ほったらかしの賢者様
学長が魔術教室にやってきた。
ナツメが口を開きかけたが、学長は腰の高さの手を少し上げ、「ちょっと待ってね」と制した。
「こっちを先にしないと忘れちゃうから……」
学長が来たので、身構えるセノ。
目を閉じて深呼吸した学長が声を出す。
「セノ、今日は追いかけるのを我慢するから、こっちに来なさい。ノンちゃんも!」
珍しく大きな声を出す学長に二人はびっくり。
セノとノンが学長のもとにあわてて駆け寄る。
「二人とも、名前を三文字にしなさい。中等科に進学して改名していないのは君たちだけだぞ」
「……」
「……」
セノとノンは一度、顔を見合わせてから名前を考え始めた。沈黙が流れる――
話を聞いていたナツメが穏やかに切り出した。
「二人の中等科進学のお祝いを忘れてましたね。明日の午後にお祝いをしませんか?」
学長はナツメに目で何度か頷いてから、二人に告げる。
「ナツメ先生がお祝いをしてくれるから、それまでに考えておくように」
学長はセノに触ろうとする直前で手を止めて、話しかける。
「セノの父上も呼ばんとな」
「こっちに居れば来ると思う」
父親のことを言われ、なぜか伏し目がちに答えるセノ。
学長は少し首をかしげたが、すぐに切り替えてノンにも話をする。
「ノンの両親くらいは呼んでもよかろう」
「私一人で大丈夫です!」
ノンには即答で断られた。
しかし、学長はその言葉を完全に無視して、早速ノンの実家であるフォンディノン家に向かおうとする。
そして、ニタニルの前を素通りして、教室を出ていってしまった。
本来の目的だったニタニルの取り扱いに関して指示するのを結局忘れてしまっていた。
◇◇◇
学長が出ていったあと、教室には重苦しい沈黙が残った。
「なんですか? 何か用ですか?」
少しのいら立ちを隠そうともせず、ニタニルが声を荒げた。
セノはその前に中腰の状態で、ただ、じーっとニタニルを見つめた。
明日のお祝いの準備をしていたナツメがそれに気づき、ニタニルとセノの間に距離を取って椅子に座る。
そして、セノは当然のようにナツメの膝の上に座った。
さらにナツメの耳元で、ひそひそと囁く。
「賢者という名前にあぐらをかいているだけ。甘い汁を吸うだけで、それに見合う仕事をしていない、とこの子が言っています」
ナツメが代弁する。しかし、即座にセノは否定する。
「ぼくは言ってません。全部、ナツメが言っています」
セノの淡々とした否定に、ニタニルは顔を赤くし、唾液を飛ばしながら指をさした。
「なんなんだ、その子供は!」
セノはニタニルを視界から外したまま、ナツメだけにその理由を告げる。
「子供と侮って、言葉の端をつっついて、話題を逸らす……。そんな相手と話しても、話が進まない気がする。だから、ナツメに言ってもらってるんだ」
自分の本性を見透かされたニタニルは、そこからいかに自分が多忙で、ここに来ることが国にとって不利益かを、回りくどい言葉でまくしたて始めた。
ナツメがニタニルの言葉を聞き流して、説得する。
「今まで仕事をしてこなかった分と、さらに罪を償うためにここでしっかり勉強しましょう」
離れたところからニタニルを見ていたノンがナツメに問いかける。
「ナツメ先生。 本当に大丈夫ですか? こんなことして……」
すかさず、ニタニルはその言葉に反応した。
「聞いたかねナツメ君。これが民意だよ。私はね、民の暮らしをよりよくするための施策を考える必要があるんだ。それが私の仕事だよ。こんなところに監禁され……やめろ、なんだ」
トーノがニタニルに空のカップを差し出した。
しかし、ニタニルはそれを頑なに受け取ろうとしない。
「水を飲む時間があるなら、民の暮らしをよくするために政策を考えたいね」
ニタニルは、差し出されたカップを放り投げた。
ニタニルはそれが水の入った器だと勝手に決めつけていた。
「自分の暮らしをよりよくするためには国益も無視するのにね」
セノの鋭い皮肉が刺さる。
ニタニルの顔がさらに赤く染まり、殺気立った視線をセノにぶつけた。
あれほど普段は人懐こいセノが、ニタニルだけは距離を置き、直接言葉を交わすことさえ拒んでいる。
「部屋の準備ができたので、連れて行きますね」
トーノが静かに促した。
このあと、空のカップを受け取らなかったことを、ニタニルは身をもって後悔する。
そのカップは、水を飲むためのものではなく――携帯用の、トイレの魔術具だったから。




