崩壊する思い出
暗い泉の奥底で、揺蕩うように全身を脱力させている。
四肢に力が行き届かず、脳にも意志が宿らない。
このまま溺れ死ぬのだろうか。呼吸をやめてしまった身体は着々と生を手放そうとしていた。
「…………さん!」
耳朶に届いた透き通る声。ピクリと指先が反応する。
大切な声。護りたかった声。けれどそれは悲痛な色を灯していた。
これ以上悲しませてはいけない。だったらやるべきことはただ一つだ。
身体は壊れていないだろうか。ゆっくり、ゆっくりと確かめながら力を込めてゆく。
そのまま意識の糸を手繰り寄せるように、水底から這い上がった自分はもう一度目を開けた。
「……何とか、生きてるか」
「――八城さん!」
「わっ!?」
起き上がった瞬間、懐に抱きついてきた人物に驚いたが、それが誰なのか確認した大和はフッと力を抜いた。
「いてーってチェルシー、腹に風穴開けられたんだからよ……」
「よかった……! よかった生きてて……! 死んじゃったかと思ったよぉ……!」
「お互い様だろ……。お前だって髪の毛真っ赤じゃねえか」
「そんなの、洗えばいいもん……」
「そういう問題かよ、ったく……」
言いつつ、大和は抱きついているチェルシーの血に染まった髪を手で梳いていく。
華奢な身体だ。こうして見れば何ら普通の女の子と変わらない。痛々しい少女の姿を見ていると言いようのない無力感に苛まれてしまう。
だが、一旦の脅威は追い払ったはず。確認するように大和が発した。
「奴は、死んだのか?」
「……分かんないです。わたしも気絶してて、さっき目を覚ましたばかりだから」
そう言って、ようやくチェルシーが大和から離れた。
身体を起こした彼女は大和の手を引いて立ち上がらせ、空を仰いで言った。
「でも、月がどこにも見当たらないから恐らくは……」
「ウォルフが死んで、セフィラが解放されたってことか?」
「はい。少し経ったら、また元通りの月が現れるはずです」
「……そうか、あの銀の月に悩まされることもなくなったってわけだ」
チェルシーに続くように夜空を見上げ、そして眉根を寄せた。
悪党だったとはいえ、敵を殺したのはこれで二人目だ。後悔する気はないが、胸に積もるしこりだけはこの先も忘れてはならないと心に刻む。
ドンと一度胸を叩いてから、次いで腹へと手をやった。
「……傷が塞がってる」
どういう理屈かは知らないが、拡がった風穴は再び血肉で再生していた。
人間をやめたことによる回復力か、それとも貫かれたのが自分の気で生み出した剣だったからか。
(……桜?)
足元にあった一枚だけの桜の花びらに気付く。
場所的にも季節的にもあるはずがない物で、どうしてと首を捻ったが、しかし今は他のことが優先だ。
気になった大和が「お前はどうだ」とチェルシーに尋ねた。
「身体だけなら……わたしも少しは回復してます。ただ、神力の方がそっちに取られてほとんどすっからかんですが」
「なら良いさ。お前はもう休んでろ」
「八城さんはどうするんですか?」
「……ロゼネリアをぶっ叩く。お前にゃ悪いが、奴をこのまま見逃すわけにはいかねえ」
「いえ……、こうなったらもーバシッと叩いちゃってください。わたしもロゼには賛同できないですから。ただ、わたしも行きます。あの人に聞いておきたいことがありますので」
「わーったよ」
チェルシーの言葉を聞き、グッと肩を伸ばす大和。
「マッカムのことも気にはなるが、曹玲を信じてあいつは任せることにする」
「え……?」
「なんだよ心配すんなって。曹玲なら多分心配いらねえと思うぞ」
「いえ、そうではなく……」
肩を竦めてそう言った大和に対し、チェルシーは瞳を揺らして口を開いた。
「感じられないんです、マッカムの気配が。……それに、曹玲の気配も」
「……あ?」
間の抜けた大和の返事。しかしそれとは対照的にくちびるを戦慄かせるチェルシー。
「――まずい! 八城さん、早く神社に向かわなければ!」
「俺んち? なんで急に?」
「神崎さんが危ないんです!」
「――ッ!」
急転して場が張り詰める。焦燥するチェルシーが「どうして気付けなかった」と自らを悔やんだ。
「ロゼは今のわたしには期待してない。いえ、おそらくは最初から……。となれば、樹の反転に必要な太陽の力を掌握し、そして邪魔立てする天照の力を消すことが同時にできる方法は」
「――美琴の、命ってことかよ……!」
「はい。でも解せない点もあります。わたしの代わりに第六を内包させる人物がいるのか。それと、今の生命樹はあまりにも欠員が多すぎる……。反対も出るに違いないのに、だからマッカムを……?」
口元に手を当てて思索するチェルシーを、大和が割り込んで途絶させる。
「考えは後だ! 美琴が危ねえ、急ぐぞ!」
「は、はい。分かりまし――わわっ!?」
狼狽えるチェルシーを無視し、大和が彼女を抱え上げる。
「や、八城さん、だいじょうぶですよ、わたし走れますってば!」
「っせえ、ケガ人は黙ってろ」
「それはあなただって――ひゃ!?」
文句は聞き入れない。
少女を担いだ大和は、再び電光石火と化して夜闇を切り裂きながら疾走した。
「あら、お久しぶりですね八城さん。林のなか以来でしょうか」
陽明神社の境内。全速で辿り着いた大和らを迎えたのは、優しく柔和で、慈母の如き微笑みを見せる淑女の挨拶だった。
しかし、それとは裏腹に、発する気配は禍々しくおぞましい。笑顔の仮面を被り、今や白濁としか思えない衣を纏った生命樹の第四。
「ロゼネリア……!」
抱えたチェルシーを下ろした大和が犬歯を剥いてロゼネリアを睨め付ける。
しかし、毛羽立つほどに尖った怒気を真っ向から受け止めてなお、ロゼネリアの微笑は崩れない。長いブロンドを払ってからクスリと笑む。
「そう殺気立たないでください。眠っている子もいますので、起きてしまいます」
言った彼女が横目で示せば、そこには気絶して倒れている曹玲が確認できた。
そして、
「や、大和……」
「――美琴!」
本殿の直上、その空中で神力によって拘束されている神崎美琴の姿も。
「待ってろ! 今助けてやる!」
「あら、せっかちですね。まだ話は終わっていないというのに」
「――帛迎!!」
黙れと言わんばかり、大和が神気を集中させて虚空から剣の柄を引っ掴んで呼び寄せる。
顕現された天之尾羽張。袈裟方向に一度振り、構え直して言い放つ。
「ここで終わらせてやる。お前の馬鹿げた計略は未遂のまま打ち止めだ!」
「くふふ……」
その言葉に、ロゼネリアは含み笑い、「残念」と一言告げる。
「もう計画の土台は完成しています。あとは仕上げを残すのみ」
「あ?」
態度で問うてくる大和に対し、ロゼネリアはトンと自らの眉間を指でつついた。
「ここを撃ち抜かれれば人は死にますよね。実は先ほど、一歩間違えれば殺されそうになってしまいまして」
「なに……?」
「これは私にも嬉しい誤算でした」
言って、ロゼネリアは宙を見やった。
そこに漂っている神崎美琴が、呻くようにして声を絞った。
「わり……、大和……。あたしじゃ……だめだったよ」
「美琴! 喋んな、すぐに終わらせる!」
「彼女、なかなかに肝が据わってらっしゃいます。明確な殺意を持って私を仕留めようとし、その次の手も用意していたのですから。実に優れた魂ですよ」
「ごちゃごちゃとうるっせえ! さっさと美琴を解放しやがれ!」
「残念ながらそうもいきませんので」
くつくつと喉を鳴らすロゼネリア。どこまでも機嫌良く嗤う。
「神崎さんは天照の神力を常日頃から浴び続けた特上の器――巫女でありイタコであることは八城さん、あなたも気付いてらっしゃいますね」
「……それもみんな、この神社の力に中てられたからだ」
「ええ、だからこそ生命樹への影響も計り知れないものがありました。であれば、排除するのではなく、モノにするのが賢い選択でしょう」
「ハッ! よく言うぜ、だったらなんであいつを黄泉に堕としやがった! 破綻してるぜテメーの理論は」
「いいえ、神崎さんはあなた達が救い出すと分かっていましたから」
「は……?」
大和の反論を、しかし鷹揚に撥ね返すロゼネリア。
目を皿にして突っ立つ大和を優しく諭すよう、彼女は続けた。
「あなたは黄泉での出来事をきっかけに、見違えるほど成長致しました。あなたの持つ伊邪那岐の力が必要でしたので。そう、それは天照も、大国主も――」
瞬間、ロゼネリアの眼光が鋭く染まる。
次いで境内の端に倒れていた曹玲の身体が浮かび上がった。
「――が、アアァァア――――!?」
紫電すら見せるロゼネリアの神力に蹂躙された曹玲が苦悶の絶叫を迸らせた。
「てめえ!?」
「ふふ、怖い怖い」
大和の咆哮に微笑み返し、ロゼネリアは曹玲を解放する。
どさりと再び地に落ちた曹玲が苦痛に喘いで咳き込んだ。
「ロゼ……ネリア……!」
「大人しくしていなさい曹玲。マッカムにやられた傷はまだ痛むでしょう?」
曹玲に声を掛ける彼女に、大和が割り込む。
「そのマッカムはどうした?」
「始末しましたよ。些か邪魔だったもので。五年前の彼の手により、八百万の使徒となる曹玲の覚醒は達成されましたしね」
「――」
ごまかす素振りも見せず言ってのけるロゼネリアに、大和は底冷えする気分に陥った。
やはり、この女はどうしようもない。悪党そのもので、何より性質が悪すぎる。
すると、大和と同じく戦慄していた側の少女が弱々しく呟いた。
「ロ……ロゼ……」
「あら」
震えるような凍えるような声を受け止め、自分を信じられないような目で見つめてくるチェルシーに一言だけ反応し、口角を上げたロゼネリアが返した。
「どうしましたチェルシー。ああ、そんなケガをしてかわいそうに。ウォルフに苛められたのですか?」
「ひっ――――!?」
しかし、笑顔と優しい言葉を上塗っているだけのロゼネリアの表情には絶対的な冷気が存在しており、その証拠に彼女の目は全く笑っていなかった。
「あなた、日本が好きになっているのでしょう?」
「……ッ」
その言葉にビクッと身体を縮ませるチェルシーだが、対するロゼネリアは鷹揚に告げた。
「いえ、べつにそれを糾弾なんて致しません。むしろ望むところで、大いに結構ですから」
「え?」
優しげなその口調に、我知らずチェルシーの全身から力が抜ける。
「というよりも、それが目的であなたをここ、陽明神社に出向かせたのですけど。いやはや、元々あわよくば、という話でしたからね。あなたにも八百万の神の力を降臨させる、というのは」
「…………?」
チェルシーは小さく首を捻った。
それは……一体……どういう意味なのだろう?
理解が追い付かない。頭が……回らない。
「だめ……、チェルちゃん……耳を、貸さないで」
ろくに自由が効かない状態でありながら、美琴が必死に割り込んできた。
そこで同じくして思い至った大和も、「もう喋んなよあんた!」と怒号を上げる。
だが、悪辣極まる淑女の口は止まらない。
「心配要りません。天照がいるんだから。伊邪那岐も大国主も無事覚醒を遂げた。であれば、チェルシー、あなたを――」
――贄として捧げる意味もない
「……え」
「やめろてめえ!」
「というより、贄としての土台すら出来てはいませんが。ああ本当に奇跡を起こせない凡庸な子ですね。まあそれが可愛らしいのですが」
「…………」
チェルシーは言葉を発せず呆然とする。カクンと腰が抜け、今にも倒れてしまいそうなほどに。
「しかし、正直私は寂しいですよ。あんなに懐いてくれたあなたが私の元を離れてしまうのですから」
「だ、だ……だって……、だって……!」
小刻みに首を振りつつ、チェルシーは涙を浮かべ、しかし一歩も動けずに固まっていた。
このとき彼女を襲っていたのは絶望と恐怖。
今まで母親代わりだと慕っていた相手、ロゼネリアのこのような恐ろしい表情、そして信じられない言動を、チェルシーは生まれて初めて見た。そしてそれは、やはりウォルフが言っていたことが紛れもない事実なのではないかと、じわじわとチェルシーの脳内を満たしていき……。
「せっかくそこまで強くかわいくしてあげたというのに……。幸と不幸を経験させて強い女の子にするため、せっかくそのためにわざわざあなたの家族を――」
「やだ……やだやだ……、イヤ…………ッ!」
言わないで……その先を言わないで……!
しかし……、ロゼネリアは口端をめくり上げ、どこまでも冷酷無比に、
「――殺して差し上げたというのに」
「やっ……――」
その時、チェルシーから色が消えた。
冷や汗すら瞬時に消滅し、どこが前でどこが上かも正確に判別できない。
爆ぜる寸前の陶器のようなチェルシーに、嬌笑を見せたロゼネリアが「そうそう」と懐から何かを取り出す。
「旅立つあなたに私から最後のプレゼントです。どうか受け取ってください」
言って、ロゼネリアがそれをチェルシーに放っていた。
ソフトボール程度の大きさのものが放物線を描き、チェルシーの足元に落ちてコロコロ転がる。
「――チェルちゃん! 見ちゃ、ダメッ!!」
「ぁ……」
美琴の制止も虚しく、瞳の光を失ったチェルシーがその物体を拾い上げると――
「――――」
首だった。小さな子猫の。
彼女が拾い、行動を共にした黒猫のヤマトの首。
「その子、必死に私に喰らい付いてきましたよ。忠臣を持ちましたねチェルシー」
「――ヤダあぁぁぁぁぁあああぁああああッッ!!」
「てんめええッッ!!」
遂に崩れ落ちたチェルシーの絶叫を浴びた大和が赫怒して雷を爆発させた。
斬る。斬る。斬る!
その首を!
その忌まわしい呪いを吐く口を!
その不遜と汚濁に塗れた双眸を!
切り刻み、粉微塵にして黙らせる。
明確なビジョンを見据えた大和はロゼネリアを必ず殺傷すると心に叩き付け、紫電の速度で距離を殺し、敵の首を遊び無しに容赦なく斬り落とした。
「な――っ!?」
――はずだった。
驚愕する大和だが無理もない。
稲妻の速さで、剣身を怒りに燃え滾らせ、敵手の頭を空に飛ばす。
その光景が見えていた。
だというのに、八城大和はロゼネリアの直前で剣身を寸止めしてしまっていたのだ。
「どうしました? そんな顔をして」
「ば……馬鹿な……!」
震える。カタカタと、十拳の剣を握った右手が慄く。
全身を纏う紫電は感情の昂ぶりによって密度が跳ね上がっている。
美琴やチェルシーを弄び、曹玲を利用して、仲間までもゴミのように扱う人間の屑。
烈火の怒りが湧くのは当然で、ゆえに大和は感情のまま瞬時にケリを付けようと思った。
にも関わらず、彼は未だにロゼネリアを殺せぬどころか攻撃すら出来ていない。
いや――違う――これは――
「なかなか敏いじゃないですか。もう気付いたとは」
「こ、の……!」
そう、動かないのではなく動けない。
先ほど大和がロゼネリアの首を斬り飛ばした映像は、彼が夢想した幻に他ならない。
べつにこれは今の美琴のように、術で拘束されているわけではない。
単に、八城大和が、ロゼネリア・ヴィルジェーンに対して、斬りかかれないだけなのだ。
彼女の発する威武に中てられて。
「ざ……けんなよ……ッ!」
今更この程度の力にビビってたまるか。
喝を入れるがしかし、大和はロゼネリアの側にいてあと一歩が踏み出せない。
やはりこれは解せない。確かにロゼネリアの神力は高い。けれども絶望的というほどのものではないのだ。ウォルフと死闘を繰り広げた大和であれば、問題なく死線を踏み越えられるはずである。
そんな彼の思索をよそに、ロゼネリアは穏やかといえる調子で大和に声を掛ける。
「八城さん、私はあなたを過小評価など致しません。それに、そもそも私は強くなどありませんので、全力で行かせて頂きます」
「――クッ!?」
歯噛みする大和の眼前で、ブロンドを靡かせる淑女の頭上に光が顕現されてゆく。
直後、天空が落ちたかのような錯覚を、その場にいた全員が味わわされた。
――繋錠光輪。




