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虹色のマーブルと運命の本 第一部  作者: 本堂モユク
第一部 空ろなる道連れ
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第五十話 母親

 母親がどんな人かと聞かれれば、聡明な人だと答える。

 何を聞いても瞬時に答えが返ってくる。頭の回転が速い上に、どこから仕入れているのかわからない知識が膨大にある。テストの点数の取り方や運動神経を良くするコツ、好きな子と仲良くなる方法など学校生活のことだけではなく、小学校教員の平均給料、紛争地帯の情勢、カエルの美味しい調理法など役に立つか分からない、興味本位だけで終わる質問に対してもまるでAIのようにすらすらと答えた。母に対しては物心ついた時から畏敬と畏怖の念が同居していた。

 母親と仲が良いかと聞かれれば、それはないと思ってしまう。

 子どもの頃からこの人が苦手だ。人の言葉尻を捉えて、ねちねちと論理的に相手の非を認めさせる技術に関しては天才的で、誰かに言い負かされたことはおろか動揺したことさえない。いかに頭脳明晰、博覧強記な母親といっても、一緒に過ごしたいと思えるかどうかは別だ。少なくとも俺にとっては、心から信頼してなんでも話せる相手ではなかった。

 その想いは、家を出て三年目になる今でも、今のところ変わっていない。


 道を歩いていると黒猫とすれ違った。

 黒猫は俺の姿を見て一瞬動きを止めた。こちらを警戒しているように見えたが、足早に立ち去ることはなく、ゆったりとした動きで歩いていった。手を伸ばせば触れられるほどの距離間で、こうも優雅に歩けるものかと感心した。そしてすぐに気味が悪くなった。まるで自分の存在など気にも留めていないような黒猫の振る舞いに。

 まるであの人みたいだ。

 学校の近くにあるコンビニに寄って、普段は目にしない、手に取ることもない新聞を見て日付を確認すると、やはり。日付は三年前。中学二年生の俺が存在するはずの世界だ。

 その事実を目の当たりにした時、俺の足は自然と自宅へと向かっていた。

 中学卒業後に家を出て、高校の近くでアパート暮らし。正月の時だけ帰省していたから、母親に会うのが数年振りというわけではない。でも。

 自宅に着くと、玄関のチャイムを鳴らす前にふう、とため息をついた。いつの間にか身に付いた無意識のルーティーンだ。

 チャイムを鳴らす。

「はい。どちら様?」

 3秒も経たないうちに母が応答する。

「俺だけど」

「オレダケド?失礼、どちら様ですか?」

 少し苛立ちがこもった無機質な返答だ。ふざけ半分で聞き返しているわけではないことは明らかだった。俺は丁寧に言い直す。

「あなたの息子の一志です」

「あら、早かったわね。どうぞ、お入りなさい」

 カチャリ、と鍵の開いた音がした。玄関の戸を開ける前に、ふう、と俺はもう一度ため息をつく。

「おかえりなさい――あら。あなた……」

 中学生の息子が高校生になって帰ってきたのだ。普通の母親ならフリーズする場面だ。こちらとしても今起きている出来事をどんな風に説明して信じさせればよいのか苦心するところだが、この人の場合に限ってはそんな必要はなかった。

「数年先の未来からやってきたのかしら」

 

 居間には長方形のテーブルがある。その中央にはいつも花が飾られていた。今日は紫色の小さな花だ。うちの庭にはない花だ。わざわざ花屋から仕入れているのだろうか。

 椅子に座ると、母は客人用のマグカップをテーブルに置いた。麦茶が注がれている。

 ありがとう、とちゃんと感謝の言葉を口にしてから麦茶を飲んだ。よく冷えている。

 今起きていることを説明したいと言うと、その前に、と母は手の平を向けて俺の言葉を切った。

「気になったことを言ってもいいかしら」

 俺はうんざりした表情を作らないように気をつけつつ、どうぞ、と手を前に出した。

「気のせいかしら。あなた、ため息をついてから入ってきたように見えたけど」

「えっ」

 玄関ドアを開ける前の小さなため息。あれが聞こえたのかよ。なんて地獄耳だ。

「あなたは今朝私が送り出した一志ではないわね。いくら成長期でもたった数時間で身長が七センチも伸びるわけがないし、顔つきも違うわ。そう、三年ほど年を取ったように見える。それでも、あなたは一志でしょう。私には分かる。だからここはあなたの自宅。自宅というのは誰にも邪魔されない安心できる空間のはずでしょう。なぜため息をつく必要があるのかしら」

 俺は返す言葉もなく項垂れた。反論する気力が失せたわけではないけど、どうせ説教はまだ続く。

「何か深刻な事態が起きているのは分かるわ。私に説明しなければならないことの多さに辟易していたのかもしれない。それでもあなた、これから助けてもらう相手に」

 俺は両手を左右に振り母の言葉を遮った。普段なら母の言葉を遮るなんてありえないけど、ことがことだ。

「ごめん、母さん。今は非常事態なんだ。まずは俺の話を聞いてくれないかな」

「失礼。今、なんて言ったの」

 まずい。母の怒りに触れてしまっただろうか。

「あの、非常事態って」

「その前よ」

 その前?

「え、ええと。ごめん、母さん……?」

 薄氷を踏むように慎重に記憶を辿って十数秒前の発言を再現する。

 一体どんな理由でお叱りを受けるのか、まるで予測できない。

 俺が戦々恐々としていると、母は少し長く、ゆっくりとした瞬きを繰り返した。

「いいわ。一志が帰ってくる前に話しなさい」

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