前夜
少し加筆しました
丁稚もとうに引き上げ、すっかり暗くなった土間から見える机の上には蝋燭の火が揺れている。
書付けの途中だったのだろう。開いたままの帳簿をはじめ、畳に至るまで墨が飛び散っている。
この呉服屋の主人は、床に這いつくばっていた。
――時は少し遡る。
「なっ…なぜだ!なぜおまえが…」
言いながら、呉服屋の土間を茂吉がじりじりと後ずさる。
「なぜだと?理由なぞ手前ぇが一番よくわかっているのではないか?」
気づけば、いつの間にか額にはじっとりと汗を搔いている。
相対する男から発せられる圧は凄まじく、相当の場数を踏んだと自負のある茂吉でさえ圧倒されるほどの気配に、全身がガクガクと震えてくる。
田辺呉服屋の主人、田辺茂吉は、当時その界隈では一流と評判のあった滑川沿いの道場門下生の中でも、十年に一人とされる逸材であった。
その体躯は決して大柄ではないどころか、むしろ153センチと小柄ではあるものの、驚くべきはその俊敏さ、体の軽さであった。
「あっ」という間に相手の懐へ飛び込み、その胴へ突きをくらわす。かと思えば、類まれなる速さで肉薄し、あまりの速さに相手が動けずにいる間に決着がついている事が常であった。
だが。
その茂吉が、今目の前にいる男相手に、反撃はおろか逃げすら打てずにいる。
茂吉は知っていた。目の前の男には実力で到底かなわない事を。
――このままじゃまずい。どうにかうまいことこの場を乗り切らねえと、我が身に明日は無ぇ…。
なにしろ、目の前で無慈悲に斬り捨てられた人間を何人も見てきている。
全身を伝う汗がいやに冷たい。そして茂吉の焦りを示すかのように、後からどんどん出てきて止まらない。
「しっ、知らなかったんだ!あの簪がそんな重要なもんだったなんて!」
恐怖と焦りにうまく回らない舌で言い募る。
「…ほう。では、今知ったという事か」
少しの嘘でも許さぬとばかりに鋭い、が、感情を読ませない目をして男が言う。
「そ、そうだ!あんたが俺に言わなきゃ知らないままだったさ!」
「そうか。では、どちらにしろ『知っている』という事だな」
「えっ、まっ待て!まっ……」
男は抜刀したかと思うと、袈裟斬りに刀を振り下ろした。
「ぐぅっ…!」
すんでのところで胴へ当たるのを躱したが、左腕から血がだらだらと流れている。茂吉は必至で戸の外へ転がり出た。逃げなければ――。
たたらを踏みながらも走り出そうとした矢先、左胸を背中から刃が貫く。
「はっ…!」
茂吉の体はドサッと音を立てて地に沈み、だが、まるで生へしがみつくかのように右手を前方に伸ばし、何とか立ち上がろうとしていたが、やがて力尽き、息絶えた。
刀を振り、血を飛ばした男は、茂吉が息絶えたのを確認すると、苦虫を嚙み潰したような顔で通りを去っていった。
時は亥の刻、日付が変わるまであと2時間ほどという頃だった。




