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異相

「気が付いたか」


 それは異様なしゃがれ声だった。深編み笠のせいか、やたらとくぐもって聞こえてくる。


 破れ障子が風に耳障りな音を立てていた。

 少し体を動かすだけで軋みを立てる板間には、うずたかく埃が積もっている。

 もとは仏像の据えられていたであろう壇も今はがらんどうで、差し込む日差しにうっすらと宙を舞う塵が光って見えていた。


 人の手が入らなくなって随分と経つようだが、元は寺だったのだろう。

 本堂のようなだだっ広い板間に、紗雪は転がされていた。お愛想にもなりはしないが、一応、体の下には(むしろ)が敷いてある。


「どなたですか?」

「ふっ」

 紗雪の問いかけに、その男は答えようともしない。ただ笠の向こうで笑う。


 男は異様な姿をしていた。

 裾の長い着物で全身を覆い、しかも表に見える胸元や腕など、全てに(さらし)が巻いてある。顔は深編み笠に隠されており、結局素肌という素肌の、見える箇所がない。


「拐かし、ですか?」

「ああ、そうだな」

「何故です? どうしてそんな事を?」

「さあ、どうしてだろうな」


 気丈にも物怖じを欠片も見せない紗雪の問いをはぐらかしつつ、男はまた笠の向こうで笑っていた。と、何か痰でも絡んだのか、ひとしきり咳き込む。

 ここがどこなのか、紗雪には見当もつかなかった。今がいつなのかも分からない。


「復讐だよ」

 突然、呟くように男が言った。先程はぐらかした筈の問いに答えたのだろうが、だが、それはどちらかと言えば独白に近い。


「復讐、ですか?」

「ああ、そうだ。……永穂家を、潰す」

 返答を期待していたわけではない。だが紗雪の問いに、男は答えた。それも、紗雪にとっては聞き捨てならない答えである。


「お前は餌だ。お前がここにいれば永穂はここに来る。試合は潰れるな」

 再び男は、笠の向こうで笑い声を立てた。


 暗い欲望に身を任せているのだろうか。

 決して楽しげではないその笑いには、陰惨ではあるものの確かに喜びが籠もっている。


「もし来なければ、お前を殺す。そうすれば永穂も潰れる」

「えっ? ……それはどういう事です?」

「さあ、どういう事だろうなあ、はははっ」


 紗雪は得体の知れない恐怖を感じていた。目の前の男が理解出来ないのだ。

 心細くはあった。何しろ拐かされた身である。これから待ち受ける運命にも、決して明るいものなど混じってはいまい。


 そしてまた、純粋な力としての恐怖も、目の前の男は嫌になるほど持っている。

 決して思い出したくもない記憶。目の前で起きた、生まれて初めて見る殺し合い。馴染み深い永穂道場の門弟達を、有無も言わせず切り捨てていった力。


 だが、それら全てを忘れ去ってしまうほどに今、恐ろしかった。目の前の男は、紗雪の住む世界と全く接点がないのだ。意図も、感情も、推測する事さえ出来ないのである。


 何に怯えていいのかさえ分からない、それは不気味な感覚だった。


「はははははっ、そうら、喰い付いた」


 突然男が叫び、刀を杖に立ち上がった。何が起こったか、紗雪に分かろう筈もない。

 だが、先刻の男の言葉から考える限り、永穂の者が来たという事なのだろう。


 自分が震えている事に、紗雪は気が付いていた。それは抑えようもなく胸の奥から湧き上がってくる。恐怖の故か、それとも男の予言に対する不安の故か。


(お願い、助けて)

 拐かされてから初めて、紗雪は祈っていた。そしてそんな時に頼れる相手を、彼女は一人しか知らない。


 もはや紗雪の方には目もくれず、男は本堂の外に向かって叫んでいた。

「よく来たな!」

 荒れた山寺に侵入していた新次郎は、突然声を掛けられて少なからず驚いたものだ。


 いきなり気付かれるとは意外だった。だが、気付かれた以上、無駄に身を隠す意味もない。

 新次郎は正面から本堂に足をかける。相手が一人だけだという事は、既に確認済みだった。


「さすがだな、思ったより早かったぞ」

「蛇の道は蛇、手はいくらでもある」

 やけにくぐもった不思議な声に答えながら、新次郎は破れ障子に手を掛ける。


 開け放ったその先に、問題の男は立っていた。その立ち姿は新次郎の良く見知ったものだ。重心の取り方など明らかに永穂応現流のものである。父の言葉の証明だろう。


 だが、その体型は多田のものではなかった。

 それどころか、もっと馴染み深い、あまりにも良く知りすぎているような……。


「新十郎様っ」

 姿が見えて安心したのだろう、今にも泣き出さんばかりの表情で紗雪が叫んだ。

 刹那、新次郎と紗雪の視線が絡み合う。


 その時だった。


「あっはははははあっっ!」

 薄暗い本堂に哄笑が響き渡る。深編み笠を振り落とさんばかりに身を折って、男が笑っていた。

 何がそこまでおかしいのか、それは異常な光景だった。


 その男を見る紗雪の瞳には明らかに怯えが刻まれ、だが、男を見る新次郎の顔には、次第に驚きが刻まれていく。

 腹を抱えるふとした仕草。笑いに混じる声の張り上げ方。あまりにも馴染み深い……。


 そして、男は新次郎を見据える。

「はははっ、今呼ばれたのはお前か、それとも俺か」

「まさか……」


 死んだ筈だった。そう聞かされていた。

 だが。


「まさか、兄上っ?」

「ああ、そうとも、弟よ」


 立っているのは死んだ筈の永穂新十郎忠明、まさにその人だった。

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