車が大きな門の前で止まったとき、私は思わず息を呑んだ。
「……家?」
「家だな」
父は平然としている。
「これは家じゃなくない?」
「いや、家だろ」
「家の定義が違う」
門の向こうに広がっていたのは、どう見ても“お屋敷”だった。
広い庭、手入れの行き届いた木々、噴水、白い石畳。建物も大きくて、映画か何かのセットみたいに見える。
場違いすぎる。
来た瞬間から帰りたい。
「お父さん」
「何だ」
「今からでも私は車で待ってていい?」
「だめに決まってるだろ」
「ですよね」
父がインターホンを押すと、門が静かに開いた。
本当に帰れなくなった。
玄関前まで案内された私は、母の後ろに半分隠れるみたいに立つ。
「栞、姿勢」
母に小声で言われて、慌てて背筋を伸ばした。
扉が開く。
迎えてくれたのは、上品でやわらかい笑顔の女性だった。
「いらっしゃい。朝比奈さん、本当にお久しぶり」
「ご無沙汰しております」
母が丁寧に頭を下げる。
私も慌てて続いた。
「……お久しぶりです」
「まあ、本当に大きくなって」
女性――たぶん恒星のお母さんだろう――は、少し目を細めて私を見た。
「栞ちゃんよね?」
「……はい」
「覚えてるわよ。小さいころ、庭の花より元気だったもの」
「え」
思わず変な声が出た。
何その記憶。
母と父は楽しそうに笑っている。
私だけが居心地悪くて仕方ない。
案内された応接間も、もう全部が“ちゃんとしている”。
絨毯も、ソファも、飾られた絵も、窓から見える庭も。
何もかもが、私の“普通”とは違う。
座るだけで緊張する。
お茶が出てきても、カップを割らないか心配になる。
父たちはすぐに昔話を始めた。
学生時代の話とか、仕事の話とか、たぶん私がいなくても成立する話題ばかりだ。
その中で私は、目立たないように小さく座っていた。
そうしていればいいと思っていた。
「恒星、栞ちゃん来てるわよ」
ふいに、奥の方から声がした。
心臓が止まりそうになる。
数秒後、部屋の入口に現れた彼を見て、私はほんの少しだけ息を忘れた。
学校の制服ではない恒星は、見慣れているはずなのに少し違って見えた。
シャツに落ち着いた色のカーディガン、肩の力が抜けた格好なのに、やっぱりどこか整っている。
「いらっしゃい」
彼は穏やかに言った。
「……お邪魔してます」
私の返事は、たぶん少し固かった。
恒星はそれを分かっている顔で、少しだけ笑う。
「緊張してる?」
「……してないです」
「してるね」
「してない」
「してる」
「……」
「うん、かなり」
そこで彼のお母さんがくすっと笑った。
「恒星、あんまり困らせないの」
「困らせたいわけじゃないよ」
「十分困ってるみたいだけど?」
「それは……そうかも」
本人まで認めるのやめてほしい。
でも、そのやり取りのおかげで少しだけ空気がやわらいだ。
恒星のお母さんは「せっかくだから、お庭でも見てきたら?」と、あまりにも自然に言う。
私は慌てて父の方を見た。
父は「ああ、いいんじゃないか」と気楽にうなずく。
よくない。
でもここで拒否するのも不自然だ。
「……少しだけ」
私は小さく言った。
「うん」
恒星はその返事が嬉しかったみたいに、静かに微笑んだ。
「行こうか」
◇ ◇ ◇
庭に出ると、春の匂いがした。
手入れの行き届いた芝生。白い小道。低く刈り込まれた植え込み。遠くで水音がする。
その水音に引かれるように視線を向けると、小さな噴水が見えた。
瞬間、胸の奥で何かが強く揺れた。
白い石の縁。
反射する光。
小さな手。
転んだ衝撃。
膝の痛み。
そして、泣きそうな顔でこちらを見る男の子。
私は思わず足を止めた。
「……どうした?」
隣で恒星が聞く。
「ここ」
私は噴水を見たまま言う。
「前に、来たこと……ある」
「うん」
「……ここで、転んだ気がする」
恒星の息が、ほんの少しだけ止まったように感じた。
「覚えてる?」
「……少しだけ」
そう答えながらも、私は混乱していた。
少しだけ、だ。
本当に少しだけ。
映像の断片みたいなもので、はっきりした記憶ではない。
でも、ただの想像ではない感触がある。
私は噴水のそばまで歩いた。
石の縁に指先を触れる。
ひんやりしている。
「ここで」
私はゆっくり言う。
「誰かに、手を引っ張られた……気がする」
「……うん」
恒星の声が、少しだけ低くなる。
「泣いてた?」
私は自分でも不思議なくらい自然にそう聞いた。
すると恒星が、目を見開いた。
「……俺が?」
「たぶん」
「……泣いてたかも」
「かも、なんだ」
「正確には、泣きそうだった」
少しだけ苦く笑う。
「君が転んだの、俺のせいだと思ったから」
その言葉に、記憶の断片がまたひとつ揺れた。
小さい男の子が、ひどく焦った顔で私を見ている。
でも泣くのは我慢していて、かわりに私の手を握っている。
胸が少しだけ苦しくなる。
懐かしい、というには曖昧すぎるのに、確かにあたたかい。
「……一条くん」
「うん」
「その子って」
言いながら、私は急に怖くなった。
ここで答え合わせをしてしまったら、何かが決定的に変わる気がしたからだ。
今まで曖昧だったものが、全部つながってしまう。
そうしたら、もう“よく分からない”の中へ逃げ込めなくなる。
恒星も、それが分かったのかもしれない。
彼は少しだけ目を細めて、でも急かさなかった。
「今、無理に言わなくていい」
「……」
「思い出せるところまでで、十分だから」
その優しさが、逆に胸にくる。
私は答え合わせをしたいわけじゃない。
でも、したくないわけでもない。
ただ、今ここで全部つながるのが怖いだけだ。
なぜなら、もし彼があの男の子だと確定してしまったら。
学校での彼の優しさにも、視線にも、全部に意味がついてしまうから。
それは、今の私には少し重すぎる。
「……ごめんなさい」
小さくこぼすと、恒星は静かに首を横に振った。
「謝らないで」
「でも」
「思い出しかけてるだけで、俺はうれしい」
「……」
「それに」
彼は少しだけ笑う。
「今の君が、こうしてここにいることの方が大事だから」
また、それだ。
過去だけじゃなくて、今の私にも意味をくれる。
そのたびに、私は嬉しいのに苦しくなる。
「どうして」
気づけば、そんなことを聞いていた。
「どうして、そんなふうに言うんですか」
「……」
「優しいの、時々ひどいです」
言った瞬間、顔が熱くなる。
でも撤回はできなかった。
恒星は少し驚いた顔をしてから、静かに笑った。
「ごめん」
「……謝らないでください」
「どっち」
「分かりません」
本当に分からないのだ。
優しくしてほしいのか、してほしくないのか。
思い出したいのか、まだ思い出したくないのか。
近づきたいのか、離れたいのか。
全部が曖昧で、全部が本当だった。
◇ ◇ ◇
そのあと、庭を少しだけ歩いた。
白いベンチ。
小さな花壇。
背の高い木の影。
どれもぼんやり懐かしいような、初めて見るような、不思議な感じがした。
でも、恒星が隣にいると、その不思議さは少しだけやわらぐ。
彼はずっと静かだった。
無理に思い出させようとしない。
昔話を押しつけてこない。
ただ、私が立ち止まれば待って、見上げれば同じ方を見てくれる。
そのことがありがたくて、同時にやっぱり怖い。
「……学校とは違いますね」
私がぽつりと言うと、恒星がこちらを見る。
「何が?」
「一条くん」
「そう?」
「少しだけ」
「どんなふうに」
「……少しだけ、近いです」
言った瞬間、自分で何を言ってるんだと思った。
でも恒星はからかわなかった。
むしろ少しだけ目をやわらげる。
「家だからかな」
「……」
「君も、学校より少しだけ素直」
「そんなこと」
「あるよ」
「ありません」
「ある」
「……」
こういう、少しだけ他愛ない言い合いをしていると、ほんの少しだけ普通の高校生みたいだと思う。
御曹司とか、地味とか、噂とか、そういうものが少しだけ遠くなる。
でも、遠くなりすぎると今度はそれが怖い。
あまりにも自然すぎて、勘違いしそうになるから。
◇ ◇ ◇
帰るころには、私は来たときよりずっと疲れていた。
でも、不思議と最初みたいな“場違いで苦しい”だけの疲れ方ではなかった。
いろんな感情を抱えすぎて、心が重い、みたいな疲れ方だ。
車に乗り込むと、母がちらりと私を見た。
「どうだった?」
「……どう、って」
「久しぶりの一条家」
「すごかった」
「そこ?」
「そこしか言えない」
父が運転しながら笑う。
「恒星くんとは話したか?」
「……少し」
「そうかそうか」
「何その反応」
「いやあ、昔はずっと一緒に走り回ってたのになあと思って」
「それ、ほんとに私?」
「おまえだよ」
父は気楽に言う。
でも私は、窓の外を見たまま黙った。
噴水のそばで揺れた記憶。
泣きそうな男の子。
握られた手。
そして、今の恒星の顔。
たぶん、もうかなり近いところまで来ているのだと思う。
答え合わせの直前まで。
でも、まだ私はそこへ手を伸ばせない。
つながってしまったら、いろんなものを言い訳にできなくなるから。
家に着いて、自室のベッドに腰を下ろしても、胸のざわめきは消えなかった。
あの場所は、たしかに懐かしかった。
彼の言葉も、きっと本当だった。
でも私はまだ、“だから何かを答えなくちゃいけない”ところまでは行けない。
「……ずるい」
小さくつぶやく。
思い出の場所は、たしかにそこにあった。
記憶の欠片も、たぶん本物だ。
けれど答え合わせは、まだできない。
できないまま、私は今日の景色を何度も思い返していた。
噴水の水音と、春の匂いと、私を急かさなかった彼の横顔を。
それだけで、十分すぎるほど胸がいっぱいだった。




