第十九話 まひるとまよい
曲が終わっていく。
夏でも冷たく暗いはずのライブハウスの中を、残響と熱気が満たしてる。
最後に高らかに指を掲げたまひるは、じっと眼を閉じていた。
私も少し、眼を閉じて、その残響に耳を澄ませた。
一分、二分。
どれくらい経ったかもわからないまま、眼を閉じて、やがて演者の少し荒れた息遣いだけになった。でも、場を満たしている熱は不思議と消えない。
絶頂にも近い高揚感に呑まれるような、そんな空気。現役の時でも、ここまでのライブは片手で数えるほどしかなかった。
ふぅと少し長めに息を吐く、いつのまにか眼元から零れ落ちていた雫を流し尽くすみたいに。
そうしてゆっくり眼を開く。
丁度同じように、眼を開いていたまひると視線が合った。
「―――」
「―――」
少しだけ、沈黙が流れる。
「…………まよい」
まひるの声。
「…………なに?」
ぶっきらぼうな私の声。
「…………なんか…………ちゃんと伝えられた?」
いつも通り、あんだけ唄ってた癖に、自信なさげに困ったような笑みを浮かべて。
「………………バカ……歌一つでそんな簡単に伝わんないわよ」
いつも通りの、低くて掠れた、憎まれ口。
「そっか…………結構、頑張ったんだけどな」
軽く浮かんだまひるの苦笑い。
「バカ……そもそも、なに今の。あの曲に、あんな歌詞なかったでしょ」
眼を伏せる。
「うん、今付けた。なんか、あのまま終わりたくなかったから」
ぼたぼたと、散々零したはずの雫がまだ落ちる。
「…………急造メンバーでそんな無茶なアドリブすんなっての。ほんと…………バカなんだから」
膝が落ちる、零れた雫を隠すみたいに。
「……………………」
「バカ…………バカ……」
すとんと、ステージから降りる足音がした。
「そーだよ、私バカだよ。だから言ってくれないとわかんない」
足音が少しずつこっちに向かって、進んでく。
「……そんな簡単じゃないじゃん、察しろバカ」
零れる、文字通りの泣きごとが。
「唄ったら、言うって言ってたじゃん。そっちこそバカ」
「うっさいバーカ」
「バカバカバーカ」
子どもみたいな、そんなやり取り。
膝を抱えて、うずくまる。そんな私の眼のまえに、まひるはすとんと腰を下ろした。
視線はまだあげられない。
「言えるわけないじゃん、バカ」
こんな醜い心。
「でも聞きたかったよ」
………………。
「辛いなら、辛いって言って欲しかった。苦しいなら、苦しいって言って欲しかった」
‥‥……………………。
「知りたかったよ、ずっと一緒にいたんだからさ」
………。
「失望するわよ」
漏れた声は、低く醜い。
「もうしてる」
そんな答えに思わず笑いが漏れた。そりゃそうか。
「―――それでも、聞きたかった」
そう言った、まひるの声は、ただ静かで。少し疲れたような響きがあった。
そうね、疲れたわね。私も、もう、こんなふうに苦しむのに少し疲れたかもしれない。
苦笑しながら、ゆっくりと、一言一言確かめるように口を開いた。
「―――憎かった、あんたのことが」
まひるの顔は見えない。
「人の苦労をなんとも思ってないみたいで、才能だらけの天才で、私の曲だけ歌ってりゃいいのに、他人の曲まで歌い出して…………」
咳が漏れる、喉が腫れてうまく声も出ない。
「…………好きにすればって言ったじゃん」
「はは…………そうね、そういうとこが、ホントにも私もバカだった」
素直に伝えなかった言葉はもう取り返しもつかないけれど。
「ずっと」
「ずっと一緒なんだと想ってた」
「あんたのほんとは私だけが知ってて、私のほんとはあんただけが知ってて」
「あんたは私だけのものだと想ってた。あの部屋でずっとああやって、二人で唄を創り続けるんだって想ってた」
「でも、そうじゃなかった」
「あんたはずっとずっと、高い所まで、一人でどこまでも飛んでって」
「私はそこまで、高く飛べなかった」
「羨ましかった」
「寂しかった」
「一緒について行きたいのに、ついて行けない自分が何より嫌だった」
「ごめん」
「ごめん」
「ひどいことした」
「許されないくらい傷つけた」
「みんなで一緒に見てた夢を、私のせいで終らせた」
「ごめん」
「ごめん」
「こんな、こんなことも―――今までずっと言えなかった」
「ずっとずっと」
「何も言えなくて――――ごめん」
「ごめん」
喉が痛い。
涙で口も、眼も、鼻の奥も、全部全部痛くて仕方ない。
なのに雫は止め処なく、みっともなく溢れてくる、抑えようもない。
許されるはずもない、謝ったところで何もない。
それなのに、後悔と懺悔の言葉が止まらない。
一年半、あの日ぱららいずが解散した日から、それよりもずっと前から。
胸の奥で蓋をして、抑え続けたことが、溢れ出して止まらない。
零れた嗚咽を、漏れ出た涙を、終わりのない悔恨を。
何所に向ければいいのかすらわからない。
「ごめん」
こんな言葉に、何の意味があるんだろう。
こんな身勝手な私なんかの言葉に。
何の意味が。
「いーよ、別に、許してあげる」
「……………………」
まひるの声。
「だから代わりに、私の話、ちゃんと聞いて?」
眼を上げた。
まひるの真っすぐな瞳が私の瞳と交わった。
「―――あの時、気付けなかった。まよいはずっと苦しそうな顔してたのに、ずっと二人で一緒に居たのに、気付けなかった。いっつも好き勝手してたし、私のせいで炎上した」
「そんなの―――」
私のせいのなのに。
「だから―――ごめん」
「………………なんで?」
「うん?」
「なんで……あんたが謝んの。悪いの……私じゃん」
「…………私も悪いし、正直、ずっとそう想ってた。炎上も私のことだし、私のせいで台無しにした」
「……バカ、どう考えても私が悪いでしょ。炎上したのも結局、私が悪いわけだし」
「…………でも」
「だから……どう考えても、私の方が悪いでしょ」
「…………私の方が悪いよ、多分」
そう言って、目線をそらすまひるはどこかバツの悪い子どものようで。
どうしてか、ため息が一つ漏れた。まだ頬は涙で濡れたまんまだけれど。
「そんなこと悩んでたの? あんたほんとバカね」
そういうとまひるは少し顔を紅くして、目一杯こっちにしかめっ面を見せてたきた。
「だって! そりゃ悩むでしょ! あんなことあって、自分だけ責任ないなんて想えるわけないじゃん!! 結局、私が全部台無しにしちゃったんだし!!」
「ほんとバカ」
「うるさい、うるさい! うるさいなあ!! まよいはいっつもそう! 悪口ばっかでさ、人の気も知らないでさ! こっちがこの一年半、どんだけ心配して、どんだけ悩んだかも知らないで!」
「知らないわよ、わかるわけないじゃん。口にしてないんだから」
「自分だって、何も言ってこなかったくせに! なんなのさ!!」
「そーよ、だから私達お互いバカじゃん」
「はあ?! 何それ!? 意味わかんない、もー、もー、もー!!」
まひるはそう言って、顔を真っ赤にして、さっきまでとは違って、今にも泣きそうな表情で必死に私のことを指さしている。
そんな顔を見ていたら、思わずついに吹き出してしまった。はは、もう何やってんのよ、こんな大事な時に。
「うるさい、次、口答えしたらもう二度と口きかないから」
「さっきまで自分がそもそも口開いてなかったんじゃん!」
「はい、口答え、もうきかなーい」
「とか言って、三十分後に自分から愚痴言いだすんでしょー、何回やってんのこのやり取り」
「さあ、十回から数えてなーい」
「五十はやってるね、だって、まよい素直じゃないから」
「うっさいなあ、そーよ、素直じゃないの私」
「開き直んないでよ、もう…………」
「だって、どうせ知ってんでしょ……?」
「知ってるけどさあ…………」
そうやって、子どもみたいな喧嘩をした。
そういえば、あの小さな部屋で唄を創っている時、こんなやり取りを一体何度したんだろう。
それこそ、きっと五十じゃきかない。何度も、何度も。たった三年の中で、何度もそんな喧嘩をしていた。
それを想い出すと、不意にまた雫が零れだしてきて。まひるの奴はそんな私をみてあてられたのか、さっきまで子どもっぽく真っ赤になっていた表情のまま、急に泣き始めた。
まるで、いつかの頃みたいに。
まるで、まだ何一つ現実を知らないまま、夢だけ見てたあの頃みたいに。
子どもが二人泣いていた。
ずっとずっと、仲直りができなかった。
そんな二人が泣いていた。
ついた疵はもう二度と消えはしない。
犯した罪も、すれ違った過去も、何一つだって消えることはない。
それでも、私たちは今日、何かを交わせたんだろうか。
わからない、わからないから泣いていた。
子どもみたいに、えんえんと。
そうして気づいたら、私のそばに、佑哉さんと文音さんが座ってて。
まひるの傍には、あさひとドラムの女が寄り添って。
ゆうは真ん中で、器用に私達両方の頭を撫でていた。
私の犯した罪は赦されるものじゃない。
すれ違った過去も、もう取り戻すことなんてできない。
それでも今、何か伝えることはできただろうか。
貰った言葉に、釣り合う何かは渡せたろうか。
わからない、わからないけど。
きっとあの日、本当はしなきゃいけなかった、この喧嘩を。
私たちは、今日、初めて出来たんだ。
そうやって取りこぼした想いを一つ一つ拾っていけたら。
いつか、この胸の奥を蝕んでいく痛みも、なくなるだろうか。
そんなあてもない夢を見ながら。
私達は泣いていた。
お互いが泣き止むまで、ずっとずっと。
喧嘩した子どもが二人。
言い損ねた言葉を抱えた時間の分だけ、ずっとずっと。