第2話−3:ガルテア包囲
この大陸から戦火が消えなくなって久しい。
雲すらも血のように紅く染まり、風は死者の声を運び、すすり哭いている。
大地を耕す農夫の顔は、黒い影に覆われている。帰らぬ子や、夫を思い忍び泣く声があたりに満ちて、景色は色を失う。
灰色の空気の中、街の雑踏も虚しく響く。
野山に聞こえるのは殺戮の鉦と断末魔の叫び。
まさしく乱は極まった。
新しい秩序が求められていた。歴史の要求は大陸の東西に二つの大国を生む。
風彪が出廬する一六二六年からおよそ二〇〇年前、一四一二年に大陸の西側で一つ目の大国は生まれる。ガルテア帝国である。
この日はあいにくの雨であった。土砂降りではない。水で薄めた墨を刷毛で空一面に塗ればこのような色になるだろうか。しとしとと雨を降らせる雲は春らしく明るい。
白い漆喰で塗り固められたレンガ造りの家が、道を通す隙間もないほどにひしめきあっている。晴れた昼間には鏡のように、強烈な日光を打ち返す町並みも今日は穏やかにたたずむ。
平和に見える光景のすぐとなりに危機は迫っていた。ところどころ欠けて、あるいは黒く焼け焦げた城壁の向こうには、色とりどりの旗が林立しているのが、霞んで見えた。
ガルテアは包囲されている。海に臨む市の西側にも、大河の横たわる南側にも、赤や緑の旗をなびかせた大小の船が、蟻の這い出る隙間もないほどに埋め尽くしている。
平時なら軽く、心地よく感ぜられる春の雨も、今このときにはこの国の行く末を暗示するようで、とてつもなく重く思える。
壁と水に囲まれた都市の中心に、小高い丘がある。よどんで見える丘の上にガルティス神殿がたっている。
神殿に祭られているのは海と交通の神、メッサナである。神殿の奥深くに安置されているその像は、子供とも大人とも、男とも女ともいえぬ、中性的な顔つきをしている。月桂樹の葉でつくられた冠をかぶり、袖のない簡単な肌着と足首までゆったりと覆う腰布を巻き、素足をのぞかせている。
真っ直ぐに立ち上がったその右手は舟を漕ぐ櫂を握り、開いた左手は夜の闇を照らす炎をのせて天へとのびている。しかしもはや誰もかえりみなくなったその肩には、数百年という歳月が灰になって積もっていた。
かつて西方世界は多神教の世界であった。町には神殿が必ず一つはあり、そこに神がいたのだ。それは商売や豊穣を司る身近なものから、戦や国家守護まで様々であった。
しかし、大陸暦が三桁から四桁に変わるころ、変化が起こる。それまでは数ある宗教の一つに過ぎなかった、ミレナム教が勢力をのばしてきたのである。
ミレナム教は厳格な一神教で、絶対神アクフ以外の神を認めない。このミレナム教の普及によって土着の信仰のほとんどが失われてしまった。
神話は残ったが、そこにあらわれる神々はもはや信仰の対象ではなくなった。文学や芸術の分野において主題として描かれる程度のものである。
もちろん、文化は同心円状に広がってゆくものだから、辺境にはアクフ神と在来の神を並べて祀っているようなところも見受けられるが、大商業都市、「世界の半分」とまで称されたガルテアにそれはあてはまらない。
メッサナも、そうして忘れ去られていった神の一人であった。
南にむいた入口から、神殿のうちで最も実用に供されている会議場へと続くまっすぐな回廊の、左右に立ち並ぶ大理石の円柱には浅い溝がくっきりと浮かび、中ほどはややふくらみをおびている。
いかめしく並ぶ柱のむこう側が会議場である。もとはメッサナに祈りを捧げるものたちの控室であり、一種の談話室であったが、ミレナム教が拡がってからはガルテア評議会場として使われている。
前述のとおり、ガルテアは目下のところ、敵対するほかの商業都市を中心とする連合軍に包囲を受けている。
すでに連合軍からは降伏を勧告する使者が出された。
ガルテアの総兵力は商家の護衛などを含めて二万あまり。市内の非戦闘要員を徴発すれば五万前後といったところ。
このころのガルテア市街はレーヌ川の河口のうち、北岸のみに広がっている。点在する三角州にまで市街が膨張してゆくのは、さらにあとのことである。
一方、空白の砂地に幕舎を張り、あるいはやわらかい雨にかすむ海に船を並べている連合軍の総兵力は、なんと五十万という大軍であったとされている。
が、種々の事情を考え合わせるとこの数には誇張が含まれていると思われる。自軍を鼓舞し、敵軍を消沈させるため、兵力を実数より多く号することは日常茶飯である。連合に参加した都市や国々の規模からして、実数は二十万前後であったと考えられる。
通常、城攻には敵の三倍以上の兵力が必要とされる。この二十万という数字はそれをはるかにうわまわる。ガルテアが勝ちを得ることは万に一つもないように思われた。
さすがはガルテア、という戦をしてから降伏するならすればいい。はなから降伏というのは、後々のことを考えると損の方が大きいように思われた。