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漆黒の中に残されたもの


目の前には、垂直に近い灰色の断崖が天から舞い降りたカーテンのように行く手を阻んでいた。

ヴァレンタリアは立ち入る者すべてを完全に拒絶するような景色を見上げて息を飲んだ。


「ノノアちゃんを抱えたまま、これを登るんですか?」


見上げるヴァレンタリアの横で、ナツメは腰のケースから細長い棒を取り出し、その場にしゃがみ込んだ。


「いいえ。足場が悪く、滑落の危険もある場所なので」


ナツメはケースから一本の細い棒を選んで取り出すと、地面に軽く突き刺した。

それは召喚魔術。

地面に薄く黄色い魔法陣が現れる。

ナツメは魔石を握りしめた右手を魔法陣の中央に置いた。

魔法陣がゆっくりと回転を始める――

ナツメはそっと後ずさりして、魔法陣から少し離れた。

魔法陣の回転が加速し、光を巻き上げる。

視界を塗りつぶすような黄色い光の円筒が立ち上がった直後――そこには、空間に穴が開いたような漆黒の物体が現れた。


「彼の力を借りましょう」


ナツメはわずかに笑みを浮かべて淡々と告げ、漆黒の物体の真ん中に眠るノノアを仰向けに横たえた。

そして、唖然とするヴァレンタリアにも背中に乗るよう促した。


「さぁ、行きましょう」


ヴァレンタリアは目を細めていた。あまりに黒すぎるため、昼間でも何かわからないようだった。

ヴァレンタリアは恐る恐る漆黒の物体に近づき、感触を手で確かめた。

そして、しっかりとした弾力がある背中と思われる箇所に腰を下ろし、仰向けになった。


「ナツメ先生。これにはどれくらい乗るんですか?」

「半日ですね」

「この乗り物は何でしょうか?」

「目的地に到着したら、教えますね」

「……」


死を覚悟して挑むべき灰色の断崖を、漆黒の物体は垂直に悠々と登っていく。


遠ざかっていく地上を見下ろす。

時折、落ちていく小石が地上に叩きつけられるまでの時間と音でその高さを実感した。

見上げると、あんなに遠かった雲がすぐそこにある。


こうして、半日がかりで、ようやくその頂にたどり着いた。

おしりに感じていた重みが背中へと変わった。

ナツメはそこで少し表情を緩ませたが、

初めて来て、何も知らないヴァレンタリアは途中から目を閉じたまま、今も全身を強張らせている。


ここから少し降りれば、目的地だ。



◇◇◇




一面に広がる漆黒の大地。

かつて、魔龍が果てたというその場所は、今でも生命の息吹を拒絶し、ただ底冷えするような静寂だけが広がっていた。


「ヴァレンタリア先生。着きました。ここが、目的地です」


ナツメは隣のヴァレンタリアに説明を始める。

ここで、ようやくヴァレンタリアは目を開け、起き上がった。

久々の光に目をしばしばさせ、視界がおぼつかないままに周囲を見渡す。

何も捉えられないようだったが、ノノアから、どろりとあふれ出した不浄の魔力だけははっきりと見えたようだ。

それが形を成そうとうごめく姿を前に、ヴァレンタリアはごくりと息を飲んだ。

そして、おどろおどろしい骸骨紳士が姿を現した瞬間、一気に体の力が抜け、その場に倒れ込んだ。



倒れたヴァレンタリアを見て、ナツメは小さく息を吐いた。

そのまま眠っていた方がいいのかもしれない。

ナツメは倒れたヴァレンタリアを慣れた手つきで自然な体勢に整えると、再び骸骨紳士へと視線を戻した。


この地には、かつて散った骸骨紳士の魂の欠片が、今もなお眠っているはず。

骸骨紳士は何かに導かれるように歩き始めた。

ナツメも後を追う。

やがて骸骨紳士は足を止めると、迷うことなく地面に右手を突き刺した――


地中からジョリジョリと乾いた音を立てて引き抜いたのは、漆黒が渦巻く空の結晶。

その結晶をかざして、じっくりと見つめる――


「この世に居ない相手の約束を守り抜く……。たとえそれで、自分が滅びゆくとしても、ですか」


骸骨紳士の下顎が少し震えたあとに、低い声が漏れ出た。

魔龍が遺した遠き日の意志を、魂で受け取ったようだった。

骸骨紳士の瞳から、零れるはずのない涙がポタッと落ちた。


ナツメは大地に吸い込まれていく一滴を見届けると、腰を下ろした。

何も言わず、ただ静かにその傍らに寄り添った。

骸骨紳士と同じ地平を見つめながら、心が静まるのを、じっと待っていた。


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