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クラリッサのひとりごと

こ、更新予約したつもりでしてなかった……(二回目)大変失礼しましたー!


 

 わたくしがターニャ・カーと出会ったのは、六歳の誕生日の少し前でした。

 その頃のわたくしは、恥ずかしいことに両親や使用人の関心が弟のカールに行ってしまったことにショックを受け、ことあるごとに癇癪を爆発させる、手に負えないほどの我儘娘でした。


 父と母はそんなわたくしにほとほと困り果て、藁をも摑む思いで当時から画期的な商品を取り扱っているとひそかに貴族の間で聞こえていたタナカ商会に、わたくしが喜ぶものを用意しろと依頼したのです。

 今でこそ笑い話ですが、あの頃のわたくしが、両親がわたくしを物で宥めようとしていたことを知ったら、癇癪を起こして暴れていたでしょう。わたくしが欲しかったのは珍しい玩具でも、高価な宝石でもありません。ただわたくしも愛されているという、確信が欲しかっただけなのです。


 ターニャさんはわたくしのそんな気持ちを理解してくれる、ただ一人の大人でした。

 けれども第一印象は、やたらニヤニヤ笑っている、冴えないおじさんでしたわ。

 父とそう変わらないお歳のはずですが、苦労をなさったせいでしょう。浅黒い労働者階級そのもののお顔に既製品のスーツはずいぶんみすぼらしく見えたのです。


「はじめまして、クラリッサお嬢様。お誕生日おめでとうございます」


 そう言ってターニャさんがくださったのは、それは綺麗な絵が描かれた本でした。

 本は貴重品です。当時は印刷技術が発達しておらず、本といえば写本が一般的でした。当然流通するほどありませんし、紙もインクも高価なものです。子供に読ませるものではなかったのです。

 絵をメインに、文字は太く大きく書かれたその本は、紙そのものも厚くて硬く、海の世界がやわらかな色合いで描かれていました。

 内容は人魚のお姫様が人間の王子様に恋をして、魔女に頼んで人間の足をもらう、恋物語。ただし王子様は別のお姫様と結婚して、人魚のお姫様は海に帰ってしまう、悲恋でした。

 ゆっくりとした口調でお話を読み終えたターニャさんは絵本を置き、最後のページ、ハートを胸に抱きながら海に帰るお姫様を指し示しました。


「お嬢様、ここに指を置いてみてください」


 わたくしがお姫様の恋を悲しんでいるというのにターニャさんは悪戯を企む子供のようなお顔をしていましたわ。どうしようかと迷ったものの、ここで逃げるのも癪だったわたくしは言われた通りお姫様のハートに指を乗せました。


「これがなに?」

「まだですよ、お嬢様。もっと気持ちを込めてください」

「だから、なんなの?」

「たった一人で海に帰ったお姫様に、お嬢様のパワーをわけてあげるんです!」

「バカにしてるの!?」


 パッと指を離したわたくしは、驚きに目を丸くしました。


「えっ?」


 たしかに青かったお姫様のハートが、うっすら赤くなっていたのです。


「ああ、お嬢様。お姫様のハートはもっと熱くなりたがっていますよ」

「う、うん」


 なにがなにやらわからず、それでもお姫様のハートが命を取り戻すのなら、ともう一度指を乗せました。

 ターニャさんが言い聞かせるように促しました。


「海の中は冷たいでしょう。お嬢様、お姫様をあたためてあげてください。やさしく。お姫様の心が、また恋に燃えるように」


 不思議な声でした。

 本だとわかっているのに、なにか仕掛けがあるに違いないのに、そうしなければならない不思議な感覚に、わたくしは懸命に指先が熱くなるよう念じました。もういいですよ、と言われるまで、ずっと。

 気が付けば父と母がわたくしを見守っておりました。それが泣きたくなるほど嬉しかったのを覚えています。


 やがてターニャさんに言われて指を離すと、お姫様のハートは真紅に染まっていました。泣いていたお姫様のお顔も、心なしか微笑んでいるように見えました。

 びっくりしてお姫様を見て、ターニャさんを見ると、嬉しそうに微笑んでいる彼と目があってしまいましたの。わたくしどうしてか胸が熱くて、ぱっと目を逸らしてしまいました。


「お誕生日のお嬢様にはもう一つ」


 本が入っていた鞄の中から綺麗な紙が貼られた箱を取り出しました。

 今でこそタナカ商会はあたりまえにビロードの箱を使っていますが、当時のターニャさんにはそれが精一杯だったのでしょうね。わたくしへのプレゼントに社運を賭け、全財産をつぎ込んだと後でお聞きしましたわ。


「……貝殻?」

「はい。貝殻のビーズです。これもお嬢様の手で色が変わりますよ」


 貝殻にはよく見ればちいさな穴が開いていました。ターニャさんがくれた糸に貝殻を繋げると、絵本のお姫様が着けていたのと同じネックレスになりました。


「温度で色が変わりますのでお風呂で楽しんだり、魔法を覚えたら色々試してみてください」


 魔法は習っていましたから、その場でちいさな火の魔法を使ってみました。危ない、と怒られると思っていたのに、ターニャさんは怒りませんでしたわ。父と母も。子供のすることなど予想していたのでしょう、まずはやらせてみてくれと両親を説得してくださっていたのです。

 わたくしは先程の、お姫様のハートをあたためた感覚を思い出し、貝殻を握りしめました。


「わあ……っ」


 手を開くと白かった貝殻が赤いグラデーションに染まっていました。わたくしは何度も貝殻とターニャさんを見て、なにか言わなくてはと焦りましたわ。この感動を伝えなければと思ったのです。


「ありがとう!」


 焦ったわたくしは、ありきたりなお礼しか言えませんでした。

 ですが、お礼の言葉、感謝を伝えるその一言を、わたくしは久しく口に出していなかったのです。両親や使用人がはっと息を飲んで驚いていました。


「どういたしまして」


 ターニャさんは悪戯が成功した子供そのものの顔で照れくさそうに笑っていました。胡散臭いと思っていた笑みがまるで天使様の慈愛のように思えました。現金ですわね、わたくしったら。

 しかし、それはすぐに破られることになりました。


「お姉様、僕にもやらせてくださいっ」


 カールです。

 わたくしからわたくしが本当に欲しかったものすべてを奪った弟が、今度はわたくしの誕生日プレゼントまで奪おうとしている。

 ええ、カールにそんなつもりがなかったのはわかっています。ただ、あの頃のわたくしには、なぜみんながわたくしではなくカールばかりをかまうのか理解できず、嫉妬することしかできなかったのです。


「だ……」


 わたくしが咄嗟に「ダメ」と叫ぶより早く、ターニャさんが言いました。


「駄目です、いけません」


 これに驚いたのはわたくしだけではありません。両親も、使用人も、言われたカールもびっくりして目を見開いていましたわ。


「カール坊ちゃんは三歳ですよね?」

「は、はい」


 ターニャさんは両親と直接口をきける立場ではなかったので、カールの乳母が答えました。


「三歳の男の子なんてなんでもかんでも口に入れるだけではなく、鼻の穴にまで詰める年頃じゃないですか。こういう丸ビーズなんて格好の獲物ですよ、危険です!」


 ……ターニャさんの主張はわたくしたちの予想の斜め上でしたわ。

 真珠を模した丸いビーズはたしかに鼻の穴に入りそうなサイズでしたが、公爵家の嫡男がそんなことするわけありません。


「えっ? そ、そんな、鼻の穴にビーズなんか詰めさせませんよっ?」


 乳母の動揺はもっともです。


「三歳児ですよ? ちょっと目を離した隙にポケットいっぱいにダンゴムシ詰めたり、カマキリの卵を大事にしまって忘れて孵化させるような年頃ですよ? さっきまで遊んでいた玩具がどっかいっちゃう天才の年ですよ?」


 ずいぶん具体的ですがもしやご自分のことだったのでしょうか。思い当たる節があったのか、乳母はぐっと黙り込みました。


「カール坊ちゃん、坊ちゃんがお姉様と遊びたいのはわかります。ですが、お姉様の嫌がることをしてはいけませんよ」

「そんなことしないもん!」


 ダメと言われたことのなかったカールが怒って噛みつきました。ターニャさんの笑みは完璧なまでに崩れませんでしたわ。


「では、カール坊ちゃんは自分の宝物を壊されたりなくされても平気なのですね?」

「やーだーっ」

「でも坊ちゃんはお姉様のお人形の手を取ってなくしたり、お姉様のお気に入りのドレスを汚しちゃったりしたんでしょう?」

「わざとじゃないもん! ちがうもん!」

「ええ、わかっていますとも。叱られるのが怖かったから、お姉様が叱られていても黙って見ていたのですよね」

「ちーがーうー! 謝ろうと思ってたもん!!」


 ターニャさんは何度わたくしを驚かせれば気が済むのでしょう。両親がまさか、と顔をこわばらせてカールを見ていました。お人形を壊したのもドレスを汚したのもカールです。あの子は謝らず、わたくしはカールの手の届くところに置いておくほうが悪いと叱られました。


「その時に謝らなければ意味がないんですよ。それに、これはクラリッサお嬢様のお誕生日のプレゼントです。私と私どもの職人が丹精込めて作った宝物でもあります。――大切にしてくれる人に贈ると決めたものです」

「やぁぁだぁぁ――っ!!」


 カールはもはやなぜターニャさんに否定されているのかわからないようでした。耳をつんざくような大声で喚き、手足をじたばたさせて癇癪を爆発させているのを見て、わたくしは恥ずかしくなりました。あれは昨日までのわたくしであったのです。なんてみっともなく、情けないのでしょう。


「クラリッサお嬢様、こちら、大切にしていただけますか?」

「……ごめんなさい」

「お嬢様?」

「わたくしも、カールと変わりませんわ。我儘を言ってみんなを困らせて……。わたくし、お姫様にふさわしい淑女ではありません」


 ターニャさんは目を丸くして、そしてふわっと笑いました。


「お嬢様はご立派ですね。とても頑張ってきたのでしょう、偉いです」

「慰めはいらないわ」

「お嬢様、私には弟と妹が合わせて六人もいますがね、下の子が生まれると上の子はみんな我儘になるもんです。成長の証です」


 六人。子供がどうやって生まれてくるのか知らなかったわたくしでも、それは大変だと思いました。


「言葉が出る……、お話ができるようになっても、自分の気持ちを説明するのは難しかったでしょう。お嬢様はちゃんと大人になっているんです、立派なことですよ」


 それを聞いたわたくしは、はじめてわたくしの気持ちを理解してくれる人に出会えたことに、泣いてしまいました。

 わたくしを見てほしい。愛してほしい。その言葉をどう言えばいいのかわからなかったわたくしは、カールさえいなければいいのだと思っていたのです。そうすればまたお父様とお母様はわたくしだけのものになってくださる。愛という言葉とその意味さえ知らなかったわたくしを、ターニャさんが見つけてくれたのですわ。


 泣き疲れて眠った翌朝、目を覚ますとわたくしは両親のベッドにいました。カールが生まれて以来許されなかったベッド……。出たくなくて布団に潜り込んでいると、母に謝られましたわ。こんなに愛してくれる娘に酷いことをしていた、と。


 どうやらあの後ターニャさんに諭されたそうなのです。幼児の、特に長子の赤ちゃん返りはよくあることだ、と。はじめて競争相手ができて、今まで知らなかった感情に戸惑い、どうしたらいいのかわからなかったのだろう。両親を弟に奪われて、捨てられるのではないかという恐怖は大人には笑えても子供が絶望するには充分である。だから癇癪を起こすのだ。そう言われたのだそうです。

 一日のうちほんの数分でもいい、わたくしの目を見て話を聞いて、抱きしめて差し上げてください。商人風情が公爵夫人に言うには不遜すぎることですわ。それでも言ってくださったターニャさんは、わたくしの天使様ですのよ。


 それ以来家族団欒が増えました。わたくしと、両親と、カール。カールは失敗や悪さをしてもきちんと謝罪できるようになりました。わたくしはそんなカールを褒め、時に庇い、時に一緒に叱られ、それをみんなが微笑ましく見守ってくれました。


 大人とはなんとすごいのだろう。わたくしの中でターニャ・カーは尊敬する大人として心に深く刻まれることになったのです。


 わたくし自身我儘でありましたので、婚約者となったヘンドリック殿下もきっとご自分の気持ちを上手に言葉にできないお方なのだろうと思っておりました。

 ヘンドリック殿下の十歳の誕生日パーティは、はじめてお城に行く緊張と興奮でわたくしは落ち着きがなかったことでしょう。失敗してはいけない、そればかりを考えておりましたので、予定にない殿下のプロポーズに怖くなり、逃げてしまったのです。

 あれは悪いことをしましたわ……殿下にはショックだったでしょう。でもわたくしだって、絵本に出てくるようなお顔の『本物の王子様』にいきなり公開プロポーズされるなんて思わなかったのですもの。おあいこですわ。


 ええ。……わたくしの初恋は、ヘンドリック殿下でした。あんなに綺麗な男の子が自分の前に跪き、花を捧げてくださったら、どんな女の子だって恋に落ちてしまうのではなくて?

 もっとも、初恋の幻想はあっという間に消え去りましたけれど。何度かお会いするうちにこんなはずではなかったと思ったのか、殿下はだんだんと意地悪になっていったのです。

 わたくしは、我儘であった自分を振り返り、殿下の気持ちを理解しようと努めました。


 出会い頭に蛙を投げつけられれば殿下の座るソファにブーブークッションを置いて驚かせ、広いお城の庭で迷子にさせられたらヘビ花火で殿下の腰を抜かせてやりましたわ。

 友人のような、弟のような、会えば嬉しく胸がときめく男の子でしたのよ。僭越ながらもわたくししか殿下を理解できる者はいない、と自惚れてもおりました。

 ですが、徐々に心は離れてゆきました。

 癇癪持ちだったわたくしは六歳、多少口は達者でも、幼児といって差し支えない年齢でした。一方でわたくしと殿下が出会ったのは十歳。口では負けなくとも、殿下のほうが体が大きく、力も強くなっていったのです。殿下は口喧嘩で勝てないと、わたくしに暴力を揮うようになりました。

 とはいえ本気ではなく、痛くはなかったですし痣などができたこともありません。けれども男性に暴力を揮われる、その事実がとても恐ろしかったのです。


 そして、決定的なことが起きました。殿下の婚約者になり、今まで以上に身なりを気にするようになったわたくしに、ターニャさんが新商品を持ってきてくれたのです。アクセサリーを手作りできるキットですわ。


 ターニャさんはわたくしが誕生日プレゼントを喜び、家族との仲を取り持ってくれた恩人として、出入り商人に名を連ねておりました。わたくしやカールが喜びそうなものができると、必ず持ってきてくれたのです。

 商魂たくましいというか、商売上手ですわね。わたくしが喜べば母がそれを社交界で話しますし、父も自慢しますもの。


 ターニャさんに教えてもらいながら母と一緒に作ったのは貝殻のバレッタでした。人魚のお姫様が大好きなわたくしのために、ターニャさんが作ってくれたのです。

 淑女のたしなみとして刺繍はしておりましたが、髪飾りを作るのははじめてです。完成したものはずいぶん不格好でしたが母はたいそう褒めてくれました。わたくしの宝物ですのよ。


 殿下とのお茶会でそのバレッタを見せたのは、手仕事の――なにかをやり遂げる楽しさを殿下に教えてあげようと思ってのことでした。傲慢かもしれません。でも、一つのことをやり遂げればきっと陛下や王妃様も殿下のことを褒めてくれると思ったのです。


 結果はさんざんなものでした。殿下は職人の真似事をしたわたくしを「淑女失格だ」と罵り、労働者にでもなるのかと嘲笑いました。それだけではありません。殿下はわたくしの頭からバレッタを毟り取り、足で踏みつけにしたのです。

 髪が引き千切られた以上に、バレッタが割れて壊れてしまったことのほうが痛かったです。ターニャさんのことは殿下にも話してありました。おそらく殿下は嫉妬なさったのでしょう。新しい珍しいものを持ってきてもらえるわたくしと、わたくしを楽しませることができるターニャさんに。

 ですがそんなこと、当時のわたくしにはわかりません。ただ痛くて悲しくて……あんなに喜んでくれたターニャさんが壊れたバレッタを見たらどんなに哀しむだろう。そう思うと泣いて帰ることしかできませんでした。

 そういえば殿下は謝りませんでしたわね。罪悪感に苛まれたようなお顔はなさっていましたが、この件についての謝罪は結局ありませんでしたわ。


 わたくしの初恋はこれで終わりました。人魚のお姫様が海に帰ってしまったように、わたくしの心はわたくしに帰り、二度と殿下のもとに行くことはありませんでした。


 そのバレッタは今でもわたくしの手元にありましてよ。母がターニャさんに相談してくれたらしく、直してくださいましたの。割れた貝殻をくっつけて、その跡に金箔を貼って模様にしてくれました。つくろい、金継ぎ、というのだそうです。

 ターニャさんはわたくしを慈しんでくれますわ。はじめて会った時からずっと……。初恋が無残に散り、わたくしが理解者である彼を慕ってしまうのは、自然なことではないかしら。

 もっとも、ターニャさんにはわたくしは「お嬢様」のままでしたけれど。子供でしたし、仕方のないことだと思っていても、まったくそういう目で見られていなかったのは悔しかったですわね。


 殿下のことは見限ったわたくしですが、立場上婚約者のままでした。わたくしが嫌いなら婚約を解消してください、と王妃様に殿下の一連の虐めと共にお伝えしたのですが、男の子は好きな子に意地悪してしまう時期があると言われるだけで……。もはや苦痛でしかない妃教育に殿下とのお茶会は続行されたのです。

 その気持ちが楽になったきっかけはやはりターニャさんですわ。外国語や外国の歴史に地理、法律、産物などの勉強を最高の教師陣に、しかも王家持ちで受けられるなんてラッキーだと言ってくれましたのよ。

 なんというか……その通りなのですがあまりにも不遜な意見に開いた口が塞がらない、を体験しましたわ。

 ですが気が軽くなったのも事実ですの。だってわたくしに苦痛を強いたあげく、あの殿下のお守りをさせているのですよ? わたくしが王家を利用しても良いのだ、と目の覚める思いでしたわ。


 それに、外国のことを勉強しておけば、ターニャさんの役に立てるのでは、という下心もありましたのよ。不思議なもので、好きな人のためだと思うとやる気が出ました。

 まあ、意欲的になった理由を聞かれて、


「好きな人のために頑張るのは楽しいです」


 そう、勘違いさせる物言いをしたのはわざとですけれど。いつか殿下に本当のことを告げる日を夢見て頑張りましたわ。


 ターニャさんがわたくしを女として意識してくださったのはいつでしょう……。はっきりとはわかりませんわ。おそらく一年生の夏休みには決意していたように思いますけれど。わたくしはもうずっと、女として彼を見ておりましたわ。

 ああ、でも、あの腕時計。あれはわたくしがもう子供ではないのだとわかったうえで作ってくださったものですわ。ターニャさんは本当にわたくしを大切にしてくださいますの! 学業に役立つものだけではなく、どこにいてもわたくしを守ってくださるなんて、自覚せずともわたくしを想っていてくださったのかしら。

 年の差や身分もあって、考えないようにしていたそうですわ。そうですわね、ターニャさんは大人ですもの、誰かさんと違って自分のことだけではなく社員のことを常に考えていましたわ。

 学院では聖女候補が殿下と親しくなさっていて、このまま彼女を選んでわたくしと婚約破棄してくだされば、傷物令嬢となってターニャさんのところに行けると期待しました。


 ええ、婚約破棄ですわ。本当なら殿下を諌めるべきだったのでしょうけれど、殿下はすっかりいじけていてそんな気も起こりませんでしたの。誰だってどうでもいい人を相手にするより自分の時間を大切にするのではなくて? わたくしを責めるのはお門違いというものですわ。

 お友達に高位貴族の令嬢ばかりを選んだのは、同じ価値観をお持ちで話していて楽しかったからです。あの方たちがわたくしを友としてくださったことを誇りに思っていますわ。聖女候補の『平等』を煽ってやろうという思いもほんの少しだけありましたが、ついでのようなものです。利用するために友人を作ったりしません。それは彼女たちだって同じでしょう。


 まさかその聖女候補があのような恐ろしい存在だとは思いもしませんでした。あの後ターニャさんから洗脳、マインドコントロールについて聞きましたの。本当に、人が人を操るなんて、恐ろしいことですわ。

 他者の悩みを聞き、弱きものに手を差し伸べてその心にするりと入り込む。……まるで悪魔の所業ですわ。彼女に救われたと未だに信じている人がいるくらいですもの。聖女に助けられた、救われたと本当に信じているのですわ。

 盲信、あるいは狂信というのでしょうか。自分が操られていたとわからず、正しいことだと信じて、聖女のために犯罪に手を染めてしまったのですもの。彼女は聖女ですらなかったというのに。


 オデット・イーデルから光魔法が失われ、火属性魔法がほんの少し使えるだけになってしまったのは天罰でしょう。彼女は普通の人間なのですわ。わたくしたちと何ら変わりはありません。魔力は平民並みですので、貴族の保護も外れました。王家は幸いにも彼女を注視していたそうですから、毒牙にかかったのは殿下だけでした。……ただし聖女教とでもいうべき洗脳が解けていない貴族もおりますが。

 オデット・イーデルは多くの貴族を惑わし国家を危うくさせた、国家転覆罪で処刑となります。いったいどれほどの貴族が絡んでいたのか、現在取り調べている最中ですわ。


 わたくしは学院卒業を待って、ターニャ・カーの妻になります。ターニャさんはあれから準男爵に、現在は男爵位を賜りましたの。女子爵となったわたくしとも何の問題なく結婚できますわ!


 ターニャさんはわたくしが笑っていると、嬉しいと言ってくれます。笑うわたくしが一番好きだと言ってくれます。そしてわたくしが幸福であるように、わたくしだけではなく周囲の人々、見知らぬ他人ですら笑顔にしようとしているのです。そういうお方ですのよ。

 幸福とは自分一人でも得られますわ。好きな本、好きな花、好きなお菓子。それらはわたくしを幸福にしてくれます。安いものでしょう? そんなもので、わたくしは簡単に幸せになれたのです。

 ですが、わたくしを不幸にできるのはたった一人だけ。二十も歳の差があるのですもの、ターニャさんが先に逝ってしまうでしょう。幸福のさなかにおりながら、その時を思うと涙が出そうになります。

 だからこそ、ターニャさんはあちこちに幸福の種をまいているのですわ。わたくしに笑っていて欲しいから、わたくしが絶望に呑まれてしまわないように。


 いいえ、言葉として聞いたわけではありません。ですがわかるのです。わたくし、愛されているのですわ。愛しているから愛されているのがわかるのです。だってこんなにも心が震えるのですもの。


「ヘンドリック様がわたくしを愛している、というのを否定はしませんわ。そんな権利はありませんし。ですが、受け取ることはありません」

「なぜだ、クラリッサ。私のほうが君を愛しているし、君を必要としている。私のほうがあんな男よりずっと君を幸せにできるんだ!」


 本当にこの人は何を聞いていたのでしょう。わたくし、さんざん惚気てみせましたのに。どこからその自信が来るのか不思議ですわ。

 ヘンドリック第二王子はヘンドリック・ポターと名を変えられて、冬の離宮に幽閉されています。


 文化研究発表会の一件から、支離滅裂な、気が触れたとしか思えない供述をしていましたが、最近になってようやく話ができるようになり、しきりにわたくしに会いたいと言うもので、陛下の懇願を受けてこうして面会に来たのです。

 ポターというのは王族が罪を犯した場合に与えられる家名になります。王族ですのでうかつに平民に落としてあちこちにご落胤を作られるより、冬の離宮に閉じ込めておいたほうが都合が良いのでしょう。この家名を与えられたら離宮を出た後も王家の廟に名を連ねることはできません。


「幸せにしてみせるなんて、一度でも幸せにしてから言うべきですわ」

「だが、君は私が初恋だと」

「弟のようだったとも言いましたわ。ヘンドリック様、よぉく思い出してくださいませ。わたくし、あなたの前で笑顔だったことがありまして? 作り笑いではありませんわよ、心からの笑みです」

「ある……だろう?」

「いつですの? 会えば嫌味に侮辱、見えないところで叩かれたり、髪を引っ張られたこともありましたわね。お茶会をすっぽかされたこともありましたわ」


 交流のためのお茶会でしたのに肝心の殿下はいつまで待っても来ず、かといって使いを立てて詫びてくることもありませんでした。それが三回続けられたのでわたくしはお茶会に行くことを止めたのです。時間と税金の無駄は省くべきですものね。


「私と会えるのだ、幸福でないはずがないだろう」


 なぜそこまで自信たっぷりに言えるのでしょう。同じ人間とは思えなくて、鳥肌が立ちました。


「……わたくし、あなたと不幸になるつもりはありませんの」


 どんなに愛されていても、それはもう迷惑でしかありません。嬉しく思うどころかおぞましくて寒気がしますわ。


 面会室がドアで区切られていて本当に良かったです。ちいさな窓がついていて、そこからヘンドリック様の顔が見えます。わたくしがヘンドリック様を好きだと、今の今まで信じていたのでしょう。愕然としています。

 衛兵がいるとはいえ何をされるかわかったものではありません。言いたいことは言い終えたわたくしは席を立ちました。子供の泣き声に似た甲高い悲鳴を上げてヘンドリック様がドアを叩いてきました。


「嘘だろう? 拗ねているのか? 許してやるから戻ってこいクラリッサ! お前には私しかいないんだ!!」

「さようなら、ポターさん。もう二度と会わないことを祈りますわ」

「ふざけるな! クラリッサ! クラリッサァァァ!!」


 化けの皮が剥がれるのが早すぎますわ。ドアを激しく叩いている音と、怒号を聞きながら面会室を出ました。

 愛とはどういうものなのでしょう。わたくしは考え続けています。幼い頃のわたくしに、ターニャさんが注いでくれたもの。それはたしかに愛でした。親が子に注ぐ類の愛です。

 人魚のお姫様の絵本はまだ大切に持っています。貝殻のビーズはいくつか紛失してしまいましたがあの箱に入っています。自分で作ったバレッタは学院でも着けています。腕時計は肌身離さず、わたくしを守ってくれています。


 卒業後、わたくしはターニャさんのお嫁さんになります。けれどそれで完結ではありません。愛に終わりはないのです。

 ターニャさんを想う時、心の奥底にあるやわらかに濡れたものがじわりと浸みだしてくる感覚が体中に響き渡るのです。幸せなのに、なぜだか涙が出るような心地になるのです。

 幸福だなんておこがましい。そのように、口に出してしまえるものではないのです。


「ターニャさん、愛していますわ」


 たったそれだけで、なんと世界は輝くのでしょう。ターニャさんの愛するすべてがわたくしには愛おしい。たとえ今までのことが幻想であったとしても、わたくしはきっとターニャさんを愛していますわ。




温度で髪の色が変わるお人形ってありましたよね。

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