第四十二話 オーボック伯爵⑪
ヘクトルはランベールへ剣を向けたまま、右へ左へ、重力を感じさせない軽やかな動きで、身体を揺らす様にに跳び回る。
『揺り影』と呼ばれる、敵の隙を作るための歩行術である。
基本的な技術ではあるが、剣の道を探究し続けたヘクトルの『揺り影』は、そう簡単に破れるものではない。
視界の端から端へと動くヘクトルの姿は、常人であれば、対峙していたはずのヘクトルを見失うほど素早く、人の意識の隙を突く。
無論、ヘクトルも、ランベール相手にそこまでの効果は期待していない。
ただ一瞬でもいい。ランベールが万全ではない状態を作り出せれば、それでよかった。
一撃でランベールを倒したいわけではない。
ただ一撃、自身の攻撃を大剣で受けさせれば、『真・四十九の剣雨』を繰り出すことができる。
『真・四十九の剣雨』さえ繰り出せば、計算し尽された剣技は、初撃と共に勝負が伸びきる最大である四十九手目までの最善の動き方が、ヘクトルの脳裏に完全に刻まれる。
剣の達人同士の一騎打ちは破綻の少ない剣技を用いた方が勝つという、剣術にとって真理であるこの一文に勝利を約束された絶技である。
「行くぜ、ランベール!」
ヘクトルが地面を蹴る。
それと同時に剣先にマナを集め、宙に円を描いた。
円を輪郭とし、魔法陣が浮かび上がる。
「風よ、我を運べ!」
一陣の風が吹き荒れ、ヘクトルの身体を攫う。
ランベールは視界からヘクトルが消えたというのに慌てもせず、淡々と剣を振り上げる。
振り上げた剣は、後方斜め後ろから斬り込んだヘクトルの剣を、あっさりと防いだ。
「オメェ、背中に目があんのかよ! 足音だって立てねぇように宙から叩き込んだってのに、さすがにおかしいだろ!」
ランベールはヘクトルの言葉には応えず、足の置き場を素早く入れ替えて大剣を振るい、宙に浮いたままのヘクトルの身体を斬ろうとした。
「だが、俺の勝ちだ! ランベール・ドラクロワァッ! 確かに、格も実力も、オメェの方が遥かに上だ! それでも、勝つのは俺だ!」
ランベールが大剣に勢いを乗せる前に、ヘクトルの剣が大剣を弾いた。
素早く持ち直した大剣を、続けてヘクトルの剣が襲う。
二手続けて、ランベールが後手に回った。
首の関節を向けて放たれた刺突。それも、ランベールは守りに入ってヘクトルの剣を逸らすことしかできなかった。
双剣のアドバンテージを理論上最高クラスにまで活かしきったヘクトルの『真・四十九の剣雨』は、ランベールにさえも通用したのだ。
「…………ふむ」
「どうだ! ここまで圧されたのは初めてだろう? 後四十六手、避けきれるもんなら避け切ってみやがれ!」
ヘクトルが吠えながら飛び掛かってくる。
剣を見切ってから捌いて対応するには、ランベール程の使い手でも、あまりにも至近距離過ぎる。
が、ランベールは、ヘクトルの剣技の初動を見るより先に、振り上げた大剣を床へと振り下ろしていた。
通路の床がランベールを中心に崩壊し、衝撃波が生じる。
「ぐっ!」
ヘクトルの跳躍の勢いが衝撃波に殺され、その場に足を付くことになる。
同時に、ヘクトルの本能が死を告げる。次の瞬間に自分の身体が斬られているイメージが、鮮明に脳裏に過った。
本能の察知した死から逃れるため、地面を蹴り、衝撃波の余波に身体を任せて後方へ跳ぶ。
だが、避けるためには、攻めの姿勢に入りすぎていた。
気が付いたときには、ランベールの大剣が目前に突き出されており、ヘクトルは自然と身体を庇うように、大きく身を引いていた。
ヘクトルは地面に着地し、剣を構える。
ランベールは、間合いが開いた先に立っていた。
避けきれたのか、否か。その答えは、視界の端に移った鮮血を見て、知ることができた。
ヘクトルの身体能力に大きく遅れた感覚が、腹部の痛みを訴える。だがそれも、興奮の嵐の中に麻痺していく。
平常時なら、立っていられない重傷だっただろう。
だが、ヘクトルの脳内麻薬は、致死級の傷の痛みさえも、打ち消した。
今のヘクトルには、どこを怪我しようとも、剣が振れるのなら、関係ないとまで考えていた。
一度目線を向けた後、興味なさげにランベールへと向き直り、それからは腹部から流れ出る血に関心を向けることはなかった。
「ここまで圧されたのは初めてだろう、か。そうでもない。一つ何かが違えば負けていた戦いなど、数えていればキリがない。そもそも俺がグリフに敗れたのは、周知のことであろうに」
「……ハッ! 信じらんねぇな! オメェみたいな奴が何人もいるなら、俺もこれまで退屈しなかっただろうよ」
ヘクトルは笑う。
腹部に刺突を受け、命に関わるほどの怪我を負っているというのに、さしてショックを受けている様子はない。
或いは、最初から覚悟の元であったのか。
ヘクトルは到底信じられなかったが、ランベールの言葉は真実である。
ランベールはレギオス王国の四魔将の一人であったが、ランベールが加わる前の四魔将には、ランベールよりも更に強い剣士がいた。
だが、戦争で死んだのだ。
「まさか、ただの力ずくで、『真・四十九の剣雨』が破られるなんてな。ククッ、オメェを測ることが、そもそも間違いだったらしい」
「……いい動きではあったが、つまらぬ剣であった」
ランベールは呟くように言い、大剣を構え直す。
ヘクトルはその言葉を聞いて目を見開き、それから笑い出す。
「あぁ! 俺もそう思っていたところだ!」
元よりヘクトルは『四十九の剣雨』を習得して実戦に用いたときには、決めた通りに動きだけの、子供の稽古の様なつまらない剣だと考えていた。
ランベールとの間に実力差を感じて繰り出したものの、あまりヘクトル好みの戦い方ではなかった。
ヘクトルは剣を構え、吠えながらランベールへと突進する。
ヘクトルが先程腹部に受けた傷は深い。
既にもう長くないことは、ヘクトルにもわかっていた。
だが、だからこそ、余計なものを背負わず、考えず、ただ至高の剣技を繰り出すことに一心になれた。
紛うことなく、ヘクトルの今日最速――いや、人生最速の剣であった。
ヘクトルとランベールの身体が交差する。
互いに背を向けた状態で立つ。
ヘクトルの右腕が、地面へと落ちた。
地に落ちてなお、剣を強く握りしめたままであった。
「それほどの傷で、まだ立つのか」
「……知ってるぜ。オメェ、この技に敗れたんだってな!」
ヘクトルは振り返ると同時に、地を蹴って高く跳び上がった。
隻腕に掴んだ剣に全体重を掛け、ランベール目掛けて振り下ろす。
――『月羽』、英雄グリフの得意技である。
高く跳躍し、剣の勢いに重力を乗せ、相手のガードや反撃ごと押し潰す技である。
そう容易く再現できる技ではないが、ヘクトルの剣の才覚があれば、不可能というわけではなかった。
ランベールはこの技に敗れたわけではないが、それでも肩を負傷させられたことは事実である。
あれが敗北に繋がっていた可能性もなかったわけではないし、史実ではきっとそうなっていたのだろう。
それに対し、何か口を挟むつもりはない。
だが、一つ言っておかねばならぬことがあった。
「我が友グリフは、魔金の鎧を纏い、貴様より高く跳んだ」
縦に振られたランベールの大剣が、ヘクトルの身体を深く袈裟斬りにした。
血を舞わせながらヘクトルの身体が飛び、通路の壁に背を打ち付ける。
ヘクトルは笑みを浮かべたまま、左手で剣を掴んで腰を浮かせたが、すぐにがくんと足が曲がり、再び背を壁にぶつける。
ヘクトルの指が弱々しく開き、剣が転がり落ちる。
ヘクトルはそれを、信じられないというふうに呆然と眺めていた。
だが、戦いを見ていたオーボック伯爵とアルメルからすれば、まだ生きているヘクトルの方が不思議なほどであった。
腹部には深々と刺された跡があり、右肩から先はなく、右のこめかみから逆の太ももまで深々と斬られているヘクトルは、戦場の死体そのもののようだ。
さきほどまで斬り合いを行えていたというのが、信じられないほどである。
「――ああ、もう終わっちまったのか」
ヘクトルはそう呟くとぐらりと身体を揺らし、その場に上体を倒した。




