決意
「紗雪は藩主の娘だからなあ、失うわけにはいかないからなあ」
その言葉は爆弾に等しかった。
「何……ですって?」
「くくっ、紗雪は藩主御落胤なんだよ。そりゃお前も必死になるだろう。分かるぞ新次郎」
「な、ちが……」
否定の言葉が今ほど虚しく聞こえた事はない。ここにきて初めて、新次郎は思い至っていた。
父が婚儀をやめなかった理由、それは秘密漏洩を恐れたからでも何でもなかった。ただひとえに紗雪の身柄を求めたからなのだ。
紗雪の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれている。顔色は真っ青だった。
彼女は自分の血筋を疑った事など、一度もない。当たり前の、一藩士の娘として生きてきた。それが、なんて事だろう。
新十郎の言葉が耳によみがえる。
紗雪が死ねば、永穂家も潰れるという、その言葉の意味がこれだったのだ。
絶句してしまった二人を新十郎は嘲笑い、なおも言葉を継ぐ。
「大事な試合前によくここまで来たものだ。あの新九郎もよく許したものさ。どうだ新次郎、本当に止められたか。意外とすんなり許されはしなかったか?」
「くっ……」
「分かっているだろう、新次郎。御落胤は失えないよなあ」
「兄上えっ!」
「もう止めてえっ!」
その瞬間、新次郎は思わず抜刀していた。抜き打ちに斬り込んでいくその視界の隅に、耳を押さえてうずくまる紗雪が見える。剣閃は幾分鋭くなったかも知れない。
だが、激情に駆られただけの剣など、新十郎はあっさりと外した。刀も抜いていない。
「ふっ、新次郎。貴様にこの兄が斬れるか」
その言葉は、応現流正統の誇りを背負ったからこそのものだった。
新十郎は、紗雪を人質として使う気など欠片も持っていない。
新次郎があくまで敵として向かってくるのなら、隠業など応現流正統の剣をもって下すだけの事だ。所詮隠業など、応現流表業の前には添え物に過ぎないのだから。
そんな新十郎に対し、今まで感情を殺すことが常だった新次郎にしては珍しく、本気で怒っていた。
新十郎は明らかにわざと紗雪を傷つけた。端的に言ってしまえば泣かせた事が許せないのである。
抜いた剣はそのままに、新次郎は兄を見据える。
ゆっくりと、だが確実に剣気が集まりつつあった。さすがに新十郎も気付き、彼もまた、刀を抜き放つ。
剣を抜き合わせてしまえば、二人の剣は明らかに対照的なものだった。新次郎の剣気が張りつめ、押し殺されたような質を持つのに対し、新十郎のそれは鮮烈に放たれ、突き抜けていくような質を有している。
そして新次郎は口を開いた。兄を見据える瞳はそのままに、ゆっくりと独白する。
「確かに代役で会った姫です。けれど、姫は私を見てくれた。分かりますか、兄上、『新十郎』ではない私を、見つけてくれたんです。……だから私は来た。御落胤なんか知った事か! 紗雪を失いたくないんだ!」
視線は重ならない。だが刹那、紗雪は新次郎を見詰める。意志の輝きを放ち、己が兄を見据える、その瞳を。
「ふざけるな!」
瞬間、新十郎は激昂していた。
自分の妻になる筈だった紗雪も、今まで大切に育ててきた役目も、栄誉も、全てが新次郎のものになろうとしている。応現流の影たる男のものに。
新次郎の役目は新十郎にこそ捧げられてきた筈ではないか。
今、新十郎を縛り付ける想いがそれだった。
そしてそれは、容易に殺意に転化していく。
対する新次郎の方は逆に、静かな面持ちに変わりつつあった。
始めの内は新次郎もまた、言い様のない嫌悪感と共にあったものだ。
彼の記憶の中の新十郎は、強く、剛毅な男だった。常に真っ直ぐ胸を張って歩いている、尊敬すべき兄だった。
それをここまで変貌させたのは断じて病などではあり得ない。病によって露呈しただけの、お家大事という思想の歪みそのものが、新十郎を打ち倒したのだ。
それは実体としての価値よりも、役目に重きをなす思想だった。そしてそれは新十郎のみならず、今も新次郎を縛っている大きな鎖なのだ。
だが、そんな思いも、次第に些末な事のように思われてくる。
新次郎は今、新十郎の背中越しに紗雪を見詰めていた。
紗雪は何も言わない。言いようがないと言ってもいいだろう。そんな紗雪のために、何もかもを捨てる覚悟で新次郎はここに来たのだった。
それだけが譲れないのだ。
「来るがいい、新次郎」
深編み笠の奥で炎が揺らめくように、新十郎の瞳が光った。




