金木犀、桜、彼岸花
もう大学の生活も今年で最後。今年も、桜の匂いと霧がうまく噛み合っていた。後ろから、金木犀の匂いがした。身体が勝手に、香る方へ振り返っていた。
「―――久しぶり。遠野くん」
それだけだった。それだけなのに、涙が止まらなかった。
春の霧。
夏の花火。
秋の匂い。
冬の声。
その全部が、一つに繋がった。
5年後。
今日も僕は、彼女―――妻と笑い合っていた。
図書館の帰り道。
雨上がりのアスファルト。
眩しいライト。
途切れた記憶。
全部、戻ってきたわけじゃない。今でも、思い出せないことのほうが多い。
花火の日、彼女が来ていた浴衣の色。りんご飴の大きさ。あの日、本当に来年も花火を見る約束をしたのか。記憶はまだ曖昧で、触れようとすると少し遠ざかる。
「またぼーっとしてる」
陽香が呆れたように笑う。
「してない」
「してる」
そう言って彼女は僕の袖を引っ張る。その仕草を見るたび、少し懐かしいと感じる。でもその懐かしさが、いつのものなのかはわからない。
「でもさ、あの時話しかけなくてよかった。」
「え?」
「春の日。もし陽香に話しかけてたら、きっと今と違う道を歩んでいるだろうから。」
だから今、陽香は僕の隣に居る。それだけが、僕の幸せ。
春になると、桜と金木犀の匂いがする。
僕も、陽香も、もう一人じゃない。
だから今年も僕は、金木犀と山桜の押し花を捧げよう。
「山桜の花言葉、知ってる?」
「知らない」
陽香はそう言いながら、押し花をそっと受け取った。
「―――あなたに微笑む、だってさ」
少しの沈黙のあと、陽香が呆れたみたいに「ばか」と呟く。
机の上には、金木犀と白い彼岸花。
春の風は、今年も優しい匂いがした。




