冬の香り
椿の花が枯れる頃には、流石に限界を迎えていた。現実から目を逸らして、違和感に背を向けていたこの生活に。
秋の終わり―――
いや夏から続いているのかもしれない。思い出すたび、何かが剥がれていく。最初からなかったのか、それとも消えたのか。わからない。わからないはずなのに、気づいてしまっていた。同じはずの記憶が、思い出すたびにズレている。
笑っていた彼女が、下を向いていたり。
浴衣の帯の色が、違ったり。
焼きそばを食べたベンチも、背もたれがあったのか、なかったのか。―――そもそも焼きそばなんて、食べたのだろうか。
考えるたび、削れていく。
思い出そうとすればするほど、どこかが軋む。
身体が内側から、少しずつ何かが削れていく。
名前を呼ぼうとしていた。
呼ぼうとして、やめた。
―――違う。
最初から、呼び方なんて知らなかったのかもしれない。
名前が、思い出せない。いや―――最初から知らなかったのかもしれない。
なのに。満たされている。胸の奥に残る、あの香り。
甘くて、柔らかくて―――季節とかけ離れた匂い。
春のようで、
夏のようで、
秋のようで、
冬のよう。
どれにも当てはまるのに、どれにも当てはまらないあの匂い。それは、彼女そのものだった。
息を吸うたび、香りが強くなる。誰も居ないこの密室で、匂いだけがそばにいる。
もうあの人は。あの人は隣にいないのに。
背後からそっと近づいてくる。ゆっくりと、少しずつ。濃くなっていく。
後ろには、机と―――あるはずのない、花瓶。そこに金木犀と―――白い彼岸花が挿してあった。
匂いの正体は、金木犀、か。
かびん―――花瓶?
花瓶なんて、この部屋にはない。
「花火の日のこと、覚えてる?」
微かに声がした。聞こえているなら返事をしてほしい、なんて言葉とともに。逃げるように視線を逸らす。逃げ場なんてどこにもないのに。
息を吸うたび、少しずつ香りが薄れていく。同時に、なにかが遠ざかっていく。
「来年もって言ったのに、守れなくてごめんね。お詫びって言ったら、この花を受け取ってくれるかな。」
僕は、何も言葉を返せなかった。彼女の声だけが、頭に残った。そうだ、思い出した。嘘じゃない。僕は、彼女と向き合った。彼女と向き合った挙げ句―――
頭が少し痛む。これ以上、思い出すのは避けたほうがいいのかもしれない。ただ、鼓動が語りかける。思い出さなくていいのか。
あの春の日も、
夏の夜も、
雨の帰り道も、
全部嘘じゃない、と。
ただ今の僕には、これが限界だった。




