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暗い森  作者: 工藤るう子
3/3

後編

 18禁にはいたらないとは思うのですが、グロテスクな表現がありますので、苦手な方はご注意ください。



※ ※ ※




 病気でダウンしていたという間の記憶は、メルローズにはない。


 いつ、何の病気にかかったのかも覚えてはいなかった。


 ザンテに訊いても、どうでもいいことだ――と、教えてはくれない。


 何の病気だったのか知りたいと拘るのは、あれから十日が過ぎたというのに、日々酷くなってゆく気持ち悪さのせいだった。


 何を食べても空腹がおさまらない。吐き気がして、喉が渇いてならなかった。


 ――おかしい。


 心配をかけてしまいそうだったから、こんなこと、ザンテに相談などできない。


 心配をかけてしまいそうだったから、いつもと変わりのない生活をつづけるので精一杯だった。


 しかし、日光が煩わしく感じられてならないのだ。からだが怠くてならないのだ。


 日の光が辛くて、居間よりも書斎で一日を過ごすようになっていた。


 薄暗く埃っぽい書斎で、足を投げ出すだらしない格好で、ソファの足に背を持たせかけていた。


 音もなくドアが開き、黒い愛犬がメルローズに近づいた。


 爪が床に当たる音を響かせて、傍らに来たヴィイは、彼に寄り添うように腰を落とした。


 ぺロリ――と、口を舐められ、鼓動がひとつ大きく刻まれた。


 堰を不意に切られたような心臓の脈動の激しさにもかかわらず、血が下がってゆく。


 床がたわむ。


 目が回る。


 全身が冷たくなり、小刻みな震えがおさまらない。


 ――ホシイ。


 頭の中を占める渇望と飢餓とに、片隅にかろうじて貼りついていた理性が警鐘を鳴らす。


 ――ダメだ。


 欝金の一対が、目の前にある。


 見上げてくるまなざしに、くるくると心の奥底からよみがえる記憶。


「あ……あ…………」


 震えるくちびるからこぼれ落ちるのは、苦痛の響きをはらんだ、単音ばかりだった。しかし、やがて、抑えきれなくなった。えづくような苦鳴は、喉が裂けんばかりの悲鳴となって、メルローズからほとばしったのだ。




 ザンテが、館中に響いた絶叫に駆けつけたとき、書斎は血の海だった。


 むっと鼻腔を射る血と内臓の匂い。普通の神経の人間なら耳をふさぐだろう、ぴちゃぴちゃと汁気に溢れた生肉が咀嚼されている音が、ザンテの耳に届く。


 引き裂かれたメルローズの愛犬ヴィイが、臓物を喰らわれている最中だった。


「メルローズ」


 恐怖も驚愕もない落ち着きはらったザンテの声に、ドアに背中を向けていたメルローズが振り返った。


 薄闇の中、血にまみれたメルローズが、ヴィイのものだろう肉を咥えている。


 そんな、背筋が逆毛立つ(そそけだつ)ような光景にも、


「それでは、腹が膨れまい。こっちへこい」


 穏やかな声で、手さえ差し伸べる。


 理性をなくしているだろう、闇で光る一対のまなざしが、ザンテのことばを理解するためにか、かすかに眇められた。


「おまえが一番ほしいものなら用意してある。さあ」


 厭な音をたてて、咥えられていた肉が床に落ちる。


 ゆらりと立ち上がったメルローズは、差し伸べられた手を取り、ザンテに導かれるままに、進んでいった。




 地下の研究室の奥に黒い鉄の扉がある。


 ザンテはその扉の前に、メルローズをいざなった。


 扉を開けると、異臭がつんと鼻を突く。


 赤レンガ造りの部屋の壁ぎわに、なにかがいる。


 音もなく蝋燭に火がともり、うすぼんやりとしたオレンジの光が部屋を照らし出した。


 ガチャリと、金属がぶつかる音がする。


 ウウウと、獣のもののような声。


 壁から伸びた短い鉄の鎖に繋がれているのは、四人の男だった。


 垢染みて汚い男たちの目は、どれもこれも恐怖に見開かれている。


「そこで待っていろ」


 極限まで開かれた四対の瞳がザンテとメルローズとを交互に見やり、いやいやと首を振る。


 床の上に、なにも縛めていない、一揃いの鎖が黒い蛇のようにとぐろを巻いている。それを邪魔そうに足蹴にし、ザンテは四人の男たちを吟味しはじめた。


「メルローズ、どれがいい?」


 ガチャン!


 ひときわ大きな音がして、男たちがいっせいに後退あとじさる。


 流す涙が、冷たい汗が、頬に額に縞を描く。


 喉に巻きつけられている拘束具が、男たちの口からことばを奪っていた。


 血まみれのメルローズは、小首を傾げて、ザンテを、ついで男たちに視線を向けた。


「これか? それとも、あれか? ちがうのか? ああ、わかった」


 軽やかな足取りで、哀れな男に近づき、


「これだな」


 確認を取る。


 にっこりと、メルローズが、笑った。


 もがく男の目を覗き込み、


「逃がしはしない。逃げられない。私の宝物を壊した罪は、その身で償ってもらう。前の男のように、あっという間に死なないでほしいな。もっとも、死ねないが。覚悟しておいたほうがいいだろう。今のメルローズは、ヴィイを喰らっていた後ということもあって、少しは、空腹がおさまっている」


 噛みつこうとする男に、


「狂うのもなしだ。メルローズが最後のひとかけらまでおまえを食べきるまで、死ぬことも狂うこともできないようにしてやろう。何日かかるだろう。前の男は、まだしも、幸福だった。私の呪いを受けることなくすぐに首の骨を折られたのだからな。おまえは、自分の不幸を呪え。できるのはそれだけだ。おまえたちは、それだけの罪を犯したのだ。わかっているだろう」


 冷ややかな声で、歌うように告げるのは、美しい男の姿をした、ひととは別種のいきものなのに違いなかった。



 

※ ※ ※




 鳥のさえずりに目覚めた。


 目覚めかたとしては、最上級だろう。


 全身が軽い。空でも飛べそうだ。あれだけ怠くてならなかったのが嘘のようだった。


 いつ眠ったのかも記憶になかったが、この爽快感の前では、なにほどのことではない。


 既に起き出したのか、昨夜を徹夜で過ごしたのか、ザンテはベッドにいなかった。


 彼と一緒に美味しい朝食を摂ろうと、メルローズは勢いをつけて上半身を起こした。


 カーテンを開けると、すがすがしい朝の陽の光が、ガラス越しに入り込んでくる。窓を開けて換気をすませると、メルローズはキッチンに向かったのだ。


 テーブルの上に、サラダとベーコンエッグ、スープ、色とりどりの果物などの、メニュウが並べられた。


「よし」


 かるくたたんだエプロンを椅子の背にかけて、おそらくは地下にいるだろうザンテを呼ぶために、キッチンを出た。


 その部屋の前を通り過ぎようとしたときだった。


 突然の悪寒におそわれたのだ。


 足がぴたりと止まる。


 動悸が激しくなり、脂汗がしとどに全身を濡らす。


 なにが起きているのか、わからない。


(なんだ………。このドア……書斎?)


 くらくらと今にも膝を折ってしまいそうだった。


 肩で息をつきながら、かすむ瞳で、ドアをにらみつける。


 自分に襲い掛かっている、この不快感の正体を知らなければならない。そんな、なんともいえない強迫観念が襲い掛かってきたのだ。


 恐怖と罪悪感とがないまぜになったかのような、壮絶なプレッシャーである。それをどうにかして追い払いたくて、そのためには、正体を知らなければならないと、メルローズは、内心の葛藤に震える手でドアノブを握り、やっとのことでまわした



 そうして―――――




 足元の床が抜けたような錯覚があった。


 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。


 殷々と直接脳の奥にこだまする、いつか聞いたのと同じ、彼を否定する声。

 耳を塞いでも声は消えず、目を瞑ろうとして、叶わなかった。


 見えないなにものかに無理やりこじ開けられたかのような視界の中にいるのは―――


(あれは、オレだ。いったい、なにをしているんだ)


 薄暗い室内で床にしゃがみこんだ自分の丸めた背中を凝視しつづける。と、突然振り返ったその顔は――――その口に咥えているものは―――――


 !


 ―――――――そうして、メルローズは、すべてを悟ったのだった。




※ ※ ※




 地下室のドアが開く音に、視線を泳がせる。


「メル。起きたのか」


 フラスコやビーカーなどさまざまな実験器具の並んだ部屋である。


「ザ……ザンテ」


 しわがれた声が、落ちて砕けた。


「思い出したのか」


 肩をすくめ手を広げて見せるザンテの前の、大きな実験用の机が、目に飛び込む。べっとりと固まりかけた血に濡れて張りついた短毛の黒犬の腹部は引き裂かれ、骨と脂肪と肉とがぬめっている。


「もう少し眠っていれば、ヴィイもいつもどおりになったのだが」


 ぐらぐらと揺らぐ世界に、堪えきれず膝をつく。


 そんなメルローズの背中を、ザンテがさすった。


「ああ、体力が落ちてしまう。今は調子がいいかもしれないが、じきにまた辛くなる。だから、先に上に戻っていろ。私はヴィイを元通りにしてからいく」


 踵を返しかけたザンテの手を掴み、


「やめてくれ」


 うなだれ、懇願する。


「やめてくれ。もう、ヴィイをよみがえらせるのも………」


 しゃがみこんだザンテの手が、メルローズの顎にかけられる。


 うつろな黒い瞳を、欝金のまなざしが覗き込んだ。


「なぜだ?」


「もう――あんなこと、いやだ」


「あんなこと? ああ、ヴィイを食べたことか。それとも、おまえを殺した男を喰らったことか?」


 隠すことも躊躇することもなく、ザンテが真実を口にする。それに怯みそうになる己を叱咤しながら、


「どっちも―――。………あんな、あんなことをっ」


 口の中によみがえる血と肉との感触に、からえづきがこみ上げてくる。


「ヴィイがいないと困るのはおまえだろう。それに、あの男たちは、おまえを壊して殺した。私がどんなに悲しかったか、おまえにはわからないのか?」


「でも、エリクシルを使ってまで――あれは、不完全だって」


「私は、おまえだけは、なにがあっても失いたくない。失うつもりも、ないな。そこに可能性が転がっているのだ。使って、なにが悪い」


 ことばもなく、メルローズは、饒舌になった恋人を見やる。


「まぁ、さすがに不完全なものだから、不安だった。だから、最初にヴィイで試してみた。うまくいったと思った。だから、おまえを生き返らせた。見た目は完璧だったのだが――――、おまえは、月齢に影響を受ける。月が欠けるにしたがって、ひとの肉を求めるようになる。だから、私は、おまえを傷つけたものを探し出して、おまえに与えることにした。当然の報いだな」


「そんな………」


 ふいに、疑問がわきあがった。


「…………男は、あと、三人いた。けど」


「そうだ」


 ザンテが、クスリと、笑う。


「オレが……三人が死んだ後は」


「そんなこと。おまえが気にすることじゃない。人間などいくらでもいる」


 物騒なせりふをけろりと吐いた最愛の恋人を、メルローズはただ見つめつづける。


「大丈夫だ、メルローズ。おまえが心配することはなにもない」


 そう言うと、ザンテは、メルローズにくちづけたのだった。


「おまえに、こんなところは似合わない。上に戻っていろ」


 ひとを喰らう食人鬼となり果てた自分を見て、なぜそんな睦言めいたささやきを口にできるのか。


 甘いことばは、今の自分に向けられているのではないのだ。


 それは、きっと、殺される前の自分にだけ向けられているのに違いない。


 階段を上るメルローズの足取りは、鉛よりも重いものだった。




※ ※ ※




「またか――――」


 足元に横たわるメルローズを見下ろして、ザンテは独り語ちた。


 キッチンの床には、包丁が転がっている。


 よみがえったヴィイが、血の気のうせたメルローズの顔を舐めるが、既にこときれているメルローズが愛犬に答えることは、もはやない。


 じわじわと床を侵食してゆくのは、掻き切られた首から流れる血液である。


「勝手なことを。私は、おまえが生きてそこにいさえすれば、それでいい。なぜ、それがわからない」


 抱き上げた恋人をかきくどいても、愛しいものには、もう届かない。




 沈黙が、キッチンに降りつもってゆく。




 どれくらいの間、身じろぐことすら忘れて恋人を抱きつづけていただろう。


 次にザンテが顔を上げたとき、彼の欝金のまなざしには、とろりと暗い熱が宿っていた。

 

「おまえが幾度死を選ぼうと、たとえ死こそがおまえの安らぎだとしても、私がおまえをここに引きずり戻してやろう」


 軋る声でつぶやいたザンテは、メルローズを抱いたままで立ち上がり、地下へと引き返していったのである。


 足元には、黒い犬が、従っていた。




※ ※ ※




 ――目覚めてはいけない。


 なぜ? やっと、彼に会えるのに。


 ――いけない。


 こんなにも会いたくてたまらないのに。なぜそんなにひどいことを言うんだ。


 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。


 それしかことばを知らない、モノマネ鳥が繰り返しているかのようなその声に、無条件に従ういわれなど、ない。


 ――ザンテ。


 恋人の名前を口にする。


 こんなにも会いたくてならないのに。


 愛しいものの名前を、味わうように、口にする。


 あなたに会えるなら、何をなくしてもかまわない。


 だから! 


 からみついてくるモノマネ鳥めいた声を必死になって振り払い、ようやく、メルローズは、長く重怠い眠りから目覚めたのだった。


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