簪
田辺茂吉という男は、実直な仕事ぶりで評判も良く、親から引き継いだ呉服屋の商いも順調だった。
見合いではあるものの好いた女を嫁にし、女房もまた同様であるという、界隈ではよく知られたおしどり夫婦であった。
正に全てが順風満帆。
——その筈だった。
とある日。
橋を渡ったところにある小料理屋 吉乃に、茂吉の姿があった。
間仕切で仕切られている大衆向けの広間への入口へは向かわず、奥の方へ入ったところにある戸を開け中に入ると、回廊を通り抜け、慣れた様子で何時もの個室に入る。
彼のお人は、毎度この吉乃へと茂吉を呼び出すのだ。
今回も多分に漏れず、何やら用向きがあるようだった。
その日の商談は、ほぼいつもと変わらない遣り取りに終始し、——とはいえ、茂吉からしてみれば相手は雲上人も同様であるから、決して粗相があってはならぬと我が身に言い聞かせ、背に汗を掻きつつも表面上は恙無く商談を終えたのであった。
「うむ、此度の取引も大方満足しておる。また出物があった際には頼む」
彼のお人は何時もと変わらず、終始最小限だけ口を開き商談を〆る。只、それでいて必要な事柄は確確と伝えられ、不手際が起こったことなぞこれまで1度たりとも無かった。
それ故、茂吉もそういった意味でこの顧客の事を信頼に足ると判断していた。
「はっ、ありがたき幸せ。何卒、今後も是非御贔屓に…」
言いつつ茂吉が深々と頭を下げるのを何時ものように見、男は一瞬の間思案するかのような色を微かに目に浮かべたが、やがてそれを打ち消すかのように軽く左右に頭を振ると、常とは違い、珍しく足早に部屋を去って行く。
冷静であれば客人の辞去に常よりもほんの少し時間がかかった事に気づけていたであろうが、この時未だ緊張状態である茂吉には、特段変わった事は起こっていない様に感じられた。というよりは、何も感じなかったという方が正しいだろう。
まさかこの時買い受けた簪が後々問題となるなぞ、茂吉からしてみれば予想だにしない事であった――。




