玉座の間
「クッ…………!?」
恐怖と焦りが雪のようにチラチラと降り積もる。
それは大和の足元を完全に埋めてしまい、彼の一歩を、そして一手を奪っていた。
寸先にあるロゼネリアの無防備な首。けれど天之尾羽張はその僅かな距離を埋めることが敵わない。
今や、陽明神社を占める神気は日本古来のものではなく、邪悪なる堕天のそれである。
繋錠光輪――生命樹の天使が持つ力と理の本質が、今まさに曝け出されようとしていた。
「さあ、ご覧ください。面白いものではありませんけど」
長く、美しいブロンドが風に揺れる。艶やかに、嫋やかに、ロゼネリア・ヴィルジェーンがその唇から聖なる名を寿いだ。
『――神聖なる王位の証し――』
「ッ!?」
それは荘厳。
「ぁ……ぁぁ…………」
それは賢聖。
「……そう委縮しないでください。いきなり襲ったりしませんので」
そして、慈愛に満ち足りていた。
ケセド――第四のセフィラが象徴するものは慈愛であり純粋愛。
生み落とされた森羅万象に概念をも与え、それは即ちこの世の頂で鎮座していることに他ならない。
戴冠し、玉座に坐した美しく、比類なき女王の姿がそこにはあった。
雷獣など駆逐され、驕る天女は地に落とされ、黄泉返った死人は再び墓穴へと埋め立てられるのだ。
高みの女王。侵せぬ領域。それこそが第四――ロゼネリア・ヴィルジェーン。
あまりにもその力は大きく、偉大であった。
「さて、これからのことを思うと少々胸が痛みますね。嘘ではありません」
とても締め付けられる思いです、とロゼネリアが紡いだ。
彼女の天使化は、見た目に大きな変化をもたらすものではない。
ウォルフのように変身して獰猛さを見せるわけでも、大和や曹玲のように武器を顕現するわけでもない。ただ一つ言うなれば、格が違うがチェルシーに似ているかもしれない。発する理力が神聖を帯びて迸発しているその姿はまさしく神のようだった。
「あ――く――――」
「ひぃ――――」
大和とチェルシーは同時に絶句し、歯を鳴らしながら震え上がった。
それもそのはず、彼女は神聖なる女王。ならば傅かなければならないと、働きかけてくるそれはどこまでも強制的だ。
ゆえに、八城大和は動けない。女王を相手に無礼な真似は決して出来ないわけだから。
それこそがロゼネリアの真価であり、神聖なる王位の証しのカラクリだ。玉座の間においては大和の剣も、マッカムの拳すらも無価値となる。
誰しもが自分を害せず、誰しもが頭を垂れる。
そんな国民を、ロゼネリアは第四の純粋愛で以て慈しむ。
あまりにも一方通行。馬鹿げたまでの上から目線。
「……都合の良い能力ですよ。所詮私など、たまたま担ぎ上げられた傀儡に過ぎません」
だが、女王は驕らない。どころか自身への皮肉すら浮かべて見せた。
それは謙遜というよりも、嫌悪の情が染み出ているようだった。
ロゼネリアは誇らない。第四の愛を妄信しないし、自らを女王だと自覚しない。
「座して待つだけなど、子供にもできましょう」
それは立場の否定で、セフィラの否定でもあった。
シェイク・キャンディハートはワガママを通すために世界を求め。
ウォルフ・エイブラムは最高の伴侶をと月を掴み。
チェルシー・クレメンティーナは世に再び安寧をと太陽を内包し。
マッカム・ハルディートは峻厳さを持つがために破壊に呑み込まれた。
能動、受け身の差こそあれ、彼らは皆セフィラの本質と融合し、だからこそ樹の一端を任される天使として転生した。
しかし、ロゼネリアはどうだろう。確かに眩いまでの光輪を頭上に輝かせてはいるが、彼女とセフィラには言いようのない距離が存在する。輪郭が二重にも三重にもブレていたり、あるいは明確な線引きがされていたり。
何より、天使化したにも関わらず、ロゼネリアの調子が寸分たりとも変化していないこと。
マッカムもウォルフも、他の連中も、天使化して本性を曝け出せば多かれ少なかれ昂揚し、血を湧かせて戦意を高めるのだ。
つまり、それこそがセフィラとの迎合で、人の身から天の使いへと変貌した証しと言えるというのに……。
「さて、一度剣をお引き願えますか? このままこうしていても、事態は変わりませんよ」
「……っ」
ロゼネリアはそうではない。
自らを律したまま、セフィラの輝きに中てられることなく淡々と言葉を紡ぐ。
まるでどこか自らを卑下しているかの如き雰囲気は、理解が追い付かない不気味さを孕んでいた。
むしろ、変身前に彼女が有していた慈愛が、今は霞みのように消えている。
愛を含有するセフィラというのに、ロゼネリアはその本質さえ手放していた。
だが、しかし、
「な、何なんだよ……」
剣を戻し、ロゼネリアから一歩引いた大和が歯を鳴らして戦慄していた。
ロゼネリアの在り方は実に歪。だというのに、この気が触れそうになる莫大な神力は一体どういう冗談なのか。額から流れた汗が頬を伝い、顎先からポタリと落ちる。
「どうなってんだよ、てめえは……! ふ、ふざけんな……!」
発生した恐怖が意図せずそんな言葉を吐かせていた。
巨大な神力そのものに対してではない。その発現方法のデタラメさにだ。
電池を逆に接続しているというのに通電させ、どころか電力を跳ね上がらせているかのような異常さに。
「ふざけてなどいませんよ」
どこまでも厳かに、スッと一歩を詰めたロゼネリアが大和の腹に右手を置けば、
「――ガ…………ッ」
ボン、と爆音。彼女の掌から迸った気が大和の呼気を奪い、膝を屈させていた。
攻撃を加えたロゼネリアは依然として落ち着き払っている。努めてそうしているわけでもなく、昂揚も愉悦も見えない空虚な挙動。
不気味だ。とにかく得体が知れない。けれどそこに内包される彼女の決意は反して強固。
頽れた大和を見下ろし、慈悲すら見せず言い放つ。
「悲願の達成がため、あなた方の命を頂戴します」
「――ッ!」
伸ばされたロゼネリアの白い指。
そこから一閃が奔るより早く、紫電を発して脱する大和。
直後に境内が悲鳴を上げた。ロゼネリアの光線が地面を深く抉っていたから。
「――チイッ!」
舌打ちし、雷と化した大和が闇を裂きつつ女王を見やる。
距離を保ち、産毛すら逆立たせて臨戦態勢に入っていたが、それでも不安は拭えない。
「大したスピードですね。わたしなど、とても追いつけはしないでしょう」
「その割にゃあ落ち着き払ってやがんなアンタ!」
「それはそうでしょう」
答えたロゼネリアが右手を掲げ、その五指を大和に向かって躍らせる。
「ッ痛ぅ!?」
空中に広がるのは無数に散りばめられた神力の星々だった。
縦横無尽に疾走する雷獣を包囲し、数の暴力で捕縛していく。
肩に着弾。次いで顎先をかち上げ、仰け反る大和の腹と背中を同時に焼き焦がす。
「…………ッッ!?」
「追い付けないのならば、止めてしまえば良いのですから」
沈着冷静な淑女の言。
耳朶に届いた刹那に側頭部にも一発貰い、衝撃と爆風で聴力がやられてしまう。だけに止まらず、手足の末端に至るまで徹底的にいたぶられてゆく。
喰らうがまま、不恰好に踊る身体から反射的に明滅する雷は、まるで寿命が切れた蛍光灯のフリッカーのようだった。
「ク、ソ……ッ!」
「意地を張るのはお止めなさい。ほとんど神力も残っていないでしょうに、無茶をすれば魂すら燃え尽きてしまいますよ?」
「生憎と、何言ってっか……」
気弾の雨に揺さぶられる。脳震盪を起こしかけるが、続けざまに仕掛けてくるロゼネリアの追撃を――
「聞こえねえんだよッ!」
全方位に迸発させた稲妻で消し飛ばした。
その隙にロゼネリアから距離を取り、着地した大和が肩を揺らして息をつく。
「ハッ……、ハッ……!」
眩暈がする。全身の裂傷は悲鳴を上げて血を流す。それでもどうにか呼気を落ち着け、かぶりを振って聴覚を取り戻す。
だが、ロゼネリアの言う通り、確実に神威は大和を蝕んでいた。
意識が混濁し、視界がぶれる。四肢に力が入らず、暴走する電火が宿り主の皮膚を焼く。
根拆と石拆といった稲妻の神格は、天之尾羽張の中でも特に扱いが難しい諸刃の神だ。
閃光は美しく、煌めく刹那に霧散する。
まさに電光朝露。その力は尊大で見る者を魅了するが、しかし同時に制御を間違えた途端に儚く消える。
「身体に負担が掛かる力を放出し続ければ、参ってしまうのも当然でしょう。力に目覚めて月日も経っていないと言うのに加えて、ウォルフと一戦交えたばかりなのですから」
「うるせえ……!」
投げ掛けられる忠告を、憤怒で斬り捨てる。
だけれど、灼熱の感情のもう一方では冷静に。
息を吸って、吐く。そして――目を瞑った大和はその場から消えていた。
「――」
目を見張るロゼネリア。その背後には雷光の大和。
刀身が疾走する。彼女はそれを感じながら、なるほどと意を得た。
大和は近づいてきた瞬間、ロゼネリアを意識していなかったのだ。
「その戦闘における勘と閃き、予行無しに動ける実行力。素晴らしい、驚嘆します。認めましょう、正解ですよ」
そう、ロゼネリアは自分の知覚する領域で、敵に自らを意識させることで能力を発動する。
攻略するには無心になること。女王などいないと徹することで、玉座の呪縛から逃れられるのだ。
確かに背後からの不意打ちは、ロゼネリアを誅する唯一の手段と言って良い。
しかし、ロゼネリア・ヴィルジェーンは動かない。必要が無いから。
なぜならば、どんな達人であろうと、攻撃の瞬間には意識を向けて殺意を飛ばす。殺気を完全に消すことなど不可能であるからだ。
不意打ちを成功させるには多数で攻めて殺気を紛らわせるしか方法はない。つまり、一対一では打破できない。
そう、今のロゼネリアは大和を意識している。ゆえ、たとえ雷速で背後から斬りかかろうが、その切っ先は彼女の肉体に届く寸前に停止する。要は相対している段階で詰んでいるのだ。
あるいは、ロゼネリアに自らを知覚させないで近づき、そして殺気を感じさせた瞬間には殺せる速度を有していれば話は別だが、これを実行できるのは野生染みたウォルフくらいのもので、大和では気配の全てを隠しきれない。
だからこそ、ロゼネリアは驚愕した。
刃が、自身の首に届いていたから。
「悪いもんが憑いてるぜ?」
キラリ、と刀身が反射した。
水の神。透き通るような煌きの刀、闇御津羽。
斬り殺す、とは大和は考えていなかった。
女王よ、悪いものがお憑きになっておりますゆえ、自分が浄化してさしあげますと。
これは謀反ではなくあくまで忠信。彼はそう心に誓ったからこそ、その切っ先を走らせることに成功していたのであった。
しかし――
「な、に……!?」
「効きませんよ」
無防備なその首。しかし水の刃は薄皮すら裂くことが敵わなかった。
相変わらず荘厳に、聞かせるようにロゼネリアは言ってのけた。
「皮肉ですね。第四とは純粋愛。正も邪もありはしません」
ゆえに流水など意味がないのだと、言外に大和に告げる。
「こ、の……ッ!」
「聞き分けがありませんね、言葉が通じるのならば獣のような愚行はお止めなさい」
なおも押し込めてくる大和に対して冷徹に言ってのけ、ロゼネリアは刃先を掴むと大和を剣ごと投げ捨てる。
「ぐあぁッ……!」
背中を地面にしたたかに打ちつけ、しかし大和はそれでも跳ね返った身体を翻して常態に戻し、膝をついた状態でロゼネリアを射抜く。
「く――――!」
しかし、大和が感じるのはやはり常識外れなまでの圧力だ。容易く折れそうな細身の肢体を持つ女性の微笑みは、けれど牙を剥いたウォルフ以上に寒気がする。
足が一歩も動かない。ロゼネリアの能力とは別に、敵だと、下種だと判断しているのに、恐怖ですくみ上がってしまう。
ちらりと辺りを見渡せば、良いように利用された曹玲や、へたり込んで泣いているチェルシー、未だ宙にいる美琴が苦しんでいるというのに。彼女らを追い詰めた張本人が目の前にいるというのに。
「許せねえ……!」
喝を入れる。腹に力を込めて天之尾羽張を固く握る。
決して引かない後退しない。
魂燃やせ、燃焼させろ。後先なんか知ったことかと全身に血を送る。今無茶を通さずして、一体いつ踏ん張るというのだ。
命を幣帛させて神威と呼応し、雷神の力を今一度引っ張り出す。ぶちりぎちぎちと身体が悲鳴を上げて血飛沫くが、痛みは邪魔だと斬り捨てる。
一拍溜めを入れてから、最高速度の雷光で大和は再び飛び込んだ。
「るああああぁぁぁあぁああッッ!」
「良いでしょう。納得ゆくまでお付き合い致しましょう」
ロゼネリアは告げて、直立のまま動かない。迫る雷の斬撃を無理くりに停止させてから、お返しの閃弾を大和の心臓に叩き込む。
「っオ――……」
血反吐を吐きつつ、しかし大和は止まらない。紫電を滾らせながらロゼネリアの首を、足を、心臓をひた狙う。その速力、まさに閃光。傍から見たところで、光の帯が何本か走っているようにしか感じないだろう。
が――
「どこを狙っているのです?」
それらの剣閃は届かない。静謐を保ったロゼネリアはそれらの連撃を自身に触れさせず。
第四の玉座の神威。彼女の見下ろす景色の全てが傅いて頭を垂れる。
そのド外れたご都合の塊は、他の力を必要としない程に性質が悪かった。
彼女の真価はその神力。ロゼネリアを正面から叩き伏せることが可能なのは、彼女以上の格を持った者に限られる。生命樹の中では第三以上の三名だけだ。
証拠として、五十を超える攻撃を繰り出しながらも未だに大和の攻撃はロゼネリアに到達すらしていないのだから。
「ぜっ……! はっ……、はあ……っ!」
そして大和は、次第に息を荒げ、激しく昂ぶる雷鳴の神格に牙を剥かれ、神威の激情に呑まれかかってきていた。
激昂とも言える負の感情は黒の渦巻きとなって混ざり合い、大和の視界を、理性を奪っていく。
「う――アァ――――」
目が霞む……。頭が働かない……。忘我に近い状態にまで呑まれながら、それでも大和の剣先はロゼネリアを狙って追い続ける。
「ぐっ……、美、琴…………!」
ぼんやりしていられるか。負けたら最期、美琴もチェルシーも曹玲も死んでしまう。意識をしっかり保ち、両眼に力を宿さなければ。
「なるほど、頑張りますね」
「っせえ……! あんま、ガキを舐めんな……!」
再度意識をはっきりさせた大和は、鼻を鳴らして感心しているロゼネリアにどうにか一撃を喰らわせようと試みる。
直接の攻撃では駄目ならば、ロゼネリアの周囲を雷熱で閉じ込め、動きを封じようと。つんざく雷の音で以て、間接的に意識や集中力を消そうとする。そして瞳に悪辣さが浮かんだ瞬間に聖なる水の刃を走らせたが、しかし、
「ちっきしょお……ッ!」
当たらない。届かない。何より、意味が無い。試みた攻撃回数は百を優に過ぎていた。
そして、時折返されるロゼネリアの神気の波動。
胸板が砕け、アバラが数本持っていかれる。剥がれた爪は六枚に達していた。
目端を彩る赤の淵が煩わしく、瞬きをすれば今度は視界全体に広がってしまう。垂れ落ちる雫が鼻に鉄臭をこびり付かせ、五感全てが死の一色で塗り潰されてゆく。
血の味が頭から離れない。剣の柄がやけにぬるついて握り辛い。
気力を、体力を、確実に、そして加速度的に大和は失っていき、遂に――
「く……、あ…………」
八城大和は、疾走するのをやめてしまう。
がくりと、力なく両ひざを地面につけて活動を停止した。




